閏月 李徳裕が昭義討伐の方針を整理する
- 閏月壬戌、中書侍郎・同平章事の李紳を、同平章事のまま淮南節度使に転出させた。
- 李徳裕は、鎮州からの奏事官・高迪の報告を上奏した。高迪は、昭義軍がしばしば兵をひそかに移して官軍を誘い出し、追撃させて疲弊させる戦法を用いているので、相手から攻めて来ない限り軽々しく戦うべきでない、と説いた。
- また高迪は、鎮州・魏博の軍が多くても、今のように旧営を離れず、ときおり深入りして焼き払って帰るだけでは賊の勢力を分断できないとし、要地へ進営して徐々に圧迫すべきだと述べた。
- 劉稹の腹心の将・高文端が降伏し、城中では食糧が乏しく、婦人が穂をもんで臼にかけるほど窮乏していると語った。
- 高文端は、沢州を正面攻撃すると多くの損害が出るうえ、伏兵に逆襲されやすいので、陳許軍に乾河を越えさせて寨を築き、さらに沢州を挟み込む形の長城を築いて包囲し、援軍を外で防ぐのがよいと進言した。李徳裕はこれを王宰に示すよう求めた。
- さらに高文端は、固鎮寨や青龍寨はいずれも断崖に守られて攻めにくいが、水源が寨外にあるため、水路を断てば短期間で落とせると述べた。李徳裕はこれも王逢に示すよう求めた。
- また高文端は、洺州守将の王釗が劉稹に疑いを抱いており、家族が潞州にあるため単純な招降には応じまいが、潞州に兵を引き入れて劉稹を襲えば別道節度使を与えると密かに諭せば動く可能性があるとした。李徳裕は、何弘敬にひそかに伝えさせるよう請うた。
昭義内部の不和と三州の離反
- 劉稹は若く気弱で、実権は押牙の王協や宅内兵馬使の李士貴が握り、財貨をため込む一方、将士には恩賞が乏しかったため、人心は離れていた。
- 劉従諫の妻・裴氏は、弟の裴問を呼び戻して軍政を掌握させたがったが、李士貴が自分の権力を奪われるのを恐れて阻止した。
- 王協は商人課税を名目として、実際には編戸の家財まで調べ上げ、什器に至るまで高値で見積もって重税をかけた。民衆は浮動財産や乾飯まで差し出しても足りず、不満は極度に高まった。
- 邢州では徴税将の劉溪が富商の父兄を拘束したため、裴問がこれに怒り、刺史の崔嘏とともに城を閉じて劉溪ら大将四人を斬り、王元逵に降った。党山にいた高元武もこれに続いた。
- 洺州では、先に配布された布を冬の支給に振り替えるという通達や、徴税軍将の来訪で軍中の不満が高まっていた。王釗は「倉庫は豊かで十年は支えられるのに、どうして兵士に分け与えないのか」と言って勝手に倉を開き、兵に絹と穀物を配って歓心を買い、何弘敬に降伏した。
- 磁州の安玉も邢・洺の降伏を聞いて何弘敬に降り、堯山の魏元談らは王元逵に降ったが、王元逵は降伏が遅かったとして彼らを殺した。
八月 三州降伏で昭義が動揺する
- 八月辛卯、鎮州・魏博から、邢・洺・磁の三州が降ったとの報告が入った。
- 宰相が祝賀に入ると、李徳裕は「昭義の根幹は山東の三州にある。ここが落ちれば上党もほどなく変事が起こる」と述べた。武宗は、郭誼が劉稹を殺して罪を償おうとするだろうと見通した。
- 李徳裕は、万一鎮州や魏博が三州の支配を求めてきて朝廷が処置に困らぬよう、盧弘止を三州留後にしておくべきだと請い、武宗も従った。
- 山南東道兼昭義節度使の盧鈞には、駅馬で鎮州方面へ急行するよう命じた。
潞州で郭誼が劉稹を殺す
- 潞州では三州降伏の報が伝わると、郭誼と王協が劉稹殺害を謀った。障害となるのは、再従兄で中軍使兼押牙の劉匡周だった。
- 郭誼は、匡周が牙院にいるため諸将が本音を言えず、山東三州を失ったのだと劉稹に吹き込み、匡周を病と称して牙院から出させた。匡周は、自分が出れば一族は滅ぶと怒ったが、やむなく去った。
- 董可武は劉稹に、城中五万で籠城する策は良くない、むしろ身を束ねて朝廷に帰順し、郭誼を留後にしてのちに母や家族・財貨を東都へ送らせる方がよいと説いた。劉稹は郭誼と密約を結び、母の裴氏にも相談したが、裴氏は郭誼を信用するなと諭した。
- それでも劉稹は素服で出て郭誼を都知兵馬使に任じた。ところが李士貴が後院兵数千を率いて郭誼を襲おうとすると、郭誼は兵に「なぜ李士貴とともに死のうとするのか」と叱り、兵は逆に李士貴を殺した。
- 郭誼は一夜で将吏配置を整え、翌日董可武を使って劉稹を北宅へ誘い出し、酒宴のさなかに崔玄度に斬らせた。
- さらに劉稹の宗族は、劉匡周以下、襁褓の子に至るまで皆殺しにされ、劉従諫父子と親しかった張谷・陳揚庭・李仲京・郭台・王羽・韓茂章・韓茂実・王渥・賈庠ら十二家も、子姪や婿まで含めて残らず殺された。
- 軍中では少しでも疑わしい者が日々誅され、血が泥となるほどだった。郭誼は劉稹の首を箱に収め、王宰へ降表とともに送った。沢州を通過した際、劉公直は全軍で慟哭したのち王宰に降った。
朝廷の処置と郭誼誅殺
- 乙未、王宰は劉稹の首と降伏の状況を報告した。丙申、宰相が祝賀に入ると、李徳裕は邢・洺・磁に改めて留後を置く必要はなく、盧弘止には三州と成徳・魏博を宣慰させればよいと述べた。
- 武宗が郭誼をどう処すべきか問うと、李徳裕は、劉稹の挙兵は郭誼が主導したものであり、劣勢になるや主君を売って賞を求めたのだから、これを誅さねば悪を戒められないと主張した。武宗も同意した。
- 石雄に七千を率いて潞州へ入らせたのは、先に広まっていた流言に応じる意味もあった。
- 杜悰は、補給難を理由に郭誼らを赦すべきだとほのめかしたが、武宗は答えず、李徳裕は文宗朝であれば早々に赦していただろうが、今回は聖断ゆえに二つの反乱を平定できたのだと述べた。
- 戊戌、劉稹の首が京師に到着した。昭義五州には一年の租税・徭役免除を与え、軍の通過した州県ではその年の秋税を免じた。また、劉従諫以来の横暴な増税を廃し、土団兵も帰農させた。
- 郭誼は自分が節度使に取り立てられると期待していたが、沙汰がなく、やがて他鎮へ移されると考えて馬や荷物を整え始めた。ところが石雄が到着すると顔色を失った。
- 石雄は、晩牙の名目で諸将を球場に集め、河中兵に周囲を固めさせ、官軍に抵抗していた将を次々に捕らえて京へ送った。郭誼・王協・劉公直・安全慶・李道徳・李佐堯・劉武徳・董可武らは後に京師で斬られた。
- 何弘敬には同平章事を加えた。
- 丁未には劉従諫の墓を暴いて屍を潞州の市にさらし、石雄はさらにその屍を球場へ持ち出して斬り刻んだ。
- 戊申、李徳裕は太尉・趙国公に進んだが、本人は固辞した。
李徳裕が軍制の弊を改める
- 李徳裕は、韓全義以来、唐の出征軍がしばしば敗れてきた原因として三点を整理していた。第一に、詔勅が軍前へ日に何度も下り宰相にも周知されないこと、第二に、監軍が勝手に軍事指揮へ介入すること、第三に、各軍の宦官監使が勇兵だけを自衛用に抱え、戦場へは弱兵を出すことだった。
- そこで枢密使の楊欽義・劉行深と協議し、監軍は軍政に関与してはならず、自衛兵も千人につき十人までとする制度を実施した。
- 回鶻討伐から沢潞平定までこの方針が守られ、中書省から出る詔意以外に勝手な命令が減り、号令が簡明になったことで将帥は本来の計略を発揮できるようになった。
- さらに河北三鎮の使者に対して李徳裕は、河朔の兵力は強くても朝廷の官爵と威命なしでは安定できない、敕使を脅して官位を奪うより、自ら忠義を立てて天子の恩を受ける方が名誉であると常々説いた。これを武宗も支持したため、三鎮は異心を見せなくなった。
九月以降 昭義の安定化と司馬光の論評
- 九月、沢州を河陽節度に隷属させた。
- 丁巳、盧鈞が潞州に入った。盧鈞は寛厚で人を愛し、早くから昭義節度使を兼ねていたこともあって、襄州兵は陣中で彼の徳を語り、昭義の散卒も彼のもとへ帰ってきた。人心は和らぎ、昭義は安定した。
- 京師へ送られた郭誼・王協らはみな斬られた。
- 司馬光は、董重質や郭誼のような人物は、主君を操って反乱を起こさせ、最後は主を売って利を求めたので死罪に値するが、すでに降伏を受け入れた後にこれを殺すのは信義に反すると論じる。漢の光武帝が助乱の徒を即座には殺さなかった前例を引き、郭誼らは遠方流罪で十分だったと批評する。
- また、郭誼に既に殺された王羽・賈庠らに対して、李徳裕が「逆賊王涯・賈餗の子孫が昭義で誅せられた」と詔して内外へ宣告したことを、識者は非難した。王涯・賈餗の罪名の立て方が不当だという趣旨である。
- 劉従諫の妻・裴氏も賜死とされ、さらに昭義降将の李丕・高文端・王釗らに名簿を書かせて、劉稹に同調したとされる将士を多数誅した。盧鈞は冤濫を疑って寛恕を請うたが、認められなかった。
- 昭義属城でかつて王元逵に無礼を働いた者が二十余人処刑されると、残った人々は再び恐れて城を閉ざした。そこで戊辰、李徳裕らは、もはや国の城鎮となった以上、王元逵に攻撃を続けさせるべきでないとして、中使と盧鈞の使者を遣わし、招安と慰撫を行わせた。
- 乙亥、李徳裕らは武宗に尊号を上るよう請い、あわせて大功を成した帝王は天地へ告げるべきであり、宣懿太后もいまだ廟に祔されていないと述べた。武宗は郊廟の礼は急いで行うべきだとしつつ、尊号は固辞し、五度目の上表でようやく許した。
- 李徳裕はまた、幽州からの報告として、回鶻は上下離心し、帰唐を望む者も多く、遠からず来降または自壊すると述べ、張仲武に対して早く立功を図るよう中使に詔を持たせることを求めた。
- このころ李徳裕は、牛僧孺・李宗閔が太和中に劉従諫を朝廷へ留めなかったことが今日の禍根だとして弾劾し、さらに潞州で両者と劉従諫の往復書簡を探させたが証拠は得られなかった。それでも孔目官の鄭慶に、受け取った書状は毎回焼き捨てていたと証言させ、御史台に下して取り調べさせた。
- 河南少尹の呂述が、劉稹敗亡の報に接した牛僧孺が歎き悲しんだと告げたことも利用され、武宗は怒って牛僧孺を太子少保分司、李宗閔を漳州刺史とし、さらに戊子には牛僧孺を汀州刺史、李宗閔を漳州長史へ再び左遷した。
- 武宗は鄠で、ついで雲陽でも校猟を行った。
- 十二月、忠武節度使の王宰を河東節度使とし、河中節度使の石雄を河陽節度使とした。