資治通鑑唐紀五十六 憲宗 元和十四年 819年

正月:各地の戦況

  • 正月辛巳、韓弘は考城を攻略し、二千余を殺した。
  • 丙戌、李師道の任じた沭陽令の梁洞が県をあげて楚州刺史の李聴に降った。
  • 吐蕃の使者である論短立蔵らが修好のため来ていたが、まだ帰国しないうちに吐蕃軍が河曲へ侵入した。
  • 憲宗は、国が信を失ったのであって使者に罪はないとして、庚寅に彼らを帰国させた。
  • 壬辰、李愬は魚台を攻略した。

正月後半:仏骨崇拝と韓愈の直諫

  • 中使が迎えた仏骨が京師に到着すると、憲宗は三日間これを禁中に留め、その後諸寺へ順に送った。
  • 王公から庶民にいたるまで拝観と布施を競い、財産を傾ける者や、腕や頭頂で香を焚いて供養する者まで現れた。
  • 刑部侍郎の韓愈は上表し、仏は夷狄の法にすぎず、古の聖王たちの時代には仏法はなくても長寿と安楽が保たれていた一方、後代は仏を崇めるほどかえって国運が短くなった、と論じた。
  • とくに梁武帝の例を挙げ、仏に身を捨てても侯景の乱で餓死し、国も滅んだのだから、仏に福を求めてかえって禍を得たのは明らかだとした。
  • また、もし仏が生きて使者として来たとしても、朝廷は礼を尽くして境外へ送り、人民を惑わすことを許さないはずなのに、今や朽ちた骨を宮中に入れるのは不吉であり、しかも群臣も御史もこれを諫めないのは恥ずべきことだとした。
  • そして、その骨は有司に渡して水火に投じ、天下と後世の迷いを断つべきだと進言し、もし仏に霊があるなら禍は自分一人に降すよう願った。
  • 憲宗は大いに怒って宰相に示し、韓愈を極刑にしようとした。
  • 裴度・崔羣が、言い方は激烈でも忠から出たもので、寛容にして言路を開くべきだと取りなしたため、癸巳、韓愈は潮州刺史に左遷されるにとどまった。

仏教批判をめぐる補論

  • 戦国以来、老荘が儒家と優劣を争い、さらに漢末以後は仏教が加わって思想界を競った。
  • 晉・宋以後は仏教信仰が帝王から士民まで広く浸透したが、韓愈はその財政負担と人心惑乱を憎み、強く排撃した。
  • その論はしばしば激しすぎたが、人が生死の由来を知らずにただ安逸に過ごすべきでないという趣旨については、別の文章でよく本質を衝いていると評価された。

正月末から二月:東方戦線と横海の混乱

  • 丙申、田弘正は東阿で淄青兵を破り、一万余を殺した。
  • 滄州刺史の李宗奭は横海節度使の鄭権と折り合わず、その統制を受けなかった。鄭権が奏上すると、憲宗は中使を送って李宗奭を召した。
  • 宗奭は州の兵に引き留められたとして、乱を恐れて州を離れられないと上表した。だが、烏重胤が後任として来ると知ると、将吏は自分たちも罪を問われるのを恐れて宗奭を追い出し、彼は京師へ逃げた。
  • 辛丑、李宗奭は独柳の下で斬られた。
  • 丙午、田弘正は再び陽穀で平盧兵を破った。