資治通鑑唐紀 宣宗 大中五年 731年

春正月 張義潮の帰順

  • 天徳軍から、沙州刺史を代行する張義潮が使者を送り、唐への帰順を申し出たとの報告が届いた。
  • 張義潮は沙州の人で、吐蕃の大乱に乗じて豪傑たちと密かに結び、州城を奪って吐蕃守将を追い払い、自ら州政を掌握して唐へ降った。
  • 朝廷は張義潮を沙州防禦使に任じた。

漕運改革

  • 兵部侍郎の裴休が塩鉄転運使に任命された。彼は裴粛の子である。
  • 太和年間以降、江淮からの年々の米輸送は四十万斛に満たず、途中での横領や沈没で、渭倉に届くのは三、四割にすぎなかった。
  • 裴休は弊害を徹底的に調べ、漕運制度を十か条に改め、渭倉到着量を百二十万斛まで増やした。

党項反乱の原因究明と李福の起用

  • 宣宗は、党項の反乱が辺将の貪欲と横暴に由来することをある程度理解していた。羊馬をだまし取ったり、無実の者を妄殺したりしたため、党項側の怨みが募っていたのである。
  • そこで右諫議大夫の李福を夏綏節度使に任じ、以後は貪暴な武人に代えて儒臣を辺地に送る方針をとった。
  • 出発にあたり、宣宗は李福に直接戒めを与えた。その後、党項はようやく安定に向かった。李福は李石の弟である。

南山党項討伐と白敏中の出鎮

  • 南山・平夏の党項がなお平定されないことに宣宗は倦み始め、崔鉉は大臣を派遣して鎮撫すべきだと進言した。
  • 三月、白敏中が司空・同平章事のまま、党項行営都統・制置等使、南北両路供軍使、さらに邠寧節度使を兼ねて出征した。
  • 白敏中は裴度の先例にならって、朝廷の文臣を佐官に選ばせてほしいと願い、認められた。

夏四月 白敏中の幕僚と鄭顥との確執

  • 左諫議大夫の孫景商が邠寧行軍司馬、知制誥の蔣伸が節度副使に任じられた。蔣伸は蔣係の弟である。
  • もともと宣宗は万寿公主の婿選びを白敏中に命じ、彼は鄭顥を推挙した。だが鄭顥にはすでに婚約があり、鄭州まで進んでいた婚礼を朝命で引き返させたため、鄭顥は白敏中を深く恨んだ。
  • 白敏中は出鎮にあたり、鄭顥が必ず自分を中傷すると訴えたが、宣宗はすでにそのことを知っており、内廷から小さな箱を出して、そこに鄭顥の讒言の書簡が入っていることを示した。
  • 白敏中は帰宅後、その箱を仏前に置いて香を焚き、皇帝の信任の証として扱った。

党項の降伏と処置

  • 白敏中は寧州に駐屯した。
  • 壬子、定遠城使の史元が三交谷で党項九千余帳を破った。
  • 白敏中は党項平定を奏上し、辛未、詔が下って平夏党項はすでに安定したとされた。
  • ただし南山党項の一部は飢寒のため山を下りて略奪を続けていたため、李福に命じて銀州・夏州の境内に余地を与え、改心する者は赤子のように保護し、過去の罪は問わず、冤屈があれば訴え出るようにさせた。
  • もし再び境を犯し山林に入るなら、今後は容赦なく討つとし、功ある将吏には褒賞、死傷者には優恤、関係諸道の百姓には租税や徭役の減免も行った。
  • また、今後ふたたび辺将の貪鄙によって反乱を招いた場合は、まず辺将を罪し、その後に賊を討つと宣言した。

吐蕃の論恐熱、唐へ入朝

  • 吐蕃では論恐熱の残虐のため部衆の離反が相次ぎ、拓跋懷光は人をやってその部下たちを切り崩した。
  • 論恐熱は勢力が衰えると、唐に入朝して五十万の兵を借り、不服従の者を討ち、さらに渭州を国都として自分を賛普に冊立してもらうと吹聴した。
  • 五月、論恐熱は長安に来たが、礼賓院での応対の時から尊大で、言辞も誇大であった。河渭節度使の地位を求めたが認められなかった。
  • 宣宗は通常の外国使節と同じように三殿で引見し、賜物を与えて帰しただけであった。
  • 論恐熱は不満を抱いて落門川へ戻り、旧部を集めて辺患を起こそうとしたが、長雨と食糧難で人が散り、最後は廓州へ三百余人で逃れた。

六月 皇子冊立と仏教政策批判

  • 皇子の潤を鄂王に立てた。
  • 進士の孫樵は上言し、百姓は耕織してもなお苦しいのに、多くの僧は華美な寺に住み、良い衣食を受けていると批判した。
  • 武宗が十七万人の僧を還俗させたことで、天下百七十万戸がようやく少し息をつけたのに、宣宗の即位後は廃寺の修復が続き、僧尼も旧状に戻りつつあると論じた。
  • 都城東門の修理ですら諫官の反対で停止したのに、寺院再建はそれ以上に緊急性が低いはずだとして、これ以上の寺院修復と度僧をやめるよう求めた。

秋七月・八月・冬十月 寺院建立の抑制

  • 中書門下も、皇帝の仏教崇奉を受けて臣下が競って寺院修復を進め、財力不足から民を煩わせるおそれがあると上奏した。
  • 度僧は品行ある者を選び、地方の寺院修築も節度ある範囲にとどめ、村落の仏舎は兵事が終わってから修理するよう求め、皇帝はこれに従った。
  • 八月、白敏中は南山党項も降伏を願い出たと奏上した。戦費は長年に及んで国用を疲弊させていたため、朝廷は南山党項にも恩赦を与え、安業させた。
  • 十月にはさらに、州府の寺院は未完のものだけ完成を許し、大県で州府から遠い所のみ一寺を置き、郷村では新たな仏舎建立を禁じた。

十月・十一月 魏謩の入相と建太子論

  • 戊辰、戸部侍郎の魏謩が同平章事となり、なお戸部を判じた。
  • 当時、宣宗は高齢であったが太子を立てておらず、群臣は誰も進言できなかった。
  • 魏謩は入謝の際、天下は平穏だが後継者がまだ立っていないこと、正しい人物に補導させる必要があることを涙ながらに述べた。
  • 当時の人々は、誰も言い出せないことを率直に述べた魏謩を高く評価した。

蓬州・果州の群盗と張義潮の西北回復

  • 蓬州・果州の群盗が鶏山に拠って三川を脅かしたため、果州刺史の王贄弘が三川行営都知兵馬使となって討伐にあたった。
  • 党項平定を受け、白敏中の都統職は罷められ、邠寧節度使と宰相職のみが残された。
  • 張義潮はさらに兵を進めて、瓜・伊・西・甘・粛・蘭・鄯・河・岷・廓の十州をほぼ平定し、兄の張義澤に十一州の地図と戸籍を持たせて朝廷に入朝させた。
  • これによって河湟の地はほぼすべて唐に復した。

十一月・十二月 帰義軍設置と人事

  • 十一月、沙州に帰義軍が置かれ、張義潮は節度使となった。
  • 曹義金は帰義軍長史とされた。
  • 崔龜從は宣武節度使へ転出した。
  • 右羽林統軍の張直方は、狩猟で何日も持ち場に戻らず宿衛を怠ったため、左驍衛将軍へ左遷された。