資治通鑑唐紀 宣宗 大中四年 730年

春正月・二月 赦令と秦州の所属変更

  • 春正月、天下に大赦が出された。
  • 二月、秦州は隴右節度から切り離され、鳳翔の管下に移された。

夏四月 馬植の失脚

  • 中書侍郎・同平章事の馬植は、天平節度使に転出させられた。
  • 宣宗が即位する際、左軍中尉の馬元贄が大きな力を持っていたため、元贄は宦官の中でも特に厚遇されていた。馬植は同族を称して元贄と親しく交わっていた。
  • 皇帝が馬元贄に与えた宝帯を、元贄が馬植に譲り、馬植がそれを朝廷で身につけたところ、宣宗に見抜かれた。
  • 翌日、馬植は宰相を罷免され、側近の董牟も取り調べられた。その結果、馬植が馬元贄と結託していた事情が明らかとなり、さらに常州刺史へと大きく左遷された。

六月 魏扶の死去と崔龜從の入相

  • 兵部侍郎・同平章事の魏扶が死去した。
  • その後任として、戸部尚書・判度支の崔龜從が同平章事となった。

秋八月・九月 白敏中の任命と幽州情勢

  • 白敏中は延資庫の管理を兼ねた。
  • 盧龍節度使の周綝が死去すると、軍中は押牙・馬歩都知兵馬使の張允伸を留後にしてほしいと請願した。
  • 朝廷は九月、これを認めた。

党項問題への諫言

  • 党項が辺境をたびたび脅かし、諸道の兵を動員して討伐しても長年成果が上がらず、守備と兵糧輸送の負担ばかりが増していた。
  • 右補闕の孔温裕は、こうした戦争継続を厳しく諫めたが、宣宗は怒って彼を柳州司馬へ左遷した。孔温裕は孔戣の兄の孫にあたる。

吐蕃内乱と論恐熱の暴虐

  • 吐蕃では論恐熱が僧の莽羅藺真に兵を与え、鶏項関南に橋を架けて、尚婢婢の軍を白吐嶺で攻めようとした。
  • 尚婢婢側は将を出して臨蕃軍・氂牛峡などに拠って防ごうとしたが、作戦判断を誤って敗れ、将の磨離羆子は戦死した。鞏力は補給路遮断を進言したが容れられず、敗戦前に鄯州へ退いた。
  • 尚婢婢は兵糧難に陥り、拓跋懷光に鄯州を守らせ、自らは甘州西方へ移動した。
  • 論恐熱はそれを追撃しようとしたが、途中で鄯州が守られていると知ると、河西・鄯州・廓州など八州を大々的に略奪し、壮年男子を殺し、老人や婦女・嬰児にまで残虐行為を加えた。
  • その被害はきわめて大きく、数千里にわたって土地が荒廃した。

冬十月・十一月・十二月 宰相任命と党項討伐体制

  • 冬十月、翰林学士承旨・兵部侍郎の令狐綯が同平章事となった。
  • 十一月、翰林学士の劉瑑が、京西招討党項行営宣慰使に任じられた。
  • 張允伸も正式に盧龍節度使となった。
  • 十二月、鳳翔節度使の李業、河東節度使の李拭が、ともに党項招討使を兼ねた。

孔温業の出外希望

  • 吏部侍郎の孔温業は、政務を担う者たちに対し、自分を地方官に出してほしいと求めた。
  • 白敏中は同僚に対し、朝廷の者は自らを省みるべきであり、孔温業ほどの人物が朝廷にいたがらないのだと語った。
  • 孔温業は孔戣の弟の子である。