資治通鑑唐紀六十七 懿宗昭聖恭惠孝皇帝 咸通九年 748年
夏六月 定辺軍の新設と李師望の進言
- 鳳翔少尹の李師望は、嶲州が南詔を押さえる要地であり、成都からは遠く統制しにくいとして、嶲州に重兵を置く定辺軍の設置を願い出た。あわせて、その治所は邛州に置くべきだと主張した。
- 朝廷はこれを事実と信じ、李師望を嶲州刺史・定辺軍節度使に任じ、眉・蜀・邛・雅・嘉・黎などを管轄させ、諸蛮の統押や諸道行営の制置も兼ねさせた。
- ただし実情は、邛州は成都から近い一方、嶲州は邛州からはるかに遠く、李師望は辺境で独断専行できる権限を得るために策を弄したにすぎなかった。後の禍乱の伏線となる。
徐州兵の帰還要求と不満の蓄積
- 以前、南詔が安南を落とした際、朝廷は徐州・泗州方面で兵二千を募って救援に向かわせ、そのうち八百を桂州守備に振り向けた。当初は三年ごとの交代であった。
- しかし徐泗観察使の崔彦曾は厳格で、軍中では都押牙の尹戡、教練使の杜璋、兵馬使の徐行儉が実権を握っていたため、兵士たちの怨みを買っていた。
- 桂州駐屯兵はすでに六年も帰還できず、たびたび交代を求めたが、尹戡は軍費不足を理由にさらに一年の延長を進言し、崔彦曾もこれに従った。
- これを聞いた駐屯兵は激怒した。都虞候の許佶や軍校の趙可立・姚周・張行実らは、もと徐州の盗賊上がりで、州県が討てずに招降して軍職に取り立てられていた者たちだった。
秋七月 龐勛の乱の勃発
- 桂管観察使の李叢が湖南へ移り、新任者がまだ着いていない隙を突いて、許佶らは反乱を起こし、都将の王仲甫を殺した。
- 反乱兵は糧料判官の龐勛を主将に推し立て、官庫の武器を奪って北へ帰り始め、通過先で略奪を行った。州県はこれを止められなかった。
八月 朝廷の宥免と高駢の人事
- 朝廷は事態を聞き、宦官の張敬思を派遣して罪を赦し、徐州まで護送して帰す方針を示した。これにより反乱兵はひとまず道中での略奪をやめた。
- また前静海節度使の高駢を右金吾大将軍に転じ、高駢の求めに応じて従孫の高潯を交趾の後任にした。
九月 西川節度使の交代
- 戊戌、山南東道節度使の盧耽を西川節度使に任じた。
- すでに定辺軍が新設されたため、盧耽には従来の諸蛮統押・安撫の職掌は付けず、西川の権限を限定した。
龐勛らの北上と令狐綯の失策
- 龐勛らが湖南に至ると、監軍は計略で彼らに武器を差し出させた。
- 山南東道節度使の崔鉉は要害を厳重に守ったため、徐州兵はその領内に入れず、船で江を東へ下った。
- その途中、許佶らは、以前の銀刀軍以上の大罪を犯している以上、徐州へ戻れば必ず誅殺されると話し合い、私財で武装を整え、浙西を経て淮南へ進んだ。
- 淮南節度使の令狐綯は使者を送って慰労し、草や米を与えた。だが都押牙の李湘は、高郵で奇襲して全滅させるべきだと進言した。高郵は水路が狭く、前後を断てば殲滅できる好機だったからである。
- しかし令狐綯はもともと臆病で、朝命がないことも口実にして、「淮南で暴れないなら通してしまえばよい」として手を打たなかった。
- このため龐勛は銀刀軍の残党や逃亡者らを舟中に集め、兵力を千人に増やした。
泗州通過と徐州目前での決起
- 丁巳、反乱兵は泗州に着いた。刺史の杜慆は球場で宴を開いて迎えたが、演芸の口上を兵たちは侮辱と受け取り、役者を斬ろうとした。杜慆が備えていたため、その場は大事に至らなかった。
- 朝廷はあらかじめ崔彦曾に、帰還兵をよくなだめ、不安にさせぬよう重ねて命じていた。崔彦曾も使者を相次いで送って詔意を伝え、龐勛側からの書状も礼を尽くしたものだった。
- だが戊午、徐城まで来ると、龐勛と許佶らは兵たちに「密勅で一族皆殺しにされる」と訴え、むしろ力を合わせて決起し、王智興の前例のように富貴を得ようと扇動した。
- 多くは賛同したが、趙武ら十二人だけは恐れて逃げようとしたため、龐勛らはこれを斬り、その首を崔彦曾に送り、「首悪を誅して恩赦に報いた」と偽った。
冬十月 崔彦曾の対応と宿州陥落
- 甲子、使者が彭城に着き、崔彦曾はこれを取り調べて真相を知り、使者を拘束した。
- 丁卯、龐勛は駅伝を通じて再び書状を送り、尹戡・杜璋・徐行儉の三人を罷免し、帰還兵を別営に編成してほしいと求めた。彼らが彭城までわずか四駅の距離に迫ったため、城中は動揺した。
- 諸将は、ここで入城を許せば必ず乱になるとして先制攻撃を勧めた。団練判官の温廷皓も、討つことには難点が三つあるが、見逃せば害は五つあるとして、早急な決断を促した。
- 崔彦曾は都虞候の元密らに三千兵を授けて出撃させ、家族への連座はしないと宣言して軍心を固めようとした。また宿州・泗州にも要撃を命じた。
- しかし元密らは任山まで進みながら逡巡し、夜襲の機を逃したうえ、斥候から計画を見破られたため、賊軍は夜のうちに退いてしまった。官軍は翌朝ようやく追撃したが遅れた。
- 賊は濉水で宿州軍五百を一戦で破り、そのまま宿州へ進んだ。庚午、宿州は陥落し、焦璐は逃走した。
- 龐勛は城中の財物を民に分け与えて人心を集め、さらに志願兵を募り、応じない者は斬った。こうして数千人を加え、宿州を足場にした。
官軍敗北と徐州攻略へ
- 元密らは宿州を囲もうとしたが、大風の中で火矢により城外の茅屋が燃え広がり、前は敵、後ろは水火という状況に陥って大損害を出した。
- 官軍が宿州攻めに気を取られているあいだ、龐勛は夜のうちに婦人に更番をさせて守備しているように見せかけ、船三百艘に糧食を積み、川を下って江湖に逃れようと見せた。張敬思には大量の絹を贈り、騎兵を付けて西へ帰した。
- 翌朝、官軍が気づいて追ったが、飢えたまま追撃したため、賊は堤外に布陣し、舟中に伏兵を置いて迎撃した。官軍は大敗し、元密以下の将や監軍・勅使までも戦死し、徐州へ帰れた者は一人もいなかった。
- 賊は降兵から彭城城内の備えが手薄なことを知り、徐州攻略を決意した。
徐州陥落
- 乙亥、龐勛は濉水を北に渡り、山越えで彭城へ向かった。崔彦曾は敗報を受けて近隣諸道に救援を求め、城門を閉ざして防備を急いだが、人心はすでに離れていた。
- 丁丑、賊軍は城下に至り、城外の民家には慰撫を加えて一切乱暴を働かなかったため、住民は競ってこれに従った。ほどなく外郭を落とし、崔彦曾は子城へ退いた。
- 民衆も賊に加わって攻め、草車で門を塞いで火を放ち、ついに徐州は陥落した。
- 龐勛は崔彦曾を大彭館に監禁し、尹戡・杜璋・徐行儉を残酷に殺し、その一族も皆殺しにした。自らは庁堂に座し、厳重な兵衛を並べ、文武の官吏を平伏させた。即日のうちに城中で従う者は一万余人にのぼった。
反乱政権の体裁づくり
- 戊寅、龐勛は温廷皓に表文の起草を命じたが、廷皓は一度は帰宅の名目で逃れ、翌日には死を覚悟して拒んだ。龐勛はかえってその気骨を面白がって赦した。
- 才略家を自負する周重が上客として迎えられ、朝廷に対する表文を作った。内容は、崔彦曾の酷政と過去の一軍粛清への怨みを訴えたうえで、自らを兵馬留後とし、徐・宿・濠・泗の四州を領すると称し、節鉞を求めるものだった。
- 庚辰、押牙の張琯を京師へ派遣し、表を奉らせた。
- 龐勛は許佶を都虞候、趙可立を都遊奕使とし、仲間たちに軍職を与えて各軍を分掌させた。また劉行及を濠州、李圓を泗州、梁丕を宿州へ派遣して要地を押さえた。
- 徐州では、ほどなく朝廷から旌節が届くと信じる者が多く、遠近の無頼や群盗が続々と集まり、米価は急騰した。龐勛はさらに崔彦曾名義の偽表や詔書まで作って流布し、朝廷が徐州を皆殺しにしようとしていると住民に信じ込ませた。
濠州・泗州への波及
- 劉行及が渦口に着くと、濠州の刺史盧望回は備えがなく、牛酒を備えて迎え入れたため、そのまま城を奪われ、劉行及が州政を掌握した。
- 泗州刺史の杜慆は反乱を聞くと防備を整え、江淮に救援を求めた。李圓は精兵百人を先に潜入させて府庫を封じたが、杜慆はこれを誘い込んで皆殺しにした。翌日、李圓が本隊で来て泗州を包囲したが、城上からの矢石で大損害を受けた。
- 龐勛は泗州が江淮交通の要地であることから、兵を増派して攻囲を強めたが、すぐには落とせなかった。
十一月 康承訓の任命と泗州攻防の激化
- 朝廷は当初、康道偉に勅書を持たせて龐勛の慰撫に向かわせたが、到着時にはすでに徐州での勢威は誇張された演出のもとで確立されていた。龐勛は大軍や戦果を装って道偉を迎え、さらに節鉞を求める表を託した。
- 一方、広陵に住む辛讜は旧友の杜慆を救うため泗州へ入り、杜慆が城とともに死ぬ覚悟であるのを見て、自らも運命を共にすることを決めた。到着後、団練判官に任じられた。
- 泗州では都押牙の李雅が守備を整え、城外に打って出て賊を退けたため、城内の動揺はやや収まった。
- しかし龐勛側は略奪目当てに兵の募集が進み、親が子を、妻が夫を勧めて参加させるほどで、近隣諸道の官軍が少ないうちに勢力を広げた。
- 国忌の日にはなお焚香を行い、将士への饗応では朝廷への謝恩の礼も取っていたが、これはあくまで表向きに節度使任命を待つ姿勢を装ったものだった。
- 癸卯、龐勛はついに敕使の来着を聞いて歓喜したが、実際に伝えられたのは崔彦曾・監軍張道謹の左遷だけで、自分への節鉞ではなかった。失望した龐勛は敕使を拘束した。
- 朝廷は康承訓を義成節度使・徐州行営都招討使、王晏権を北面招討使、戴可師を南面招討使として大軍を諸道から徴発し、さらに沙陀の朱邪赤心や吐谷渾・達靼・契苾などの騎兵参加も許した。
- 李圓が泗州を落とせなかったため、龐勛は吳迴に交代させ、丙午から昼夜兼行で再攻撃させた。
辛讜の救援要請
- 淮南兵を率いる郭厚本は洪沢まで来ながら、賊を恐れて進まなかった。そこで辛讜は夜、小舟で淮水を渡って洪沢へ行き、救援を求めたが拒まれた。
- 己酉、泗州城は水門を焼かれそうになるなど危機に陥ると、辛讜は再び出て郭厚本を説得した。淮南都将の袁公弁は救援に反対したが、辛讜は剣を抜いて激しく責め立て、ついに郭厚本は兵五百を分け与えた。
- 辛讜はその兵を率いて淮北に上陸し、杜慆が城上から呼応して撃ったため、賊軍は敗走した。
鎮海軍の壊滅と都梁陥落
- 龐勛は劉佶らの精兵を送り、さらに濠州の劉行及も兵を合わせて泗州攻囲を続けた。
- 戊午、鎮海節度使の杜審権が翟行約に兵四千を与えて泗州救援に向かわせたが、己未、淮南で賊に迎撃され、翟行約以下は全滅した。
- 先に令狐綯が派遣していた李湘の軍も、郭厚本・袁公弁らと都梁城に拠ったが、十二月甲子の戦いで大敗し、都梁城は陥落した。李湘と郭厚本は生け捕られて徐州へ送られた。
- これにより淮口は賊の手に落ち、江南から長安へ至る漕運と駅路が断たれた。
康承訓の後退と賊勢の拡大
- 康承訓は新興に進んだが、柳子の姚周がこれを拒んだ。諸道の兵はまだ一万ほどしか集まっておらず、兵力差から宋州へ退いて陣を整えた。
- 龐勛は官軍を恐れず、丁從実らを南は舒・廬、北は沂・海へ分遣した。沐陽・下蔡・烏江・巣県を破り、滁州を落として刺史高錫望を殺し、さらに和州にも侵攻した。
- 和州刺史の崔雍は牛酒で迎えて命乞いをしたが、賊は城内を大掠奪し、守兵八百余人を殺した。
閏月 辛讜の再出動と戴可師の大敗
- 泗州では援軍が絶え、食糧も尽き、人々は薄い粥をすすって命をつないでいた。
- 閏月己亥、辛讜は再び淮南・浙西へ救援を求めることを請い、小舟で夜襲し水寨を切り開いて脱出した。賊は大軍で追ったが、舟の軽さを利して逃げ切り、癸卯に揚州、翌日には潤州に着いた。
- そのころ泗州はすでに落ちたとの噂もあったが、辛讜の到着で杜審権は趙翼に二千の兵と米五千斛・塩五百斛を持たせ、淮南軍とともに送ることを決めた。
- 一方、戴可師は三万の兵を率いて淮を渡り、賊の淮南守備を崩して都梁城を囲んだ。城上の賊が降伏を装ったため、戴可師は油断して退いた。
- しかし壬申、大霧の中で王弘立が数万の兵を捷径から襲いかかり、官軍は整列もできぬまま潰走した。多くが戦死・溺死し、器械・糧食・車馬も莫大な損失を出した。戴可師と監軍・将校らも戦死した。
- 龐勛はこれで天下に敵なしと自負し、露布を各地に配って威勢を誇示した。淮南では人々が江南へ避難するほどの恐慌が起きた。
- 令狐綯は侵攻を恐れて使者を送り、節鉞を奏請すると約して龐勛をなだめた。これにより龐勛はしばらく兵を休め、淮南側も散兵を収容し守備を立て直す余裕を得た。
- ただし汴路が絶たれたため、江淮と京師の交通は寿州経由に移ったが、賊は戴可師撃破の余勢で寿州も囲み、貢物や商貨を奪ってこの路も断った。
- 勢いに乗った龐勛は宴楽にふけり、周重が驕奢を戒めても改めなかった。兵数は数万に達したが、糧は欠乏し、富戸や商人から財を強奪し、隠匿者を一族ごと殺した。桂州以来の反乱兵もことに横暴で、財物・婦女を奪い、民は苦しみぬいた。
北面招討の再編と旱蝗
- 王晏権がたびたび戦いに敗れ退くため、朝廷は泰寧節度使の曹翔を北面招討使とした。また淮南節度使に馬挙を任じ、南面招討も担わせた。
- 魏博の何全皥も薛尤に一万三千を授けて討伐に参加させ、曹翔は滕・沛、薛尤は豊・蕭に布陣した。
- この年、江淮一帯は旱魃と蝗害に見舞われた。