資治通鑑唐紀七十二 僖宗 光啓 二年 886年

正月 田令孜、再び天子を劫して西へ

  • 正月、鎮海の牙将・張郁が乱を起こし、常州を攻め落として拠った。
  • 李克用は河中へ引き上げ、王重榮と連名で大駕の還宮を請い、あわせて田令孜の罪状を列挙して誅殺を求めた。
  • 皇帝は楊復恭を飛龍使から樞密使に戻した。
  • 戊子、田令孜は皇帝に興元への遷幸を願い出たが、皇帝は従わなかった。
  • その夜、田令孜は兵を率いて行宮へ入り、天子を劫して宝鶏へ向かった。黄門・衛士で従った者は数百にすぎず、宰相や朝臣は事情を知らなかった。
  • 翰林学士承旨の杜讓能は禁中宿直中に変を聞き、徒歩で乗輿を追い、城外で拾った馬に帯を代用してようやく騎乗し、ただ一人宝鶏で追いついた。
  • 翌日になって孔緯ら数名がようやく到着した。
  • 宗正が太廟神主を鄠へ運ぼうとしたが、途中で盗賊に遭って失われた。朝士たちも盩厔あたりで乱兵に掠奪され、衣装をほとんど失った。
  • 庚寅、皇帝は孔緯を御史大夫とし、都へ戻って百官を召し集めさせた。自らは宝鶏に留まり、到着を待った。

朱玫・李昌符の離反

  • 田令孜が専権して二度までも天子を流浪させたため、天下はみな彼を憎んだ。
  • 朱玫・李昌符もまた、そのために利用されたことを恥じ、しかも李克用・王重榮の強さを恐れて、かえってそちらと手を結んだ。
  • 邠寧の奏事判官・李松年が鳳翔に至ると、宰相の蕭遘はこれを通じて朱玫を呼び寄せ、急いで車駕を迎えさせようとした。
  • 癸巳、朱玫は歩騎五千を率いて鳳翔に着いた。
  • 孔緯は宰相たちに詔を宣して百官を行在へ集めようとしたが、蕭遘・裴澈は田令孜が天子のそばにいることを理由に病を称して出てこなかった。
  • 孔緯が台院・殿院・察院の御史らを泣いて励ましても、彼らは服装の用意などを理由に出発を先延ばしにした。孔緯は「妻が病死しかけていても顧みない。諸君は自ら考えよ」と言って立ち去り、李昌符に頼んで騎兵護衛を受けつつ行在へ赴いた。李昌符はその義を感じ、旅費を贈って護送した。

宝鶏脱出と王建の奮戦

  • 邠寧・鳳翔の兵は乗輿を圧迫し、潘氏で神策指揮使の楊晟を破った。鉦鼓の響きは行宮にまで聞こえた。
  • 田令孜は皇帝を奉じて宝鶏を発し、石鼻に禁兵を残して殿軍とし、楊晟には興州・鳳州をもって感義軍節度使とし、散関守備を任せた。
  • このとき軍民は入り乱れ、矢石が飛び交う中、神策軍使の王建・晋暉が清道斬斫使となり、王建は長剣五百を率いて前駆し、奮戦して乗輿の前進を助けた。
  • 皇帝は伝国宝を王建に授けて背負わせ、大散嶺に登った。李昌符は閣道を焼いて遮断しようとしたが、王建は皇帝を支えて火煙の中を飛び越えた。
  • その夜、皇帝は板敷の下に宿り、王建の膝を枕にして眠った。目覚めてから初めて食事をとり、涙痕のある御袍を王建に賜った。
  • 車駕が散関に入るや、朱玫はすでに宝鶏を囲んでおり、石鼻の軍も崩れた。朱玫は散関も急攻したが、落とせなかった。
  • 襄王煴は病のため従駕できず、途中の遵塗驛に留まって朱玫に捕らえられ、鳳翔へ連れ帰られた。
  • 李克用はこの間、太原へ帰軍した。

二月―三月 興元遷幸

  • 二月、王重榮・朱玫・李昌符は再び連名で田令孜の誅殺を請うた。
  • 鄭従讜が守太傅兼侍中に任じられた。
  • 朱玫・李昌符は山南西道節度使の石君涉に命じて要害を塞がせ、郵驛を焼き、皇帝の進路を絶とうとした。皇帝は別路を通ったが、山谷は険しく、邠軍も背後から迫り、幾度も危うい目にあいながら山南へ達した。
  • 三月壬午、石君涉は鎮を棄てて朱玫のもとへ逃げた。
  • 癸未、鳳翔にいた百官の蕭遘らは、田令孜とその党・韋昭度の罪を列挙して誅殺を請うた。
  • 山南西道監軍の厳遵美は西県で皇帝を迎えた。
  • 丙申、車駕は興元に到着した。月日の異同は諸書にあるが、胡注は諸記録を比較してこの日付を採っている。

新宰相・王建の配置・高仁厚の死

  • 戊戌、孔緯と杜讓能はともに同平章事となった。
  • 保鑾都将の李鋋らは鳳州で邠軍を破った。
  • 朝廷は王重榮に応接糧料使を加え、本鎮の穀十五万斛を国用に供するよう命じたが、王重榮は「田令孜が誅されない限り奉じない」と答えた。
  • 盧渥が山南西道留後に、厳遵美が内樞密使に任じられた。
  • 王建は部兵を率いて三泉を守り、晋暉・張造は四都の兵を率いて黒水に屯し、棧道を修復して往来を確保した。王建は遠く壁州刺史を帯びた。
  • これ以後、将帥が遥かに州鎮の官を兼ねる例が始まった。
  • 陳敬瑄は東川節度使の高仁厚が自分に代わろうとしているのではないかと疑い、まず遂州刺史の鄭君立が兵を挙げて漢州を落とし、成都へ進むと、将李順之に討たせて鄭君立を敗死させた。
  • さらに維州・茂州の羌兵を発して高仁厚を攻めさせ、これを殺した。

朱玫、襄王擁立を画策

  • 朱玫は、田令孜が天子のそばにいる限り問題は解決しないとして、蕭遘に対し「中原の将士や百姓は命を賭して都を回復したのに、主上はその功を宦官の栄達に変え、大権を委ねて藩鎮に騒乱を招いた。李氏の子孫はまだ多いのだから、別の計画を立てて社稷を利するべきではないか」と迫った。
  • 蕭遘は、皇帝に大過はなく、罪はすべて田令孜の専横にあるとして、廃立の大事は伊尹・霍光でも難しい、自分には聞き入れられないと拒んだ。
  • しかし朱玫は「自分が李氏の一王を立てる。異議ある者は斬る」と公言した。

四月 襄王煴の監国

  • 壬子、朱玫は鳳翔の百官に圧力をかけ、襄王煴を立てて「権に軍国事を監し、承制封拝・指揮を行う」とし、さらに蜀へ使者を送り、天子を迎えるという体裁を取らせた。
  • 石鼻驛で百官に盟約させ、蕭遘に冊文を書かせようとしたが、蕭遘は文才の衰えを理由に辞退したため、兵部侍郎判戸部の鄭昌図に書かせた。
  • 乙卯、襄王煴は冊を受け、朱玫は左右神策十軍使を兼ね、百官を率いて煴を奉じて京師へ還った。
  • 鄭昌図は同平章事となり、度支・塩鉄・戸部を統轄し、それぞれに副使を置いて三司の事を一手に握った。
  • 河中にいた百官の崔安潜らも、襄王の受冊を祝う書を送った。

田令孜の退場、諸道の帰趨

  • 天下の怨望が自分に集まっていることを悟った田令孜は、楊復恭を左神策中尉・観軍容使に推薦し、自らは西川監軍使となって陳敬瑄のもとへ逃れた。
  • 楊復恭は田令孜派を排除し、王建を利州刺史、晋暉を集州刺史、張造を万州刺史、李師泰を忠州刺史に出した。
  • 五月、朱玫は蕭遘を太子太保に退け、自ら侍中を称し、諸道塩鉄転運等使も兼ねた。裴澈を度支、鄭昌図を戸部に置き、高駢には中書令を加えて江淮塩鉄転運等使・諸道行営兵馬都統とした。
  • さらに高駢の右都押牙・和州刺史の吕用之を嶺南東道節度使に任じ、河北や江淮へ宣諭使を派遣して大々的に封拜を行い、藩鎮の歓心を買おうとした。諸道のうち六、七割はこれを受け入れた。
  • 高駢もまた朱玫へ牋を送り、即位を勧めた。
  • 吕用之は淮南で幕府を開き、高駢の側近や将校を自分の配下に取り込み、高駢の権力を奪おうとした。高駢もこれに気づいたが、すでに根が深く手が打てなかった。用之はさらに恐れ、腹心の鄭杞・董瑾に相談した。鄭杞は「人に負かれる前にこちらが負かせ」と、曹操の故事を引いて勧めた。
  • 蕭遘は病を称して永楽へ退いた。

李昌符の離反と李克用の決起

  • 鳳翔節度使の李昌符は、朱玫とともに襄王擁立を進めたものの、その後朱玫が自ら宰相となって専権するのを怒り、朱玫の授ける官を受けず、かえって興元の朝廷と連絡を取った。
  • 朝廷は李昌符に検校司徒を加えた。
  • 朱玫は王行瑜に邠寧・河西の兵五万を与えて、乗輿を追わせた。
  • 感義節度使の楊晟は戦うごとに退き、散関も棄てて文州に逃れた。行瑜は鳳州へ進んだ。
  • 興元には各道の貢賦があまり届かず、従官や衛士は飢え、皇帝は涙を流してなすすべを失った。
  • 杜讓能は、楊復光が王重榮とともに長安回復に功があり、楊復恭はその兄であるから、重臣を派遣して大義と楊復恭の意向を説けば王重榮も回心するだろうと進言した。
  • 皇帝は右諫議大夫の劉崇望を河中へ遣わし、詔書をもって王重榮を諭した。王重榮はただちに服従し、絹十万匹を献じ、あわせて朱玫討伐で罪を償いたいと願い出た。
  • 戊戌、襄王煴の使者が晋陽に至り、「天子は道半ばで六軍の変に遭い崩御した。私は諸鎮に推されてすでに受冊した」と告げる詔をもたらした。朱玫もまた李克用に書を送った。
  • 李克用は激怒したが、大将の蓋寓は「天下は車駕播遷の責任を我々にも帰している。今、朱玫を誅し李煴を黜さねば汚名をすすげない」と説いた。
  • 李克用はこれに従って偽詔を焼き、使者を囚え、諸道へ檄を飛ばして朱玫討伐を呼びかけた。

六月―九月 各地の戦乱

  • 秦宗權の将・秦賢が宋州・汴州を侵すと、朱全忠は尉氏南でこれを破り、郭言に歩騎三万を与えて蔡州攻撃に向かわせた。
  • 六月、朝廷は楊守亮を金商節度使・京畿制置使とし、二万を率いて金州から出させ、王重榮・李克用と連携して朱玫を討たせた。守亮はもと訾亮といい、楊復光の養子であった。
  • 李克用も、蕃漢三万を率いて河を渡り、逆臣を討って車駕を迎えると上奏した。山南では当初、李克用は朱玫と通じているという風説があって不安が広がっていたが、この表が示されると鎮静化した。ただし、李克用はなお朱全忠への報復を口にしており、皇帝は楊復恭を通じて「関中が安定すれば別に処置する」と諭した。
  • 衡州刺史の周岳は潭州を攻め、欽化節度使の閔勗が淮西の黄皓を招き入れて守らせたが、黄皓は閔勗を殺した。周岳は州城を奪って黄皓も誅し、のち武安節度使に任じられた。
  • 鎮海節度使の周宝は牙将の丁従実に常州を襲わせ、張郁を追放した。張郁は海陵へ逃れ、高霸に依った。高霸は高駢の将で、海陵には民五万戸、兵三万人がいた。
  • 七月、秦宗權は許州を攻め、鹿晏弘を殺してこれを奪った。
  • 王行瑜は興州を攻め、感義節度使の楊晟は鎮を棄てて文州へ逃げた。朝廷は李鋋・李茂貞・陳佩に大唐峰を守らせた。李茂貞は博野の人で、本姓宋、名は文通であったが、功により李姓を賜り改名された。
  • 八月、盧龍節度使の李全忠が死に、その子の李匡威が留後となった。
  • 王潮は泉州を抜き、廖彦若を殺した。だが福建観察使の陳巖の威望を聞き、福州には侵入せず使者を送って降伏し、陳巖は王潮を泉州刺史に推挙した。王潮は沈着で智略があり、離散民を招き、租税を公平にし、兵を整え、吏民の心を得た。幽閉していた王緒は恥じて自殺した。
  • 九月、朱玫の将・張行実が大唐峰を攻めたが、李鋋らがこれを撃退した。
  • 金吾将軍の満存は邠軍を破って興州を奪い返し、さらに万仞寨を守った。
  • 李克修は孟方立を攻め、甲午に焦岡でその将の呂臻を捕え、故鎮・武安・臨洺・邯鄲・沙河を抜いた。安金俊を邢州刺史に据えた。

十月―十二月 襄王即位、越州平定、滑州陥落、朱玫滅亡

  • 長安にいる百官の裴璩らは、襄王煴に即位を勧めた。
  • 十月、煴は皇帝位につき、建貞と改元し、僖宗を太上元皇聖帝と尊んだ。
  • 浙東では董昌が錢鏐に「越州を取れれば杭州を任せる」と言い、錢鏐は諸暨から平水へ進み、山を切り開いて五百里の道を通し、曹娥埭へ出た。浙東の将・鮑君福が降り、錢鏐は浙東軍をたびたび破って豊山に進んだ。
  • 感化の牙将・張雄と馮弘鐸は時溥に罪を得て、三百を率いて江を渡り、蘇州を奪った。張雄は刺史を称し、兵は五万、戦艦千余を集めて天成軍と号した。
  • 河陽節度使の諸葛爽が死ぬと、大将の劉経・張全義はその子・仲方を留後とした。張全義は臨濮の人であった。
  • 十一月丙戌、錢鏐は越州を攻め落とし、劉漢宏は台州へ逃れた。
  • 義成節度使の安師儒は、両廂都虞候の夏侯晏・杜標に政務を任せきりだったが、二人の驕慢に軍中が憤り、小校の張驍が兵二千を集めて州城を攻めた。安師儒は晏・標を斬って鎮静化を図った。
  • しかし天平節度使の朱瑄は滑州を狙い、濮州刺史の朱裕に張驍を誘殺させる一方、朱全忠は朱珍・李唐賓を先発させて大雪の中を急行させ、一夜で城下に達し、梯子を並べて登城して滑州を陥れた。安師儒は捕らえられ、胡真が留後となった。これにより義成は朱全忠の勢力下に入った。
  • 田令孜は成都に着くと、病気治療を理由に朝廷から任地滞在を許された。
  • 十二月戊寅、官軍は鳳州を奪回し、満存が防禦使となった。
  • 楊復恭は関中に檄を飛ばし、「朱玫の首を取った者には静難節度使を与える」と約束した。王行瑜は連敗して朱玫に処罰されることを恐れ、部下と相談して「無功で帰れば死ぬだけだ。ならば朱玫を斬って大駕を迎え、邠寧節鉞を得よう」と決めた。部下も同意した。
  • 甲寅、王行瑜は鳳州から独断で兵を率いて京師へ戻り、執務中の朱玫を呼び出されて責められると、「反するのは私ではない、朱玫だ」と言ってその場で斬った。党与数百人も殺された。
  • 京城の諸軍は大乱に陥り、焚掠が起こり、衣服を失って凍死する者が道を埋めた。
  • 裴澈・鄭昌図は二百余人の百官を率いて襄王とともに河中へ逃れたが、王重榮は迎えるふりをして煴を捕らえ、これを殺した。裴澈・鄭昌図も囚えられ、百官の半数近くが死んだ。
  • 台州刺史の杜雄は劉漢宏を誘い出して捕え、董昌へ送り、董昌はこれを斬った。
  • 董昌は越州に拠り、自ら浙東軍府事を称し、錢鏐を杭州事に任じた。
  • 王重榮は襄王煴の首を函に納めて行在へ送り、刑部は興元城南楼での献馘と百官の祝賀を請うたが、太常博士の殷盈孫は、煴は賊臣に脅かされただけで、最大の罪は節義を全うできなかったことにあるとして、公族の礼に照らし、庶人に落としてその地で葬るべきであり、朱玫の首を献じるまで賀礼は行うべきでないと議した。朝廷はこれに従った。
  • 河陽では劉経が李罕之を制しきれず、洛陽に引き返して澠池の李罕之を襲ったが敗れ、洛陽を棄てて逃げた。李罕之は追撃して大半を殺し、鞏に軍した。張全義は当初劉経側でこれを拒んだが、やがて李罕之と連合して河陽を攻めたものの敗れ、懐州へ退いた。
  • 孫儒は秦宗權配下として鄭州・河陽を奪い、諸葛仲方を逐って節度使を称した。張全義は懐州、李罕之は沢州に拠ってこれに対抗した。
  • 宣州幕僚だった張佶は秦宗權に留められて行軍司馬となり、劉建鋒に対し、秦彦のような剛愎で猜疑深い人物は滅ぶのも近い、自分たちも身を守る道を考えるべきだと説いて親しくなった。
  • 寿州刺史の張翺は部将の魏虔に一万を与えて廬州を侵させたが、楊行愍は田頵・李神福・張訓に命じて褚城でこれを破った。滁州刺史の許勍は舒州刺史の陶雅を襲って、陶雅を廬州へ走らせた。高駢は楊行愍に「行密」と改名させた。
  • この年、天平の牙将・朱瑾は泰寧節度使の斉克讓を逐い、自ら留後となった。婚姻を口実に武装を隠して兖州へ入り、迎親の夜に兵を起こして斉克讓を追放したため、朝廷はこれを追認して朱瑾を泰寧節度使とした。
  • 安陸の賊帥・周通が鄂州を攻め、路審中が逃げると、岳州刺史の杜洪が空白に乗じて鄂州へ入り、武昌留後を称し、朝廷もこれを認めた。
  • 湘陰の賊帥・鄧進思もまた岳州を奪った。
  • 荆南では秦宗言が二年にわたり包囲したが、張瓌は城を守り抜いた。城中では米一斗が四十緡に騰貴し、食べるものも打楽器も尽き、夜警には門扉を打ち鳴らした。死者が累々としても、宗言はついに落とせず撤退した。