資治通鑑唐紀 武宗至道昭肅孝皇帝 會昌 四年 844年

春正月 楊弁の反乱

  • 正月朔、楊弁は横水戍卒を率いて太原で反乱を起こし、市中を掠め、都頭の梁季叶を殺した。
  • 河東節度使の李石は汾州へ逃れ、楊弁は軍府を占拠した。
  • 楊弁は李石が囚えていた賈羣を釈放し、その甥とともに劉稹のもとへ送って兄弟の盟約を結ぼうとし、劉稹は大いに喜んだ。
  • 石会関の守将楊珍も太原の乱を聞いて劉稹へ降った。
  • 乱の報が届くと、朝議では沢潞・太原の両面作戦をやめるべきだという声も出た。
  • さらに王宰も、劉稹が帰順の意を示しているとして、もし朝命があれば招納したいと申し出た。

正月 李徳裕、降伏受諾に反対

  • 李徳裕は、王宰が劉稹の表を勝手に受け取り、賊中へも人を送ったことを批判した。
  • 韓信や李靖の例を引き、敵が降伏を求めてきても、それに応じるふりをして急襲するのが兵法であり、失われるのは王宰個人の信義であって、朝廷の威厳ではないと述べた。
  • 劉稹と諸将が一族ともに面縛しない限り受け入れてはならず、王宰にも石雄にもそれぞれ競うように軍功を立てさせるべきだと進言した。
  • また、李石・呂義忠を太原へ戻して近隣兵で楊弁を討たせる方針を示し、武宗は従った。
  • 王逢には榆社の河東兵を動かさず守備に専念させ、易定・宣武・兗海の兵三千で楊弁を討たせることにした。
  • 王元逵にも五千騎歩を土門から進ませ、呼応させた。
  • 忻州刺史李丕は、楊弁の遊説使者を斬り、北への逃路も断って討伐に加わると奏した。

正月 太原平定へ

  • 武宗は張仲武にも太原討伐を命じる案を口にしたが、李徳裕は、張仲武は昨年の回鶻戦で太原と争功した遺恨があり、鎮州経由で入れば住民に被害が及ぶとして止めた。
  • 中使の馬元実が太原へ赴いて乱兵を説諭し、実情も偵察したが、帰ってくると「早く節鉞を与えるべきだ」と主張した。
  • 李徳裕は、太原に新たな精兵や財貨が急に集まるはずはなく、楊弁の勢力を過大評価する必要はないと論破し、たとえ沢潞をやめてでも楊弁だけは赦すべきでないと強く述べた。
  • 一方、榆社の河東兵は、朝廷が客軍で太原を攻めれば自分たちの家族が殺されると恐れ、監軍呂義忠を擁して自ら太原へ向かった。
  • 壬子、河東兵は太原を奪回し、楊弁を生け捕りにし、反乱兵をことごとく誅した。

三月 日食、楊弁処刑、王宰督戦

  • 三月朔に日食があった。
  • 呂義忠から太原奪回の報が届くと、李徳裕は王宰が澤州攻略を二か月も引き延ばしている理由を分析した。
  • 彼は、王宰が石雄と不仲であり、自軍が昭義主力を引きつけている間に石雄が上党へ先入して功を独占するのを恐れていること、また実父王智興が愛して養子とした弟の王晏実が磁州刺史として劉稹に人質同然に抑えられているためではないかと指摘した。
  • 武宗は王宰への詔を李徳裕に起草させ、「愛弟を思う私情を抑えて大義を立てよ」と戒めた。
  • 李石は太子少傅分司に退き、崔元式が河東節度使、石雄が河中節度使となった。崔元式は崔元略の弟である。
  • 石雄は良馬など三寨一堡を落とした。
  • 辛酉、楊弁とその党五十四人は京師の狗脊嶺で斬られた。

三月 河陽強化と石会関

  • 李徳裕は、これまでの戦いが「王宰を磁州へ向かわせると言えば何弘敬が出兵し、客軍で太原を討つと言えば河東兵自身が楊弁を討つ」というように、心理戦によって成果を生んできたと整理した。
  • そこで、王宰がなお進軍しないなら、劉沔を河陽へ移し、義成の精兵二千を万善の近くに置いて王宰を牽制すべきだと進言した。
  • 武宗はこれを認め、劉沔を河陽節度使に任じた。
  • 王逢は昭義の康良佺を破って石会関を奪わせ、康良佺は鼓腰嶺まで退いた。

三月 黠戛斯・吐蕃情勢と河湟回復構想

  • 黠戛斯は将軍の諦徳伊斯難珠らを入貢させ、回鶻の旧牙帳へ移る希望、出兵時期、集合地点などを問うた。
  • 武宗は、今秋に黠戛斯が黒車子方面で回鶻を討つなら、幽州・太原・振武・天徳の四鎮に要路をふさがせ、敗残兵を邀撃させると約し、その上で回鶻と同じ形式の冊命を行うと告げた。
  • 朝廷では、回鶻衰微と吐蕃内乱に乗じて河湟の四鎮十八州回復を議論し、劉濛を巡辺使として、器械・糧食の準備、吐蕃守兵の情勢偵察、北辺諸軍の訓練を進めさせた。
  • 劉濛は劉晏の孫である。
  • 道士の趙帰真は右街道門教授先生に任じられた。

三月 吐蕃で尚婢婢優勢

  • 論恐熱配下の岌蔵豊賛が恐熱の残忍さを憎み、尚婢婢へ降った。
  • 論恐熱が再び鄯州の尚婢婢を攻めると、尚婢婢は木柵で包囲し、水源を断って追い詰めた。
  • 論恐熱は百余騎で囲みを破って薄寒山へ逃れ、残党はみな尚婢婢に降った。

夏四月 澤州攻囲と趙帰真批判

  • 王宰は澤州攻撃を進めた。
  • 武宗は神仙を好み、道士の趙帰真が寵遇を受けたため、諫官たちはたびたびこれを問題にした。
  • 李徳裕も、趙帰真は敬宗朝の罪人であり近づけるべきでないと諫めた。
  • 武宗は「閑時に談道して気を晴らすだけで、政務は宰相や次対官に諮っており、趙帰真が惑わすことはない」と弁明した。
  • 李徳裕は、小人は勢利に集まる夜の蛾のようなもので、趙帰真の門前に車馬が群がる状況こそ警戒すべきだと述べた。
  • 王起は同平章事を帯びたまま山南西道節度使となった。文臣が宰相を経ずに使相として出る異例の例で、彼は固辞したが、武宗は内外の別なく諫言せよと命じた。

六月 吏員削減

  • 李徳裕は州県の属官が冗員化しているとして、吏部郎中の柳仲郢に整理を命じた。
  • 柳仲郢は千二百十四員を削減した。
  • 柳仲郢は柳公綽の子である。
  • また、仇士良の旧悪を訴える者があり、その家から数千の兵仗が見つかったため、官爵を削って家産を没収した。

秋七月 王逢、劉稹、杜悰入相

  • 武宗は、王逢が法を厳しくしすぎているのではと問うたが、李徳裕は「王逢自身は、前に白刃がある戦場では法が厳しくなければ誰も進まないと言っていた」と答えた。武宗は理があるとしつつ、さらに戒めるよう命じた。
  • 李徳裕は改めて、劉稹は断じて赦してはならないと説いた。
  • その際、徳宗が李懐光討伐のとき、李泌が破った桐葉を使って「君臣の分はもはや元に戻らない」と示し、徳宗の決意を固めさせた故事を引いた。武宗は李泌を奇士と評した。
  • 武宗は揚州の倡女が酒令に巧みだと聞き、淮南監軍に十七人を選んで献上させようとした。
  • 監軍は節度使の杜悰にも選定への参加を求め、さらに良家の美女を新たに仕込んで献じようとしたが、杜悰は断固として関与しなかった。
  • 監軍は怒って奏上したが、武宗は「藩鎮に命じて倡女を選ばせるのは聖天子のすることではない。杜悰は大臣の節を守った」と恥じ入り、すぐに中止を命じた。
  • 甲辰、杜悰は同平章事となり、度支・塩鉄・転運使も兼ねた。
  • 中謝の際、武宗は杜悰に対し、「監軍に迎合しなかったことで卿に致君の心があると知った。卿を宰相にしたのは魏徴を得たようなものだ」と労った。