資治通鑑唐紀 宣宗 大中六年 732年

春二月・三月 鶏山賊の平定と妖賊への対処

  • 王贄弘が鶏山の賊を討って平定した。
  • 同じころ、山南西道節度使の封敖が、巴南の妖賊が不敬な言辞を弄していると報じ、宣宗は激しく怒った。
  • これに対し崔鉉は、彼らは飢寒に迫られた民が谷間で兵を弄しているだけで、大軍を辱めるほどの相手ではなく、使者一人で平定できると進言した。
  • 京兆少尹の劉潼が果州に派遣され、攻撃せず招諭する方針がとられた。
  • 劉潼は賊中に単身で近づき、自分は赦免を伝える勅使であり、本当に反逆するなら十歩の距離から射よと迫った。賊は弓を捨てて降伏した。
  • だが劉潼が帰館した後、王贄弘と中使の似先義逸が山下に到着し、結局これらの賊を撃滅した。

三月 鄭光の荘園免税問題

  • 以前に右衛大将軍の鄭光へ与えられていた鄠県と雲陽の荘園について、租税・徭役の免除が命じられていた。
  • 中書門下は、税役は天下一律であるべきで、皇帝も中外を画一にしたいとたびたび詔してきた以上、鄭光だけを特別扱いするのは趣旨に反すると奏上した。
  • 宣宗は、外戚である鄭光を優遇したかったが深く考えなかったと認め、もし臣下が自分を愛していなければこのような進言はしないだろうと述べ、奏請どおり免除を撤回した。

夏四月・六月 白敏中の転任と畢諴の抜擢

  • 四月、白敏中は西川節度使に移された。
  • 湖南では団練副使の馮少端が衡州の賊帥・鄧裴を討って平定した。
  • 党項が再び辺境を騒がせると、宣宗は邠寧節度使にふさわしい人物を探した。
  • 翰林学士・中書舎人の畢諴と辺事を語るうち、その識見と方略を高く評価し、古の名将になぞらえて、禁中近くにこれほどの人物がいたのかと喜んだ。
  • 宣宗はその経歴を重く見せるため、まず刑部侍郎に昇進させ、翌日に邠寧節度使へ任じた。

雍王渼の死と河東の立て直し

  • 雍王渼が死去し、のちに靖懷太子と追諡された。
  • 河東節度使の李業は、民や兵に雑虜への掠奪を許し、降者までむやみに殺したため、北辺が騒然となった。
  • 閏月、太子少師の盧鈞が河東節度使に任じられた。魏謩は李業の罷免と罪科を求めたが、宣宗はそこまでは許さず、義成節度使へ転出させるにとどめた。
  • 盧鈞は度支郎中の韋宙を副使に求め、韋宙は塞下を巡って諸酋長を集め、利害を説いて、唐民が虜地へ入って掠奪することを厳禁した。違反者は死罪とし、雑虜は安定した。
  • また、牙職の一人が書記の李璋を訴えようと百人余りで押しかけた際、盧鈞は首謀者を杖刑にして外鎮へ流し、残りも処罰して軍紀を引き締めた。李璋は李絳の子である。

八月・十月・十一月 裴休入相と辺境・宮廷規律

  • 八月、礼部尚書の裴休が同平章事となった。
  • 獠が昌州・資州を侵した。
  • 十月、畢諴は党項を招諭し、みな降伏したと奏上した。
  • 張直方は軽い罪ごとに奴婢を何度も殺したため、恩州司戸へ左遷された。
  • 十一月、憲宗の子の惴が棣王に立てられた。

十二月 仏教統制の再確認

  • 中書門下は、度僧が不精選なら戒律が壊れ、寺院建立が無制限なら費用が過大になると奏上した。
  • 今後は、既定の州寺以外では、霊験ある旧跡の修復だけを認め、繁華な県にのみ一院を置くこと、私的な出家は厳禁し、官の度牒による補充も祠部への申請を通すこと、遊学僧も本州の公験を持たせることなどを定めた。宣宗はこれを採用した。