資治通鑑唐紀 昭宗聖穆景文孝皇帝 天復 元年 781年

正月 反正クーデター

  • 正月乙酉朔、王仲先が入朝して安福門に至ると、孫徳昭がこれを捕えて斬った。
  • 孫徳昭はそのまま少陽院に駆けつけ、「逆賊は誅した」と告げたが、何皇后はすぐには信じず、首級を見せるよう求めた。首を示されてようやく昭宗と皇后は門を壊して外へ出た。
  • 崔𦙍は昭宗を長楽門楼に迎え、百官を率いて賀した。周承誨は劉季述を捕え、王彦範も来たが、その場で責められて殴り殺された。薛斉偓は井戸に飛び込んで死に、遺体を引き上げて斬った。
  • 四人の一族は皆殺しにされ、党与二十余人も誅された。
  • 宦官たちは太子を左軍に匿し、伝国宝を差し出した。昭宗は「裕は幼弱で、凶徒に立てられただけだ」として罪を問わず、東宮に戻して徳王に降し、名も旧に復させた。

反正功臣への賞と朱全忠の処置

  • 丙戌、孫徳昭は同平章事・静海節度使となり、姓を李、名を繼昭と賜った。
  • 丁亥、崔𦙍は司徒に進み、皇帝の待遇はますます厚くなった。
  • 己丑、朱全忠は劉季述ら誅殺の報を聞くと、程巖の足を折って長安へ送らせ、そこで処刑した。劉希度・李奉本も市で斬られた。これにより李振の評価は一段と高まった。
  • 庚寅、周承誨は嶺南西道節度使となり李繼誨と賜名され、董彦弼は寧遠節度使となって李姓を賜った。三人とも同平章事を帯び、十日ほど宿衛させたのち帰宅を許された。巨額の恩賞が与えられ、当時「三使相」と呼ばれた。
  • 癸巳、朱全忠は東平王に進封された。

朝廷秩序回復の措置

  • 丙午、延英で宰相奏事の際に樞密使が横から口を出す旧弊を改め、大中年間の旧制に戻し、宰相の奏事が終わってから樞密使が上殿するよう定めた。
  • 両軍副使の李師度・徐彦孫は劉季述の党として自尽を命じられた。
  • 鳳翔・彰義節度使の李茂貞が入朝し、守尚書令・侍中を加えられ、岐王に進んだ。唐では尚書令はほとんど授けられない重い官であり、ここに朝廷の制度の崩れが示された。

宦官兵権をめぐる争い

  • 劉季述・王仲先の死後、崔𦙍と陸扆は「禍乱は宦官が兵を握ることから起こる」と上言し、自分たちに左右軍を統轄させるよう求めた。
  • 昭宗は迷ったが、李茂貞は「文臣に軍権を渡せば諸侯を滅ぼしにかかる」と怒った。
  • 李繼昭・李繼誨・李彦弼らも、書生が軍主になる前例はない、南司に移せば制度変更が多くて軍が乱れると述べたため、昭宗は崔𦙍らの要求を退けた。
  • こうして韓全誨と張彦弘が左右中尉に任じられ、袁易簡・周敬容が樞密使となった。厳遵美にも観軍容使就任が求められたが、固辞した。
  • 李茂貞は帰鎮したが、崔𦙍はなお宦官を抑えるため外兵を必要と考え、李茂貞に京師へ三千兵を残させて宿衛にあてた。韓偓は「この兵を留めれば国家も崔𦙍個人も危うい」と反対したが、聞き入れられなかった。

朱全忠、河中を奪う

  • 朱全忠は河北を服させた後、次は河中を取って河東の腰を断つべきだと考えた。己亥、諸将に王珂を縛って見せよと命じ、張存敬に三万を率いさせて汜水から河を渡らせ、含山路を進ませた。
  • 戊申、張存敬は絳州に到着し、不意を突かれた晋・絳両州はほとんど備えがなかった。絳州刺史陶建釗、ついで晋州刺史張漢瑜が相次いで降伏した。朱全忠は侯言を晋州、何絪を絳州に置き、二万を屯させて河東の援軍を遮断した。
  • 王珂は李克用に救援を求めたが、汴軍が晋・絳を押さえたため、李克用は兵を進められなかった。王珂の妻が切迫した手紙を送っても、李克用は「共倒れになるより、一族で朝廷へ赴くべきだ」と答えるのみだった。
  • 王珂は李茂貞にも書を送り、河中が滅べば関中諸鎮も危ういと訴えたが、李茂貞は遠大な策を持たず、返答しなかった。

二月 河東の反撃と河中降伏

  • 二月甲寅朔、李嗣昭は沢州を攻め落とした。
  • その翌日、張存敬は晋州を発ち、己未に河中へ至って包囲した。
  • 王珂は窮地に陥り、一度は京師へ逃れようとしたが、人心は離れ、浮橋は壊れ、流氷で河も塞がれていたため、脱出は難しかった。牙将劉訓は、夜の逃亡では混乱と変が起こるとして、いったん降伏を申し出る策を勧めた。
  • 壬戌、王珂は城に白旗を立て、印を使者に持たせて張存敬に降を申し入れた。朱全忠の到着を待って自ら城を渡す条件で、張存敬はこれを受けた。
  • 乙丑、朱全忠は洛陽で報を聞き、喜んで河中へ急行した。戊辰に虞郷に着くと、まず王重栄の墓で手厚く弔い、河中の人心を懐柔した。
  • 王珂が縄をかけ羊を牽いて迎えようとすると、朱全忠はこれを止め、「舅にあたる重栄の恩を忘れられない」と言って常礼で迎え、泣きながら入城した。
  • 張存敬は護国軍留後となり、王珂一族は大梁へ移された。後に王珂は入朝の名目で呼び出され、華州で殺された。
  • その頃、朱全忠の妻張夫人が危篤となり、朱全忠は河中から東へ帰った。

李克用の和議申し入れ

  • 李克用は重い贈物を添えて和を求めたが、朱全忠は返書こそ出したものの、書状の文面が不遜だとして激怒し、攻撃の決意を固めた。
  • 王溥が宰相となり、裴樞も宰相に加えられた。王溥は王正雅の一族で、もと崔𦙍幕府にいたため登用された。
  • 故睦王倚には恭哀太子の諡が贈られた。
  • 劉仁恭・羅紹威には侍中が加えられた。

三月 朱全忠の大挙北征

  • 三月癸未朔、朱全忠は大梁に帰着した。
  • 癸卯、氏叔琮らに五万を与えて太行から河東へ入らせ、張文恭は磁州新口から、葛従周は成徳兵をあわせて土門から、張帰厚は馬嶺から、王処直は飛狐から進ませた。侯言も慈・隰・晋・絳の兵を率いて陰地から入った。
  • 氏叔琮は天井関から入り、昂車へ進んだ。
  • 辛亥、沁州刺史蔡訓が城を挙げて降り、河東の都将蓋瑋も侯言に降って沁州を任された。
  • 壬子、氏叔琮は沢州を抜き、李存璋は逃走した。続いて潞州を攻めると、昭義節度使孟遷が降り、李審建・王周も一万二千を率いて降った。氏叔琮は晋陽へ迫った。

四月 晋陽危機と唐の改元

  • 四月乙卯、氏叔琮は石会関を出て洞渦駅に陣し、張帰厚は遼州に着いた。丁巳、遼州刺史張鄂が降り、また白奉国は成徳兵とともに井陘から入って承天軍を奪い、氏叔琮と烽火で連絡した。
  • 甲戌、昭宗は太廟に謁し、丁丑、天下に大赦を行い、元号を天復と改めた。また、王涯ら十七家の冤罪を雪いだ。
  • 同時に酒麹販売をめぐる旧弊も改められた。かつて楊復恭が両軍の財源として度支の麹売り利益を流用して以来、宦官はこれを手放さなかったが、崔𦙍は赦文で民間が自製できるようにし、両軍の専売を抑えた。
  • 東川節度使王宗滌は病のため交代を求め、王建は馬歩使王宗裕を留後に推した。

晋陽包囲と汴軍の撤退

  • 氏叔琮らは晋陽城下に至ってしきりに挑戦した。城内は大いに恐れ、李克用は自ら城に登って守備し、食事もままならなかった。
  • しかし大雨が十日以上続き、城の崩れたところはその都度修復された。河東側では李嗣昭・李嗣源が暗門から夜襲をかけ、しばしば戦果を挙げ、李存進も洞渦で汴軍を破った。
  • 汴軍は大軍ゆえ兵糧が不足し、長雨で瘧や下痢も広がったため、朱全忠はついに撤退を命じた。五月、氏叔琮らは石会関から引き上げ、諸道軍も退いた。
  • 河東側は周徳威・李嗣昭が精騎五千で追撃し、多くを討ち取った。
  • これより前、汾州刺史李瑭が汴側についたが、李克用は李存審に攻めさせ、三日で州を奪回して李瑭を斬った。
  • 氏叔琮が上党を通過する際、孟遷は一族を率いてこれに従い南へ移った。朱全忠は丁会を潞州の守りに置いた。

五月・六月 朱全忠の勢力拡大と岐王との対立

  • 癸卯、朱全忠は宣武・宣義・天平・護国の四鎮節度使となった。河中を兼領させることで、朝廷もまた李克用を抑えようとした形である。
  • 己酉、銭鏐には侍中が加えられた。
  • 崔𦙍が両軍の麹売りを禁じたことで、近鎮でも利益を失った李茂貞は入朝してこれを論じたいと求め、韓全誨もこれを後押しした。茂貞が京師に入ると、韓全誨は深く結び、崔𦙍は危機感からますます朱全忠を頼るようになった。
  • 張全義は中書令を兼ねた。
  • 六月癸亥、朱全忠は河中へ赴いた。

韓偓の諫言と宦官問題

  • 反正の功で中書舍人令狐渙と給事中韓偓は翰林学士に抜擢され、たびたび機密を問われた。令狐渙は令狐綯の子である。
  • 昭宗は軍国の大事をほぼ崔𦙍に委ね、二人の奏事は夜更けまで及ぶこともあった。宦官たちは崔𦙍を恐れつつも、事あるごとに彼の顔色をうかがう状態だった。
  • 崔𦙍は宦官の根絶を望んだが、韓偓は何度も「抑圧が過ぎれば、相手も死を恐れて別の変を起こす」と諫めた。
  • 丁卯、昭宗が「悪い敕使が多すぎるがどう処置すべきか」と韓偓に問うと、韓偓は「反正の直後に処断すべきで、今は時機を失っている。今からなら特に悪い数人だけを法にかけ、残りは安心させ、忠厚な者を長に立てるべきだ」と答えた。さらに、細事・機巧に走ればかえって混乱し、まず四方に散った朝廷の権を取り戻すべきだと述べた。昭宗も深く同意した。

李克用、隰州・慈州を奪う

  • 李克用は李嗣昭・周徳威に陰地関から出させ、隰州を攻めて刺史唐礼を降し、さらに慈州を攻めて刺史張瓌も降した。

閏月 丁会の転任と西川の乱

  • 閏月、朱全忠の請いにより、丁会は河陽から昭義節度使に、孟遷は河陽節度使となった。
  • 道士杜従法が妖言で昌・普・合三州の民を誘って反乱を起こした。王建は王宗黯に三万を与え、東川・武信軍も合わせて討伐させた。王宗黯は吉諫のことである。

崔𦙍の密謀露見

  • 崔𦙍は昭宗に、宦官を一掃し、宮中の諸務は宮人に担わせればよいと求めた。宦官側はその話を聞きつけ、韓全誨らは泣いて昭宗に取りなしを求めた。
  • 昭宗は崔𦙍に対し、今後は口頭でなく封書で意見を出すよう命じた。
  • 宦官たちは美女で文事に通じた者を宮中に入れ、密かに崔𦙍の策を探らせたため、崔𦙍の謀議は筒抜けになったが、昭宗は気づかなかった。
  • 韓全誨らは危機感を強め、宴会のたびに泣いて別れを惜しみ、崔𦙍排除の方法を日夜謀った。
  • 崔𦙍が三司使を兼ねていたため、宦官は禁軍を教唆して冬衣削減を訴えさせ、昭宗はやむなく崔𦙍から塩鉄使職を解いた。
  • そのころ、朱全忠も李茂貞も天子を擁して諸侯を制する野心を持ち、朱全忠は東都遷幸を、李茂貞は鳳翔遷幸を望んでいた。
  • 崔𦙍は策の露見を悟り、急ぎ朱全忠に書を送って、密詔を受けたとして兵を率いて車駕を迎えるよう求めた。反正の功を李茂貞に奪われたままでは、今度は自分が罪人になると訴えた。

七月・八月 外征と宮廷不安

  • 七月甲寅、朱全忠は河中から急いで大梁へ帰り、出兵準備に入った。
  • 西川では王宗侃らが杜従法の乱を鎮圧した。
  • 八月、昭宗は韓偓に、陸扆が自分の反正を喜んでいないという噂を問うた。韓偓は、陸扆は反正の密議を知らず、突然の変に驚いて逃れたのだろうと弁護し、昭宗もこれ以上は追及しなかった。
  • 宦官たちは誅罰を恐れ、韓全誨は李繼昭・李繼誨・李彦弼・李繼筠らと結んで、武力で天子を制しようとした。李繼昭だけは深くは与しなかった。
  • 昭宗は韓偓に「繼誨・彦弼らの態度が日ごとに強硬になっている」と語り、令狐渙の勧める宥和策についても相談したが、韓偓は数人を明白に処罰しなければ事態は収まらないと重ねて述べた。
  • その後も宦官は自ら党援が整ったと見て、命じられた外任や陵守への左遷を拒み、昭宗も手が出せなくなった。

淮南の杭州侵攻

  • 錢鏐が賊に殺されたという誤報が楊行密のもとに届くと、楊行密は李神福らに兵を与えて杭州を攻めさせた。
  • 顧全武らは八つの寨を並べて防いだが、李神福は杭州の捕虜を利用して退却するように見せかけ、青山で伏兵を用意した。
  • 顧全武がこれを軽んじて追撃すると、李神福と呂師造が挟撃して大破し、顧全武を生け捕りにした。銭鏐はこれを聞いて「良将を失った」と泣いた。
  • 李神福は臨安を攻め、秦昶の三千も降したが、なお銭鏐が生きていて城も堅いと知り、撤退時の邀撃を避ける策に出た。
  • 銭鏐の祖先の墓を守らせ、樵採を禁じ、顧全武を通じて家信も送ったため、銭鏐は礼を感じて和を請い、李神福はその贈物を受けて帰還した。

九月 昭宗の焦慮

  • 九月癸丑、昭宗は韓偓を急召し、「朱全忠が君側の悪を除くために来ようとしているのは忠義だが、李茂貞とも功を分け合わせねば二者が争って危うい」と述べ、崔𦙍に両鎮を調停させるよう求めた。
  • 壬戌にも、昭宗は繼誨・彦弼らの驕横、禁中での不穏な振る舞いを憂えた。韓偓は、反正の時に官爵や財貨だけを与えて禁中への出入りを許さなければよかった、今や韓全誨らが利益で彼らを使っているのだと指摘した。
  • また、もともと崔𦙍が宦官抑制のために残した岐兵が、今では宦官側と一体化しており、汴兵が来れば宮門の下で戦いになると警告した。昭宗は深く憂えるばかりであった。

十月 朱全忠の再出兵

  • 十月戊戌、朱全忠は大軍を率いて大梁を出発した。

十月末 韓全誨ら、昭宗を鳳翔へ連行

  • 杭州方面では、李神福が顧全武を破ったのち臨安を攻め続けていたが、銭鏐と和して帰る道を選んだ。
  • 一方、京師では韓全誨が朱全忠の接近を聞き、丁酉、李繼筠・李彦弼らに兵を整えさせ、鳳翔への行幸を迫る態勢をとった。宮門は増兵され、人や文書の出入りも厳重に検査された。
  • 昭宗はひそかに崔𦙍へ御札を送り、「宗社の大計のため西へ行かざるを得ない。卿らは東へ向かえ」と悲痛な言葉で伝えた。
  • 戊戌、趙国夫人が韓偓に、上と皇后がただ泣き合っていること、もはや学士が対面できぬ情勢であることを知らせた。
  • 癸卯、韓全誨らは昭宗に百官を入閤させ、正月の「宰相奏事の際に宦官は後から入る」という詔を取り消し、咸通以降の旧例に戻した。これにより、延英で宦官が宰相の傍らに立ち、政事に口を挟む体制が復活した。
  • 丁未、李繼筠の配下は内庫の財宝・帳幕・法物を掠め、韓全誨は諸王や宮人を先に鳳翔へ送った。
  • 戊申、朱全忠が河中に至り、車駕の東都行幸を求める表を上げると、京師は大混乱に陥り、人々は山谷へ逃げた。

十一月 長安の掠奪と昭宗の西幸

  • 十一月己酉朔、李繼筠らは宮門の下に兵を並べて人の出入りを禁じ、諸軍は市中で大掠奪を行った。紙や布の衣を着た避難民が街にあふれた。
  • 韓建は幕僚の司馬鄴に匡国留後を任せ、朱全忠は四鎮の兵七万を率いて同州へ進んだ。司馬鄴は迎降した。
  • 韓全誨らは、李繼昭が自分たちに同調しないため、昭宗への面会を遮った。
  • 崔𦙍の邸宅は開化坊にあり、李繼昭は自軍と関東諸道の在京兵をもってそこを守ったので、百官や民もそこへ避難した。
  • 庚戌、昭宗は百官を召したが、崔𦙍らは参内を辞退した。
  • 壬子、韓全誨らは「朱全忠は大軍で都を脅し、天子を洛陽へ劫そうとしている。鳳翔へ移って兵を集めて防ぐべきだ」と迫った。昭宗は拒み、剣を杖として乞巧楼に登ったが、全誨らは上下を脅して楼を下りさせた。
  • 李彦弼は御院に放火し、その日は冬至であったが、昭宗は思政殿に独り座して嘆くほかなかった。やがて皇后・妃嬪・諸王百余人とともに出発し、禁中の炎を振り返りながら泣き続け、夜は鄠県に泊まった。
  • 朱全忠は司馬鄴を華州にやって韓建を説き、韓建は李巨川を副使として降伏を申し入れ、銀三万両を献じた。朱全忠は西南に赤水へ進んだ。
  • 癸丑、李茂貞は田家磑で車駕を迎え、甲寅に盩厔、乙卯を経て鳳翔へ向かった。
  • 朱全忠は零口西に至って車駕西幸を知り、いったん引き返そうとしたが、張濬が「韓建を先に取らねば後患となる」と説いた。
  • 朱全忠は華州を脅し、韓建は単騎で迎え出た。李巨川が諸表・檄文を作ったとされ、朱全忠はこれを軍門で斬った。韓建には「故郷の許州へ衣錦せよ」と言い、忠武節度使として陳州に移した。
  • 華州の蓄財も朱全忠が奪い去った。これは、かつて昭宗の行在所として商賈が集まり、韓建が重税で蓄えたものであった。

朱全忠、迎駕を名目に西進

  • 京師には天子も宰相も不在となったため、崔𦙍は盧渥ら二百余人に連署させて、朱全忠へ西進と迎駕を請う状を出し、王溥も赤水へ遣って協議させた。
  • 朱全忠は「進めば君を脅すとの非難を受け、退けば国に背いた恥を負う」と返書しつつ、戊午に赤水を発した。
  • 辛酉、盧光啓は中書事務を仮に処理することとなった。
  • 車駕は岐山に三日留まり、壬戌に鳳翔へ到着した。
  • 朱全忠が長安に入ると、宰相と百官が長楽坡で班をつくって迎え、翌日には臨皐駅で別れの班を作った。崔𦙍がここまで朱全忠を遇したのは、自身の保身が大きかったと評される。
  • 朱全忠は李繼昭の功を賞し、当初は匡国留後としたが、そのまま両街制置使として厚遇した。李繼昭は兵八千を全て差し出した。

鳳翔攻囲の開始

  • 朱全忠は判官李擇・裴鑄に「密詔と崔𦙍の書を受けて出兵した」と奏上させたが、韓全誨らは「天子は災いを避けてここにいるだけで、宦官に脅されたのではない。密詔は崔𦙍の偽作だ」と応じ、朱全忠に退兵を求めた。
  • 李茂貞は符道昭に武功を守らせたが、癸亥、朱全忠の将康懐貞がこれを破った。
  • 丁卯、盧光啓は参知機務となった。
  • 戊辰、朱全忠は鳳翔城東に至り、李茂貞と城上・城下で言い争った。李茂貞は「天子は災いを避けただけだ」と述べ、朱全忠は「韓全誨が天子を劫した」と返した。
  • 昭宗はたびたび詔して朱全忠に帰鎮を命じたが、朱全忠は表向きは拝辞しつつ、辛未、兵を北に転じて邠州へ向かった。まず邠州を取って鳳翔の援軍を断とうとしたのである。
  • 甲戌、崔𦙍は工部尚書に左遷され、裴樞も罷免された。これは宦官側の意向であり、宰相は車駕に従っていなかった。
  • 乙亥、朱全忠は邠州を攻め、丁丑、静難節度使李繼徽は降伏して楊崇本の本名に戻った。朱全忠はその妻を河中に人質として留め、なお邠州を治めさせた。

河東援軍と三原への進軍

  • 朱全忠の関中入りに対し、韓全誨・李茂貞は李克用に援軍を求めた。李克用は李嗣昭に五千騎を与え、沁州から晋州へ進ませ、平陽北で汴軍を破らせた。
  • 乙亥、朱全忠は邠州を発し、戊寅に三原へ進んだ。

十二月 盩厔攻略・遷民・南方情勢

  • 十二月癸未、崔𦙍は三原で朱全忠に会い、迎駕を急がせた。
  • 己丑、朱全忠は朱友寧に盩厔攻撃を命じたが落ちず、戊戌、自ら督戦して降伏させ、住民を虐殺した。
  • 朱全忠は崔𦙍に命じて、百官と京城の住民をすべて華州へ移させた。
  • 詔では裴贄が大明宮留守とされた。
  • 清海節度使徐彦若が死に、遺表で行軍司馬劉隠を留後に推した。ここから劉隠が広州を握ることになる。
  • 李神福は銭鏐が生きていると確信し、臨安の堅城を攻めあぐねたため、銭鏐の祖先の墳墓を保護し、顧全武を通じて書信を送り、要地には旗を多く立てて大軍に見せかけた。銭鏐は淮南軍が大挙して来たと思って和を求め、李神福は贈物を受けて撤退した。
  • 朱全忠の入関に際し、馮行襲は副使魯崇矩を遣わして服属を示した。韓全誨が金州に江淮兵を集めようとして派遣した中使二十余人も、馮行襲は皆殺しにし、詔勅を朱全忠に送った。
  • また韓全誨らは王建にも援軍を求め、朱全忠もまた王建に兵を請うた。王建は表面上は朱全忠と修好しつつ李茂貞を非難したが、裏では李茂貞に守りを固めるよう勧め、救援も約した。
  • 王建は王宗佶・王宗滌らに五万を与え、名目上は迎駕、実際には李茂貞の山南諸州を襲う構えを取らせた。

江西・武貞の動き

  • 江西節度使鍾伝は撫州刺史危全諷を攻めた。城が火災に遭うと諸将は総攻撃を勧めたが、鍾伝は「人の危うい時に乗ずるのは仁ではない」と祈り、ほどなく火は収まった。
  • 危全諷はその徳を感じて謝罪し、娘を鍾伝の子匡時に嫁がせて服属した。
  • 鍾伝は若いころ虎狩りで危険な経験をしたことがあり、のちに子らへ、乱暴な勇ではなく知謀を尊ぶべきだと戒めていた。
  • 武貞節度使雷満が死に、子の雷彦威が留後を称した。