資治通鑑唐紀四十二 德宗 建中 二年 781年

春正月:李宝臣死去と成徳の継承問題

  • 正月戊辰、成徳節度使の李宝臣が死去した。彼は晩年、妖妄な術士や陰陽家を近づけ、天命が自分にあると信じるような兆しを集めていたという風聞があったが、その真偽は疑わしい。
  • 宝臣は軍府を子の行軍司馬・李惟岳に伝えようとしていたが、惟岳が若く愚かで制御しきれないのを恐れ、先立って深州刺史の張献誠ら、抑えの利く有力将を十人余りも殺していた。
  • 易州刺史の張孝忠にも召命があったが、彼は赴かず、弟に、諸将が何の罪で連続して殺されるのか、自分も死を恐れて行けないだけで、叛意があるわけではないと伝えさせた。宝臣はこれを許した。兵馬使の王武俊も、勇猛で位が低く、さらに宝臣がその子に娘を嫁がせていたため、左右と結んで身を保った。

喪の秘匿と朝廷の不許

  • 孔目官の胡震の家僮・王它奴が惟岳に勧め、宝臣の死を二十日余り隠し、なお宝臣の上表を装って惟岳への継承許可を求めた。
  • 徳宗はこれを認めず、給事中の班宏を派遣して病状を問いつつ意向を伝えさせた。惟岳は賄賂を贈ったが、班宏は受けずに戻った。
  • 惟岳はそこでようやく喪を発し、自ら留後を称して将佐連名の奏上で旌節を求めたが、徳宗はなお許さなかった。

諸鎮連携の背景

  • 宝臣は李正已・田承嗣・梁崇義と結び、領地を子孫へ伝えることを共通の方針としていた。以前、田承嗣の死後に朝廷が田悦の継承を認めた前例も、宝臣が強く請願した結果だった。
  • 田悦はこのたびも李惟岳の継承をたびたび請うたが、徳宗は旧弊を断つとして認めなかった。
  • 周囲は、いま惟岳はすでに父の軍府を握っているのだから、任命してやらなければ必ず乱になると諫めた。だが徳宗は、賊徒が乱を起こせるのは朝廷の土地と官号を利用しているからであり、欲するまま任命してきた結果、乱はむしろ増えたのだと答えた。爵命で乱は止められず、かえって乱を育てるだけだという判断である。
  • 結局、徳宗は不許を貫いた。田悦と李正已はそれぞれ使者を惟岳のもとへ送り、密かに兵を整えて命令拒否の連携を図った。

田庭玠・邵真・谷従政の諫言

  • 魏博節度副使の田庭玠は田悦に対し、伯父の遺業に安んじて朝廷へ謹んで仕えれば富貴は保てるのに、なぜ理由もなく恒州・鄆州と組んで叛臣になろうとするのか、反乱者で家を保った者がいるかと涙ながらに諫めた。田悦は自ら謝罪に行ったが、庭玠はついに憂死した。
  • 成徳判官の邵真も惟岳を泣いて諫めた。先代は国恩を厚く受けたのに、まだ喪中のうちから国を背くのはひどい、李正已の使者を捕えて朝廷に送り、みずから討伐を請えば忠義を嘉されて旌節を得られるかもしれない、と説いた。
  • 惟岳はいったん同意し、邵真に上奏文を書かせようとしたが、長史の畢華が、二十年来の盟友を捨てるのは危険で、朝廷も信用しないかもしれず、正已に襲われれば孤立すると反対し、惟岳は再び翻した。
  • 前定州刺史の谷従政は惟岳の母方の舅で、胆略と読書で知られ、王武俊らも敬っていた。彼は、天子は聡明で諸侯の世襲を許す気がなく、今もし最初に詔命に背けば、諸道が討ち寄せ、将士は一敗すれば保身に走り、大将たちも惟岳の首を取って功にしようとするだろうと警告した。
  • さらに、宝臣が殺した将の子弟や、幽州の朱滔兄弟との怨みもあり、もし戦争になれば難局は避けられないと説いた。
  • そして、将佐に謝り、庶兄の惟誠に軍府を預け、自ら入朝して宿衛を願い出れば、忠義を喜ばれてたとえ節度使になれなくとも栄禄と安全は保てると勧めた。
  • 惟岳はこの切実な言葉をかえって憎み、谷従政は再び病と称して引きこもった。惟岳は兄の惟誠も警戒して国事に参与させず、胡震や王它奴とだけ計議し、将士には金帛をばらまいて懐柔した。
  • 従政は最後に、自分は死を恐れないが張氏一族が滅ぶのを悲しむと言い残して薬を飲み、死んだ。李宝臣の本姓が張氏だったためである。

諸鎮の不安と河南の防備

  • 劉文喜の死、ついで劉晏の誅殺を見て、李正已らは、自分たちの罪悪は劉晏より重いのだから無事で済むはずがないと恐れた。
  • ちょうど汴州の城が狭かったためこれを拡張すると、東方では徳宗が東への大規模経略を始める、との流言が広まった。李正已は恐れて兵一万人を曹州に集め、田悦も備えを固め、梁崇義・李惟岳とも連絡しあった。河南の士民は大いに動揺した。
  • これに対し、丙子、永平旧軍から宋・亳・潁の三州を分けて別節度使を置き、宋州刺史の劉洽を任じた。泗州は淮南に属させた。
  • また、東都留守の路嗣恭を懐・鄭・汝・陝四州および河陽三城の節度使とし、ほどなく永平節度使の李勉をその両道の都統とした。さらに、諸州刺史には軍事経験者を選んで李正已らに備えた。

二月:沈太后誤認騒動

  • 高力士の養女で、東京に寡居していた女性が宮中の事情をよく知っていたため、女官の李真一が沈太后ではないかと考え、使者にその事情を申告した。
  • 徳宗はこれを聞いて驚喜し、かつて沈氏に仕えた古老はすでにほとんど亡く、識別できる者もいなかったので、宦官と宮人を派遣して確認させた。年齢や様子は似ていたため、彼らは本人だと報告した。
  • その女性は自分は太后ではないと言ったが、かえって疑われ、強引に上陽宮へ迎え入れられた。徳宗は宮女百余人を送り、天子の母にふさわしい服御を整えさせた。
  • 左右がさまざまに説得すると、女性も心が動き、自分が太后だと言い出した。知らせを受けた徳宗は大いに喜び、辛卯、偶数日に御殿へ出て群臣の賀を受け、有司に奉迎儀礼の準備まで命じた。
  • ところが、その弟の高承悦が、真相を隠していてはのちに罪を受けると恐れ、急いで事情を明かした。高力士の養孫・樊景超が再確認に行くと、女性は内殿に居て太后然としていた。景超が詔命を示して左右を退かせると、女性は、自分の意思ではなく周囲に強いられたのだと白状した。こうして牛車で自宅へ帰された。
  • 徳宗は、後の者が太后情報を言い出せなくなっては困るとして、誰も罪に問わず、自分は百たび欺かれても一度本物を得たいのだと語った。以後も各地で数度「太后発見」の報があったが、すべて偽物で、本当の沈太后の行方はついに分からなかった。

盧杞の登用

  • 御史中丞の盧杞は、盧奕の子で、容貌は非常に醜かったが、弁舌に長け、徳宗に気に入られていた。丁未、御史大夫に抜擢され、京畿観察使も兼ねた。
  • 郭子儀はふだん客に会う時も姬妾をそばから離さなかったが、盧杞が病を見舞った時だけは、全員を退けて一人で几にもたれて会った。理由を問われると、盧杞は容貌が醜いうえ心も険悪で、女たちが見て笑えば、のちに彼が権勢を得た際、自分の一族が滅ぼされかねないからだと答えた。

楊炎と盧杞の並立

  • 楊炎が劉晏を殺して以来、朝野は顔色をうかがうようになっていた。李正已もたびたび劉晏の罪を問い、朝廷を皮肉る表を送ってきた。
  • 楊炎はこれを恐れ、腹心を諸道に派遣し、表向きは宣慰としながら、実際には各節度使に、劉晏は昔、姦邪と結んで独孤妃の立后を図ったため、皇帝が嫌って殺したのだと密かに説明させた。
  • 徳宗はこの行動を聞いて楊炎を嫌うようになり、まだ表には出さないものの誅そうとする意思を抱いた。
  • 乙巳、楊炎を中書侍郎・同平章事へ転じ、盧杞を門下侍郎・同平章事に抜擢して、楊炎に専権させない体制にした。
  • 盧杞は狡猾で権勢を立てようとし、自分に従わない者は小事でも死地へ追いやろうとした。太常博士の裴延齢を集賢殿直学士に引き立て、側近とした。

宣武改称と振武の乱

  • 丙午、汴宋軍を宣武軍と改称した。
  • 振武節度使の彭令芳は苛虐で、監軍の劉恵光は貪婪だったため、乙卯、軍士が両人を殺した。

関東防備と楊恵元

  • 吐蕃と和睦して西辺に警報がなくなった一方、河南・河北の諸鎮が反抗態勢に入ったため、京西の防秋兵一万二千を関東へ派遣して守らせた。
  • 徳宗は望春楼に出て将士を宴労したが、神策軍だけは酒を飲まなかった。理由を問うと、将の楊恵元は、奉天の軍帥張巨済が、今回の出征で功名を立て、凱旋の日にともに祝おうと戒めていたため、あえて飲まないのだと答えた。
  • 道中で他部隊には酒食が振る舞われたが、楊恵元の部だけは瓶も開けなかったので、徳宗は深く感心し、書を賜って慰労した。楊恵元は平州の人である。

三月:溵州設置・王翃・吐蕃使

  • 三月、郾城に溵州を置いた。
  • 辛巳、汾州刺史の王翃を振武軍使・鎮北綏銀等州留後とした。
  • また、殿中少監の崔漢衡を吐蕃へ使わせた。

梁崇義への懐柔

  • 梁崇義は李正已らと連携していたが、勢力は比較的小さく、朝廷への礼数はもっとも恭しかった。周囲には入朝を勧める者もいたが、彼は、来瑱のような大功の人でさえ、宦官に讒されて結局は族誅された前例があり、自分のように罪過の積もった者が行けるはずはないと考えていた。
  • 淮寧節度使の李希烈はたびたび梁崇義討伐を願い出ていたので、梁崇義はいよいよ武備を固めた。
  • 流罪人の郭昔が梁崇義の変意を告発したが、徳宗はかえって郭昔を杖打ちして遠流にし、金部員外郎の李舟を襄州に派遣して、詔意を伝えて安心させようとした。
  • 李舟は以前、劉文喜のもとへ赴いて禍福を説き、のち部下が文喜を殺して降った件で名を知られていたため、諸道の跋扈者たちは彼を「城を覆し将を殺す使者」と恐れた。
  • 襄州で李舟が率直に入朝を勧めたため、梁崇義はいっそう嫌悪した。その後、諸道宣慰のため再び李舟が向かうと、梁崇義は境で拒んで入れず、別の使者を求めた。
  • 当時、両河の諸鎮が疑心暗鬼になっていたので、徳宗は恩信を示して安んじようとし、四月庚寅、梁崇義に同平章事を加え、その妻子にも封賞を与え、鉄券と手詔を送った。さらに、その裨将の藺杲を鄧州刺史に任じた。

五月:商税増徴

  • 五月丙寅、軍興費のため商税を十分の一に引き上げた。楊炎の両税法では商人課税は三十分の一であったから、かなりの増税である。

田悦の河北攻勢

  • 田悦はついに李正已・李惟岳と連携して朝命を拒む方針を固め、兵馬使の孟祐に歩騎五千を率いさせて北へ遣わし、惟岳を助けた。
  • かつて薛嵩の死後、田承嗣が洺州・相州を奪い、朝廷には邢州・磁州と臨洺県だけが残っていた。田悦は、邢・磁は自分の腹の中の両眼のような存在で、放置できないと考えた。
  • そこで兵馬使の康愔に八千を率いさせて邢州を包囲し、別将の楊朝光に五千を率いさせて邯鄲西北に柵を築かせ、昭義軍の救援路を断とうとした。田悦自身は数万人を率いて臨洺を囲んだ。
  • 邢州刺史の李共、臨洺の将の張伾は、ともに堅壁して守った。

邢曹俊の進言

  • 貝州刺史の邢曹俊は、田承嗣以来の宿将で、老練かつ計略に富んでいた。だが田悦は側近の牙官・扈㟧を寵し、曹俊を疎んじていた。
  • 臨洺攻撃の際、田悦が意見を求めると、曹俊は、兵法でも十倍の兵で囲み五倍で攻めるというのに、今は逆臣として順命の朝廷に挑むうえ兵力も不十分なのだから、堅城の下に兵を頓置して糧を尽くすのは自滅だと述べた。
  • それより一万の兵を崞口に置いて西方からの援軍を遮れば、河北二十四州はすべて手に入ると進言したが、諸将は自分と異なる考えを嫌ってこぞって曹俊を中傷し、田悦はこの策を用いなかった。