資治通鑑唐紀六十 文宗 太和五年 711年

正月 義昌軍の命名と幽州の変

  • 丁巳、滄・斉方面の節度に「義昌軍」の号が賜られた。沿革上、横海・斉徳を経た後の新たな軍号である。
  • 庚申、盧龍監軍は、李載義が勅使と球場で宴していた隙に、後院副兵馬使の楊志誠が徒党とともに騒乱を起こし、李載義が子の正元とともに易州へ逃れたと奏した。志誠はさらに莫州刺史の張慶初も殺した。

幽州処置をめぐる議論

  • 文宗が宰相に対策を問うと、牛僧孺は、范陽は安史以来もはや完全には朝廷のものではなく、劉総が一時献納しても膨大な費用ばかりかかったのだから、今また楊志誠が得たのも李載義が以前得たのと同じだ、と述べた。朝廷は彼を懐柔して北狄の防衛に使えばよく、逆順を細かく問う必要はないと主張した。文宗はこれに従った。
  • 李載義は易州から京師へ向かい、滄・景平定の功と朝廷への恭順を認められた。二月壬辰、太保・同平章事のままとされ、楊志誠は盧龍留後となった。

宋申錫排斥の陰謀

  • 文宗は宋申錫と宦官誅滅を密議しており、申錫は王璠を京兆尹にしてひそかに意向を伝えた。だが王璠が漏らしたため、鄭注と王守澄がこれを知って密かに備えた。
  • 文宗の弟・漳王湊は賢明で人望があったため、鄭注は神策都虞候の豆盧著に命じ、宋申錫が漳王を立てようとしていると誣告させた。
  • 戊戌、王守澄がこれを奏上し、文宗は真に受けて激怒した。
  • 王守澄はただちに二百騎を派して宋申錫の家を皆殺しにしようとしたが、飛龍使の馬存亮が強く諫め、そうすれば京城自体が乱れると止めた。そこでまず他の宰相と協議することになった。
  • その日は旬休で、宰相たちは急遽中書へ召されたが、中使は「宋公の名はない」と告げた。宋申錫は失脚を悟り、延英殿を望んで笏で額を打って退いた。
  • 宰相たちが延英殿に至ると、文宗は王守澄の奏状を示した。豆盧著の告げた関係者、宮市品官の晏敬則、宋申錫の側近の王師文らが禁中で取り調べられ、王師文は逃亡した。

三月 宋申錫失脚

  • 庚子、宋申錫は宰相を罷めて右庶子に落とされた。
  • 宰相・大臣の多くは冤罪を公然と論じなかったが、京兆尹の崔琯と大理卿の王正雅だけは、内獄のままにせず外廷に出して事実を精査すべきだと繰り返し上疏したため、取り調べはやや緩和された。
  • 晏敬則らは拷問の末、宋申錫が王師文を通じて漳王と結ぼうとしたと自白させられた。
  • 壬寅、文宗は師保以下・台省府寺の大臣たちを集め、面前で意見を問うた。昼時になると、崔玄亮・李固言・王質・盧鈞・舒元褒・蔣係・裴休・韋温らがさらに延英殿での再審を請い、外廷に付して再度調べるよう求めた。
  • 文宗はすでに大臣と協議済みだと言って退去を命じたが、崔玄亮が泣いて「一介の匹夫を殺すにも慎重であるべきなのに、まして宰相ではなおさらです」と訴えたため、文宗の怒りは少し和らいだ。
  • 牛僧孺は、宰相という最高位にある宋申錫がさらに何を求めて謀反するというのか、と述べ、事実ではないだろうと示唆した。
  • 鄭注は、再調査で虚構が露見することを恐れ、王守澄に貶黜だけで済ませるよう勧めた。
  • 癸卯、漳王湊は巣県公に落とされ、宋申錫は開州司馬へ左遷された。馬存亮はその日のうちに致仕を願い出た。
  • 晏敬則らは死罪や流罪に処され、数十から百人規模で連座が出た。宋申錫は結局、配所で死んだ。

四月〜五月 幽州・太廟・南詔俘虜

  • 己丑、李載義は山南西道節度使に移り、楊志誠が正式に幽州節度使となった。
  • 辛丑、文宗は太廟の二室が一年以上も雨漏りしているのに修理されていないとして、将作監・支度判官・宗正卿の俸を減じ、中使に命じて禁中の建材を流用して急ぎ修繕させようとした。
  • 左補闕の韋温は、百官にはそれぞれ職掌があるのだから、怠慢があるなら担当官を罷めて有能者に替えるべきで、宗廟のことだけを内臣に委ねれば、宗廟が皇帝私事になり百官は空文になると諫めた。文宗はその言を善しとし、中使派遣を取りやめ、有司に修理させた。
  • 丙辰、李徳裕は南詔に使者を派して、前回の侵攻で掠われた百姓の返還を求め、約四千人を連れ戻した。

八月〜九月 崔郾の治績と蜀兵刷新

  • 戊寅、崔郾が陜虢から鄂岳観察使に転じた。鄂岳は山と江に挟まれ、百越・巴蜀・荊漢の交通の会する場所で、群盗が行舟を襲って老幼を問わず殺害する悪風があった。崔郾は兵を訓練し、軍船を作って追討し、一年ほどでこれを根絶した。
  • 崔郾は陜州では寛厚な統治を行っていたが、鄂州では厳刑を用いた。土地柄と民俗の違いに応じて施政を変えるべきだというのがその理由だった。
  • 李徳裕は、蜀兵のうち老弱・病者が終身そのまま在籍している現状を改め、身長五尺五寸を基準にして四千四百余人を整理した。さらに若壮の千人を募って不満を和らげ、また北兵千五百を得て土着兵と混成させ、相互訓練によって戦力を高めた。
  • 蜀の工房が作る兵器は華美な装飾ばかりで実用に乏しかったため、李徳裕は他道から工匠を取り寄せて堅牢な兵器を作らせた。

九月 維州帰附と朝議

  • 吐蕃の維州副使・悉怛謀が降伏を願い、全軍を率いて成都へ奔った。李徳裕は行維州刺史の虞蔵儉に兵を授けて入城させ、その地を確保した。
  • 庚申、李徳裕は詳細を奏し、さらに生羌三千を使って十三橋を焼き、西戎の腹心を突けば、長年の恥をすすげると主張した。これは韋皋も遂げられなかった宿願だとしている。
  • この件は尚書省に下され、百官はおおむね李徳裕の策に賛成した。
  • しかし牛僧孺は、吐蕃は四面万里の大国であり、維州一城を失っても大勢に影響はない、近年せっかく和約して戍兵も減らしたのに、ここで信義を破れば大軍が平凉阪を越えて咸陽近くまで来る危険がある、と論じた。遠く西南の一城を得ても益は乏しく、信を失う害のほうが大きいというのである。
  • 文宗は牛僧孺の意見を採り、李徳裕に維州を吐蕃へ返すよう命じた。悉怛謀と従ってきた者たちも吐蕃へ引き渡され、境上でことごとく惨殺された。
  • この件で李徳裕は牛僧孺への恨みを深めた。

冬十月 南詔再侵入

  • 戊寅、李徳裕は南詔が嶲州を侵し、三県を陥したと奏上した。