資治通鑑唐紀 文宗元聖昭獻孝皇帝下 開成四年 719年

裴度の死

  • 閏正月己亥、裴度が京師に到着したが、病のため邸宅に引きこもり、入朝できなかった。皇帝はしばしば使者を送って見舞いと下賜を行った。
  • 三月丙戌、裴度は死去し、文忠と諡された。遺表は完成しておらず、半ば書きかけの草稿が見つかったのみだったが、その内容は皇太子未定を憂えるもので、私事は一切語られていなかった。
  • 裴度は容貌こそ並みだったが威望は四方に届き、外夷ですら唐使に会うたびに彼の老少・進退を問うほどだった。二十年以上にわたり、郭子儀に比すべき国家の重鎮だった。

宰相間の対立激化

  • 夏四月、皇帝が杜悰の才を称えると、楊嗣復と李珏はこれを受けて杜悰を戸部尚書にしようと請うた。
  • 陳夷行は、恩命は本来君主から出るべきで、権が臣下に移るのは亡国の兆しだと反発した。李珏は、皇帝自身が「宰相は選ぶべきだが、選んだ後は疑うべきでない」と語ったではないかと応じた。
  • 五月丁亥、政事を論じた際にも陳夷行は「威福を下に移すべきでない」と繰り返し主張し、李珏は、自分たちが君主の権威を弄んでいると疑っているのだろうと応酬した。
  • 鄭覃は、開成元年・二年は政事が良かったのに、三年・四年は劣ると指摘した。楊嗣復は、それなら三・四年に政務を担った自分と李珏の責任であるとして、激して叩頭し、中書へ二度と入らないとまで言って退出した。
  • 皇帝は使者を送って呼び戻し、鄭覃の言葉が不適切だっただけで、なぜそこまで怒るのかと慰めた。鄭覃も、自分の言葉は必ずしも楊嗣復を名指ししたものではないと謝ったが、楊嗣復は、政事の悪化を言うなら皇帝の聖徳にも累を及ぼす話だとして、なお辞職を重ねた。最終的に癸巳になってようやく出仕した。
  • 丙申、鄭覃は右僕射、陳夷行は吏部侍郎へ転じ、宰相を罷免された。二人が清廉・剛直だったため、楊嗣復らに深く憎まれていたことが背景にあった。

姚朂任用をめぐる論争

  • 皇帝は、疑獄の審理に優れた塩鉄推官の姚朂を見込み、職方員外郎の職務を代行させようとした。
  • しかし右丞の韋温は、郎官は朝廷の清流から選ぶべきで、有能な実務官を褒賞のためにそこへ入れるべきではないと反対した。
  • 皇帝はやむなく、姚朂を礼部郎中の検校に進め、引き続き塩鉄推官とした。これは地方や諸使の僚属に付ける名目的な官であって、正規の郎官とは扱いが異なるためだった。
  • 六月丁丑、皇帝がこの件を宰相に問うと、楊嗣復は、もし有能な吏がみな清流に入れぬなら、天下の政務を誰が処理するのかと韋温の姿勢を批判した。だが皇帝は韋温を平素から重んじており、最終的にその主張を押し切らなかった。

義武問題の収束と崔鄲の入相

  • 秋七月癸未、張元益は左驍衛将軍となり、その母侯莫陳氏には趙国太夫人の号と絹二百匹が賜られた。義武の動乱の際、彼女が将士を説得し、また息子に朝命順守を戒めた功が評価されたためである。
  • 甲辰、太常卿の崔鄲が同中書門下平章事となった。彼は崔郾の弟だった。

蕭本・蕭弘の真偽問題

  • 八月辛亥、鄜王憬が死去した。
  • 癸酉、昭義節度使の劉従諫が上表し、太后の弟を名乗る蕭本・蕭弘の件で、上下ともに蕭弘を真とみているが、蕭本が左軍出身であるため蕭弘が御史台に抑えられていると訴えた。蕭弘本人が自らの訴えを劉従諫に持ち込んだため、朝廷で対決させて真偽を正してほしいという内容だった。
  • 朝廷は三司に命じて審理させた。

起居注閲覧拒否

  • 冬十月乙卯、文宗は起居舎人の魏謩から記注を借りて読もうとした。魏謩は、起居注は善悪をありのまま書いて後世への戒めとするものであり、君主自身が読むようになると史官が筆を曲げると述べて拒んだ。
  • 皇帝は以前にも見たことがあると言ったが、魏謩はそれはむしろ以前の史官の過ちだと応じた。皇帝もついに思いとどまった。

皇太子成美の冊立と文宗の悲嘆

  • 楊妃は皇弟の安王溶を後継に立てようと望んだが、李珏はこれに反対した。
  • 丙寅、敬宗の幼子である陳王成美が皇太子に立てられた。
  • 丁卯、会寧殿で音楽を観覧していた文宗は、綱渡りの童子の下を父親が狂ったように行き来しているのを見て不審に思った。事情を聞くと涙を流し、「自分は天子でありながら一人の子も守れなかった」と嘆いた。これは太子永の死を思ってのことだった。
  • 教坊の劉楚材ら四人、宮人張十十ら十人が、太子永を陥れたとして責められ、己巳に皆殺された。
  • 文宗はこの件で心痛を深め、もとの病も悪化した。

蕭氏の判決と文宗の自己評価

  • 十一月、三司の審理により、蕭本・蕭弘のどちらも真の太后の弟ではないと判明し、蕭本は愛州、蕭弘は儋州へ流された。真の弟は閩中にいたが、ついに名乗り出ることができなかった。
  • 乙亥、文宗はやや病が軽くなった際、思政殿で当番学士の周墀に酒を賜い、「自分は前代のどの君主に比すべきか」と問うた。
  • 周墀が堯舜だと答えると、文宗はそれを退け、「自分が言いたいのは周赧王や漢献帝のようなものだ。彼らは強い諸侯に制せられたが、自分は家奴に制せられているのだから、むしろそれ以下だ」と涙を流した。周墀も伏して泣いた。
  • 以後、文宗はしだいに朝会に臨まなくなった。

戸口統計と回鶻内乱

  • この年の天下の戸口は四百九十九万六千七百五十二戸であった。
  • 回鶻では宰相の安允合と特勒柴革が乱を企てたが、彰信可汗がこれを誅殺した。
  • その後、外地に兵を握っていた宰相掘羅勿が、沙陀の朱邪赤心に馬三百匹を贈って援軍を借り、可汗を攻撃した。可汗は敗れて自殺し、国人は㕎馺特勒を新たな可汗に立てた。
  • さらに疫病と大雪で羊馬が多く死に、回鶻の衰退はいっそう進んだ。朱邪赤心は執宜の子である。