資治通鑑唐紀四十八 德宗神武聖文皇帝 貞元 元年 785年

秋八月・経費節減と河中討伐の進展

  • 朝廷は、急を要しない支出と、実務に役立たないまま扶持を受ける者を整理・停止するよう命じた。
  • 馬燧は行営に到着すると、長春宮が落ちなければ李懷光を討ち取りきれないと判断し、自ら城下へ赴いて守将の徐庭光を説得した。徐庭光らは態度を軟化させたが、なお即答はしなかった。
  • 馬燧は、自分を信じないなら射殺してみよとまで言って真意を示し、城兵に「罪は李懷光にあり、お前たちではない。持ち場を守って軽挙するな」と諭した。
  • 壬申、馬燧・渾瑊・韓遊瓌らは河中へ進軍し、焦籬堡の守将尉珪が七百人を率いて降伏した。
  • その夜、李懷光が各営に合図を送っても呼応はなく、包囲側の優勢が明白となった。
  • 駱元光も長春宮に降伏を勧めたが、徐庭光はこれを侮辱して拒んだ。馬燧が再び出向くと、徐庭光は門を開いて降伏し、馬燧は少数の騎兵のみで入城して兵を慰撫した。これを見て渾瑊は、自分は馬燧の用兵に及ばないと認めた。

李懷光の最期

  • 朝廷は徐庭光に試官と兼官を与えて帰順を賞した。
  • 甲戌、馬燧が諸軍を率いて河西に至ると、河中城内では西城・東城ともに鎧を着けて隊列を整えたとの噂が広がり、兵士たちは動揺した。
  • ほどなく城中では、李懷光の号令を捨てて「太平」の字を名乗り合うようになり、李懷光はなすすべなく自縊して死んだ。
  • かつて李懷光が奉天包囲を解いた際、皇帝はその子の李璀を厚遇していた。だが李懷光が咸陽で進まなくなったころ、李璀は密かに「父はいずれ必ず叛く」と警告していた。
  • 皇帝は李璀に父を説得させようとしたが、李璀は「父は主上を信じず、ただ死を恐れているだけで、説得は無益」と告げた。
  • 李懷光が死ぬと、李璀はまず二人の弟を刺し、その後に自殺した。父子とも大義の板挟みの中で死んだことになる。
  • 朔方の将牛名俊が李懷光の首を斬って降り、馬燧は河中軍一万六千のうち主だった者七人だけを処刑し、他は不問に付した。
  • 馬燧は出発から二十七日で河中を平定し、高郢・李鄘を獄から出して幕下に置いた。
  • 韓遊瓌の軍でも、楊懷賓が奮戦した功により、その子の楊朝晟が赦され、都虞候に任ぜられた。

陸贄の進言

  • 皇帝は、河中平定後にどのような措置を取るべきか陸贄に諮った。
  • 陸贄は、勝勢に乗じてただちに淮西の李希烈を討つべきだとする意見は危険だと論じた。もしそうすれば、近年帰順した諸鎮は「興元での宥免は苦境しのぎの仮約束だった」と疑うからである。
  • 彼は、以前は大軍で討っても反叛が深まったのに、今は寛大な詔だけで人心が帰している事実を挙げ、徳をもって人を服させるのが王道だと説いた。
  • また、李希烈だけはなお従わないかもしれないが、すでに孤立しており、諸鎮に守りを固めさせるだけで、やがて自滅すると見た。
  • こうした意見を受け、丁卯、朝廷は李懷光に一子を残して家名を継がせ、田宅を与え、首と遺体を返して葬らせた。また馬燧を侍中に、渾瑊を検校司空に進め、諸軍にも賞を与えた。
  • 淮西に接する諸道には、相手から侵攻してこない限り進討するなと命じ、李希烈が降れば不死の待遇とし、その他の将兵・百姓も原則不問とした。これは陸贄の方針を採ったものだった。

人事と私怨

  • かつて李晟が神策軍を率いて成都に駐屯した際、連れ帰った営妓を西川節度使張延賞が取り返したことから、李晟と張延賞の間には遺恨があった。
  • このころ劉從一が病となり、皇帝は張延賞を宰相にしようとしたが、李晟がその過失を上表して強く反対したため、ひとまず左僕射にとどめた。
  • 壬午、駱元光は、祖先を侮辱された恨みから徐庭光を軍門外で殺し、馬燧に謝罪した。
  • 馬燧は、朝廷から官を授けられた降将を勝手に殺したのは統帥権を無視する行為だとして激怒し、駱元光を斬ろうとしたが、韓遊瓌と渾瑊が取りなして助命された。
  • 渾瑊が河中に鎮すると、李懷光の旧兵の多くは渾瑊の配下となり、朔方軍は以後、邠州と蒲州に分かれて駐屯する形となった。

秋九月以後の朝政

  • 盧龍節度使劉怦が病に倒れたため、己亥、その子の劉濟に節度使の職務を代行させた。ほどなく劉怦は死去した。
  • 己未、宰相劉從一は罷免されて戸部尚書となり、翌庚申に死去した。
  • 冬十月癸卯、皇帝は円丘で祭祀を行い、大赦した。
  • 十二月、戸部は、この年の朝貢が百五十州からあったと報告した。
  • 于闐王曜は、自らに王位を譲った兄の子の鋭を立ててほしいと願い出た。皇帝は鋭に官を授けて帰国させようとしたが、勝は、曜はすでに国政を担い民心も服しており、鋭は長安育ちで風俗に通じないとして固辞した。そこで鋭は韶王府の諮議とされた。