資治通鑑唐紀七十二 僖宗 光啓 三年 887年

正月 諸鎮の再編

  • 正月、邠州都将の王行瑜が静難軍節度使に任じられた。これは朱玫の旧位を与えたものである。
  • 扈蹕都頭の李茂貞は武定節度使、同じく楊守宗は金商節度使となった。
  • 右衛大将軍の顧彦朗は東川節度使に、山南西道節度使には楊守亮が任じられた。顧彦朗は豊県の人であった。
  • 辛巳、董昌は浙東観察使、錢鏐は杭州刺史となった。

朱全忠の兵力補充と田令孜流罪

  • 秦宗權は自軍が朱全忠の十倍はあるのに敗れ続けることを恥じ、総力を挙げて汴州を攻めようとした。
  • 朱全忠は兵不足を憂え、二月、諸軍都指揮使の朱珍を淄州刺史として東方で募兵させ、初夏には帰還するよう期した。
  • 戊辰、朝廷は三川都監の田令孜から官爵を剥奪し、端州への長流を命じた。だが田令孜は陳敬瑄に依ったままで、実際には赴かなかった。

李国昌の死と偽宰相の処刑

  • 代北節度使の李国昌が死去した。李克用の父であり、その死年には史料差があるが、ここではこの年に置かれる。
  • 三月癸未、朝廷は偽朝に仕えた蕭遘・鄭昌図・裴澈を、それぞれ所在の地で群衆の前に斬るよう命じた。三人とも死んだ。
  • 襄王煴から官を受けた朝士は多く、法司は一律に極刑を科そうとしたが、杜讓能が強く争ったため、七、八割は助かった。

車駕の鳳翔帰着

  • 壬辰、車駕は鳳翔に着いた。
  • 鳳翔節度使の李昌符は、都へ帰れば自分は以前の罪を問われなくても、恩賞が薄くなることを恐れ、宮室が未修復だとして強く駐蹕を願い、朝廷はこれに従った。
  • 太傅兼侍中の鄭従讜は罷められ、太子太保となった。

鎮海の内乱と周宝の失脚

  • 鎮海節度使の周宝は親軍千人を募って「後楼兵」と号し、鎮海軍より倍の俸給を与えたため、旧来の鎮海軍は恨み、後楼兵も次第に驕って制しがたくなった。
  • 周宝は女色に溺れて政務を見ず、二十余里の羅城を築き、東第も建てて、民を苦しめた。
  • 宴席で後楼兵が鎮海軍の怨嗟を語ると、周宝は「乱れれば殺せばよい」と言った。度支催勘使の薛朗がこれを鎮海軍将の劉浩に知らせ、兵を抑えるよう諭したが、劉浩は「反くほか死を免れる道はない」と答えた。
  • その夜、周宝が酔って寝ている間に劉浩は党与を率いて反乱を起こし、府舎を攻めて火を放った。周宝は裸足で逃げ、芙蓉門を叩いて後楼兵を呼んだが、後楼兵もまた反乱に加わっていた。
  • 周宝は家人を率いて青陽門から脱出し、常州の刺史・丁従実を頼った。
  • 劉浩は僚佐を殺し、癸巳には薛朗を迎えて留後に据えた。周宝が兼ねていた租庸の蓄財は、この日にことごとく乱兵に奪われた。
  • 高駢は周宝の敗報を聞くと、陣を整えて祝賀を受け、しかも齏粉を贈って嘲った。周宝は「お前には吕用之がいる。先は知れぬ」と怒った。
  • 淮南では飢饉が続いて揚州の餓死者が日々数千にのぼり、市街は寂れた。災異も重なったが、高駢はみな周宝に当てはまる兆しだと思い込んでいた。

王建の閬州奪取

  • 山南西道節度使の楊守亮は、利州刺史の王建が驍勇であることを忌み、たびたび召したが、王建は恐れて応じなかった。
  • 前龍州司倉の周庠は王建に対し、「唐の運命は尽きようとしており、諸藩鎮は互いに食い合うばかりで、大局を救える者がいない。あなたこそ勇略があり士卒の心を得ている。だが利州は四戦の地で長く安んじ難い。閬州は奥まって富み、しかも楊茂実は楊守亮・陳田の腹心でありながら職貢を怠る。これを罪して攻めれば戦わずして取れる」と説いた。
  • 王建はこれを採用し、溪洞の酋豪を募って八千を得、嘉陵江を下って閬州を急襲し、刺史の楊茂実を逐って自ら防禦使を称した。亡命者を招納して軍勢はますます盛んになり、楊守亮にも制御できなかった。
  • 部将の張虔裕は、「いま天子は弱く、方州を専有しても、もし唐室が再興すればあなたには家柄の後ろ盾がない。表を奉って大義を掲げて行動すれば、成し遂げられぬことはない」と説いた。
  • 別の部将・綦毋諫は、「まず士を養い民を愛して天下の変を見よ」と進言した。
  • 王建は両説をともに容れた。周庠・張虔裕・綦毋諫はいずれも許州の人であった。
  • 王建と東川節度使の顧彦朗とは、もと神策軍時代から同僚であった。王建が閬州を得ると、顧彦朗はその侵攻を恐れて、しばしば使者を送り贈答し、軍糧も供した。王建はこのため東川を侵さなかった。

末尾記事

  • 周宝は、淮南の六合鎮遏使・徐約の兵が精強であると聞き、これを誘って蘇州攻撃にあたらせようとした。