資治通鑑唐紀六十四 武宗 會昌五年 845年

正月 武宗、尊号を受け郊廟に親祭する

  • 春正月己酉朔、群臣は武宗に「仁聖文武章天成功神徳明道大孝皇帝」の尊号を上った。「道」の字は当初なかったが、中旨で加えられた。
  • 庚戌、武宗は太廟に謁し、辛亥には昊天上帝を祀って天下に大赦した。南郊には望仙台を築いた。
  • 庚申、義安太后王氏が崩じた。
  • 盧弘宣を義武節度使とした。彼は寛厚でありながら侮られず、軍中での私語を死罪とする河北の苛法を廃したため、部下はこれを便利と感じた。
  • 朝廷は飛狐西方に三十万斛の粟を与えたが、輸送費が粟価を上回るほどだった。盧弘宣はこれをその場で保管させ、春の旱魃に際して軍民に自由に取らせ、秋の豊作後に返納させた。成徳・魏博は飢えたが、易定だけは比較的無事であった。

呉湘獄と李徳裕への反感

  • 淮南節度使李紳は、江都令の呉湘が公用の旅費銭を盗用し、さらに百姓顔悦の娘を強引に娶り、その婚資を贓として、死罪相当だと弾劾した。呉湘は呉武陵の兄の子である。
  • 李徳裕は呉武陵を嫌っており、世論には冤罪を疑う声が多かった。諫官の再審要求により、監察御史の崔元藻・李稠が再調査したが、程糧銭の盗用は事実だと報告しつつ、顔悦の件は先の調書と異なり、本人は衢州出身でかつて青州牙推の妻でもあった士族だと述べた。
  • 李徳裕はこの差異を重く見ず、二月に崔元藻を端州司戸、李稠を汀州司戸へ左遷し、法司の審議にも付さず、李紳の奏請通り呉湘を死刑にした。
  • 諫議大夫柳仲郢・敬晦が争って上疏したが、受け入れられなかった。これは後に李徳裕失脚の一因となる。
  • 李徳裕は柳仲郢を京兆尹に抜擢した。柳仲郢は牛僧孺と親しかったが、謝辞の際に「竒章公の門館のようにお仕えします」と述べても、李徳裕はこれを嫌わなかった。

夏から秋 仏教弾圧の本格化

  • 四月壬寅、李拭を黠戛斯可汗への冊命使とした。
  • 五月壬戌、恭僖皇后を光陵の柏城外に葬った。
  • 杜悰と崔鉉は宰相を罷められ、それぞれ右僕射・戸部尚書となり、李回が戸部判官を兼ねたまま宰相に入った。
  • 祠部は、天下に寺院四千六百、蘭若四万、僧尼二十六万五百がいると報告した。
  • 黠戛斯可汗には「宗英雄武誠明可汗」の号が与えられた。
  • 秋七月丙午朔、日食があった。
  • 武宗は僧尼が天下の財を浪費していると憎み、趙帰真ら道士もこれを後押ししたため、まず山野の招提・蘭若を破却する方針を定めた。
  • 上都・東都では左右両街に二寺ずつだけを残し、各寺三十人の僧を置くこととし、諸道でも節度使・観察使治所や同・華・商・汝州に一寺ずつ残し、上中下三等で二十人・十人・五人の僧を残すとした。
  • それ以外の僧尼のほか、大秦寺・穆護や祆教など仏教以外の外来宗教の僧侶もすべて還俗させ、外国人は遠方に送って管理した。
  • 存置対象外の寺は期限を切って撤去し、田産や財貨は官収、建材は役所や駅舎の修理に使い、銅仏・鐘・磬は銭鋳造に回した。

潞州の乱兵とその鎮圧

  • 山南東道節度使鄭肅に検校右僕射・同平章事を加えた。
  • 昭義の騎兵五百・歩兵千五百を振武へ戍させようとすると、盧鈞は裴村まで見送りに出たが、もとより驕慢で遠戍を嫌う潞州兵は、酔いに乗じて旗を返し入城し、門を閉ざして大いに騒いだ。盧鈞は潞城へ逃れて難を避けた。
  • 監軍王惟直が自ら説得に出たが乱兵に撃たれて負傷し、十日ほどで死んだ。
  • 李徳裕は、王宰・石雄・韋恭甫らに周辺要地を分守させ、潞州の乱兵が外へ逃れて他鎮と結ぶのを防ぐ策を上奏し、すべて採用された。
  • 八月、東都太廟の神主二十六座が狭い小屋に仮置きされているため、廃寺の材木で再建すべきだとの上奏があり、壬午、仏教の弊害を列挙した詔を中外に宣布した。
  • この詔では、破却した寺院四千六百余、還俗させた僧尼二十六万五百、外来宗教者二千余、招提・蘭若四万余、接収した良田数千万頃、奴婢十五万人という数字が掲げられた。
  • 存置寺の僧籍は祠部ではなく主客に属させた。仏教を天竺由来の外来宗教とみなしたためである。
  • その後さらに、東都の僧は二十人のみ、諸道もそれぞれ半減または削減され、五台山の僧の多くは幽州へ逃れた。
  • 李徳裕は進奏官に対し、五台僧は将としても兵としても幽州兵に劣るのに、ただ容認した名だけが世に残るのは何の益もない、と張仲武へ伝えさせた。張仲武は居庸関に二刀を置き、遊僧が国境を越えれば斬れと命じた。
  • 主客郎中韋博が、やり過ぎだと異論を唱えると、李徳裕は彼を嫌って霊武節度副使へ追い出した。
  • 潞州の乱兵は都将李文矩を帥に立てようとしたが、文矩は応じず、徐々に説得して兵を落ち着かせた。盧鈞が戻ると、再び振武への出発を命じたが、一駅進んだところで密かに追撃兵を送り、翌日太平駅で全員を殺した。
  • 盧鈞は事情を報告し、河東・河陽の在境兵撤収を求め、許可された。

年末 辺備・王才人・武宗の病

  • 九月、東都太廟の修復を命じた。
  • 李徳裕は備辺庫の設置を請い、戸部・度支・塩鉄から毎年あわせて二十五万緡匹を入れ、翌年からはその三分の一を減額するなど、辺境費用と助軍財貨を収める制度を整えた。
  • 王才人は後宮でもっとも寵愛され、武宗は皇后に立てようとしたが、李徳裕は寒門の出で子もなく、天下の人望に合わないとして止めた。
  • 武宗は方士の金丹を服し、気性がますます激しくなって喜怒が定まらなくなった。
  • 冬十月、李徳裕は、反乱平定の時は威断が必要だったが、今は天下が平定された以上、寛をもって治め、罪ある者にも無用の怨みを残さず、善人を驚かせない政治をすべきだと諫めた。
  • 衡山道士の劉玄静を銀青光禄大夫・崇玄館学士とし、館を整え印を鋳たが、玄静は固辞して山へ帰った。
  • 李徳裕は執政が長く、愛憎で人事を決めるところがあり、多くの怨みを買っていた。杜悰・崔鉉が去った後は、宦官や近臣もその専横を言い立て、武宗も快く思わなくなった。
  • 給事中韋弘質が、宰相が三司の財政まで兼ねるのは権重すぎると上疏すると、李徳裕は、職掌を定めるのは天子の権柄であり、これは卑しい者が大臣の権を図る言だと反撃し、十二月に韋弘質は左遷された。世の怒りはいっそう強まった。
  • 秋冬以来、武宗は病を覚えたが、道士は「換骨」だと称して隠させた。外では遊猟が減ったことを怪しみ、宰相も長く対面できなかった。翌年正旦朝会の停止が命じられた。

吐蕃・党項・武宗崩御への前兆

  • 吐蕃では論恐熱が再び諸部を集めて尚婢婢を攻めたが、尚婢婢の将・厖結蔵が五千で防ぎ、恐熱は大敗して数十騎で逃げた。尚婢婢は河湟へ檄を飛ばし、恐熱の残虐を責め、もとは唐人なのだから帰唐すべきだと呼びかけたため、恐熱に従う者は次第に離れた。
  • この時、天下の戸数は四百九十五万五千百五十一であった。
  • 朝廷は党項招撫のため使者を置いたが、侵掠は止まず、邠寧・塩州境の城堡や屯叱利寨が落とされた。宰相が宣慰使派遣を請うても、武宗は討伐を決意した。