春正月:改元と両税法
- 春正月丁卯朔、改元して建中元年とし、群臣は徳宗に「聖神文武皇帝」の尊号を奉った。
- この時、楊炎の建議にもとづいて、黜陟使と観察使・刺史に命じ、百姓の戸口と資産を調査して等級を定め、両税法を施行した。
- 近年の新旧さまざまな臨時徴収や名目税は一切停止し、両税以外に一銭でも勝手に取り立てた者は枉法として処罰することとした。
- 従来の租庸調は、戸籍の荒廃と戦乱によって実態を失い、臨時課税が乱発され、富者は僧や官となって課役を逃れ、貧者だけに負担が集中していた。役所は口実を設けて搾取し、百姓は流亡して土着民は半分にも満たなくなっていた。
- 両税法では、州県の歳出と上供額を先に算定して、その必要総額を人民に割り当てた。主戸・客戸を区別せず現住者で台帳を作り、丁男の有無ではなく貧富で税負担を決めた。行商人も居住地の民と同様に課税し、租庸調や雑徭はすべて廃して度支に統一した。
劉晏失脚の策動
- 当時、左僕射の劉晏は吏部尚書で、楊炎はその侍郎だったが、両者はもとから不仲であった。元載の失脚にも劉晏は力を貸していた。
- 徳宗が即位すると、劉晏は長年財政権を握っていたため、人々の嫉視を受けた。さらに、かつて独孤妃を皇后に立てるよう代宗に密奏したという風聞もあった。
- 楊炎は元載の仇を討つ意図もあり、劉晏が黎幹・劉忠翼らと同謀したと泣いて訴えた。崔祐甫は、証拠のあいまいな話を、大赦後に蒸し返すべきではないと反対した。
尚書省への権限回帰
- 楊炎は、近年さまざまな使職が設けられたため、尚書省本来の権限が奪われていると奏し、旧制に戻すよう求めた。
- 正月甲子の詔で、天下の銭穀は金部・倉部の所管とされ、劉晏の転運・租庸・青苗・塩鉄等の使職は罷められた。
二月:黜陟使派遣と田悦の軍心掌握
- 二月丙申朔、黜陟使十一人を天下に分遣した。
- このころ魏博節度使の田悦は、表向き朝廷には恭順だったが、河北道の黜陟使・洪経綸が実情を知らず、田悦の兵七万人のうち四万人を帰農させるよう命じた。
- 田悦はいったん命令に従う姿勢を見せたうえで、解散対象の兵に対し、家族を抱えたおまえたちは今さらどう生きるのかと煽った。彼らが泣き出すと、田悦は自腹で恩給を与えて部伍に戻したため、兵は田悦に恩を感じ、朝廷を怨むようになった。これは後の反乱の下地となった。
楊炎専政と原州築城・豊州屯田案
- 崔祐甫は病のため政務を見ることが少なくなり、楊炎が単独で大政を握った。彼は恩讐を晴らすことを優先し、元載の遺策に従って原州築城を進めようとした。
- また、両京と関内から人夫を徴発し、豊州の陵陽渠を浚って屯田を興す計画も立てた。
- 徳宗は中使を涇原節度使・段秀実のもとへ派遣し、その利害を問わせた。段秀実は、辺備がまだ脆弱な今は大工事で敵を招くべきでないと答えたため、楊炎はこれを妨害とみなし、段秀実を司農卿へ召し返した。
- さらに京兆尹の厳郢も、朔方五城周辺には開墾可能地が多く、まずそこを使うべきで、関中から人夫を出して豊州で工事しても費用倒れになると上奏したが、取り上げられなかった。結局、陵陽渠は完成せず放棄された。
李懐光の転任と涇原軍の不安
- 丁未、李懐光は邠寧節度使のまま四鎮北庭行営・涇原節度使も兼ね、軍を原州へ移して築城を督促するよう命じられた。四鎮北庭留後の劉文喜は別駕とされた。
- しかし涇原の将士は、国家の西門を守ってきた自分たちが、ようやく邠州に耕地を持ち着いたのに、また塞外へ追いやられるのかと強く不満を持った。
- しかも李懐光が前任地で史抗・温儒雅ら宿将を殺したことを知っており、自分たちにも同じことが起こるのではないかと恐れていた。
劉晏の忠州左遷
- 楊炎は「奏事不実」を理由に、己酉、劉晏を忠州刺史へ左遷した。
李抱真昇進
涇原軍の拒命
- 楊炎は原州再建によって秦州・原州方面を回復しようと考え、李懐光を先鋒として工事を督させ、朱泚と崔寧に各一万人を率いさせて後方支援にあてた。
- 涇州には築城資材の準備命令が下ったが、軍中では、邠州から涇州へ移され、またさらに塞外へ出されることへの怒りが噴き上がった。
- 劉文喜は軍中の不安を利用し、涇州を拠点に詔命を拒んだ。上表して段秀実の復帰、だめなら朱泚の任用を求めた。
- 徳宗は癸亥、朱泚を四鎮北庭行営・涇原節度使として李懐光の代わりに当てた。
三月:張渉・辛京杲・李忠臣
- 翰林学士・左散騎常侍の張渉が、かつて湖南観察使だった辛京杲から賄賂を受け取ったことが発覚し、徳宗は法に照らして処罰しようとした。
- だが李忠臣は、天子の師傅格である張渉が貧しさのために法を犯したのは、国が十分に顧みなかった結果でもあると弁護し、徳宗は怒りを和らげ、辛未に張渉を放免して帰郷させた。
- 辛京杲については、私憤で部下を杖殺したため死罪相当との奏上があったが、李忠臣は、辛家は代々戦死しており辛京杲一人だけ生き残っているのだから、もともと久しく死すべき身だったと述べ、徳宗の憐憫を誘った。結果、辛京杲は諸王傅へ左遷された。
- 李忠臣はこうした機会に人を救うことが多かった。
度支復活と杜佑
- 楊炎が度支・転運使を廃し、金部・倉部に代えさせたものの、尚書省の旧職は長く衰えていて、相互連携もなく、天下の銭穀を総括できなかった。
- そのため癸巳、諫議大夫の韓洄を戸部侍郎・判度支とし、金部郎中の杜佑に江淮水陸転運使を仮に掌らせ、旧制へ戻した。
夏四月:劉文喜の叛乱
- 劉文喜はなおも詔を受けず、自ら節度使の旌節を得ようと望んだ。
- 四月乙未朔、涇州に拠って叛し、その子を吐蕃へ人質に送って援軍を求めた。徳宗は朱泚・李懐光に討伐を命じ、さらに神策軍使の張巨済に禁兵二千を率いさせて援助させた。
韋倫帰国と吐蕃の歓心
- 韋倫が吐蕃捕虜を返還した時、吐蕃は当初これを信じなかった。ところが捕虜たちが国境を越えて各部落に戻り、新しい天子は宮女を放ち、禽獣も放し、聖徳が中国に行き渡っていると語ったため、吐蕃は大いに喜んだ。
- 吐蕃は道を整えて韋倫を迎え、賛普はただちに使者を随行させて入貢と代宗への弔賻を送った。癸卯に京師へ着くと、徳宗は手厚くこれを遇した。
- 蜀の将には、吐蕃は豺狼のような敵であり捕虜返還は危険だとの進言もあったが、徳宗は、敵が塞を犯せば撃ち、服属すれば返すという威信と信義こそ遠人を懐ける道だとして、剣南で得た捕虜もすべて返還させた。
四方進奉の停止
- 代宗の代には、元日・冬至・端午・天子の誕生日ごとに、州府が常税以外の進奉を競っていた。多く献じれば喜ばれるため、武将や悪吏が民を搾取する原因となっていた。
- 四月癸丑、徳宗の誕生日に際し、四方の貢献をすべて受け取らなかった。李正已と田悦がそれぞれ絹三万匹を献じたが、徳宗はみな返し、租税の代わりとして度支へ納めさせた。
五月:韋倫再使と吐蕃盟約論
- 五月戊辰、韋倫を太常卿に進めた。
- 乙酉、韋倫を再び吐蕃に派遣した。韋倫は、皇帝自ら載書を書いて盟約すべきだと請うたが、楊炎は、吐蕃を対等の敵国扱いするのは不適当で、郭子儀のような大臣に載書を作らせ、皇帝は画可するだけでよいと主張し、その案が採用された。
涇州包囲と劉文喜の最期
- 朱泚らは涇州の劉文喜を包囲し、出入りを断って持久戦に持ち込んだが、なかなか陥ちなかった。
- 旱魃のうえ大規模な兵糧輸送が必要となり、内外とも疲弊したため、朝臣の中には文喜を赦して民を休ませよと上書する者が相次いだ。しかし徳宗は、小さな反逆でも放置すれば天下に号令できないとして聞き入れなかった。
- 劉文喜は将の劉海賓を派遣し、節度使の名義だけ与えてくれれば、文喜は油断し自分が首を取れると持ちかけさせた。だが徳宗は、名器は軽々しく人に与えるものではないとして拒んだ。
- そのかわり、御膳を減らして軍士に回し、城中の将士には春服の支給も平常通り行ったため、軍は皇帝の意思が揺らがないことを知った。
- 吐蕃はこの頃唐と和睦していたため、文喜に援軍を出さなかった。城中が窮すると、庚寅、劉海賓が諸将とともに劉文喜を殺し、その首を伝送した。結局、原州築城は果たされなかった。
六月:崔祐甫の死と奉天築城
- 自徳宗即位以来、李正已は内心不安を抱いていたが、涇州平定の報が届き、劉文喜の首が示されると、ますます恐れた。
- 六月甲午朔、門下侍郎・同平章事の崔祐甫が死去した。
- 術士の桑道茂が、数年以内に離宮への避難を余儀なくされる厄があるとして、奉天に天子の気があるから城を高大にして非常に備えるべきだと上言した。
- 辛丑、徳宗は京兆に数千の人夫と六軍の兵を出させ、奉天城を築かせた。後年の朱泚の乱で実際にここが行在所となる。
回紇の政変
- 回紇はもとは質朴で、君臣の差も大きくなく、結束が強く精悍であった。だが平安史戦争で唐を助けて以後、唐から厚い贈賜を受け、登里可汗は驕慢となり、宮殿や婦人の奢侈が広がり、唐にも負担をかけ、回紇の旧俗も乱れた。
- 代宗の崩御を告げるため中使の梁文秀が赴くと、登里は礼を欠き、九姓胡は中国の富を説いて喪に乗じて侵攻すべきだと勧めた。
- しかし、宰相格の頓莫賀達干は、唐は大国であり、以前の太原侵攻でも帰路の苦しさを思えば、大軍南下は危険だと諫めた。登里が聞かないため、頓莫賀は人心の不満を背景に挙兵し、登里を殺して九姓胡二千人も併せて誅し、自ら合骨咄禄毗伽可汗となった。
- 彼は臣の聿達干を梁文秀に随わせて入朝させ、藩臣として従う意志を示し、髪を切らずに唐の命を待つと表明した。
- 乙卯、徳宗は京兆少尹の源休を派遣して、頓莫賀を武義成功可汗に冊立した。
秋七月:王国良の降伏
- 七月丙寅、邵州の賊帥・王国良が降伏した。
- 王国良はもと湖南の牙将で、辛京杲に武岡守備を命じられていたが、辛京杲の貪暴のため死罪を着せられそうになり、恐れて叛いた。西原蛮と結んで千人を集め、湖畔一帯千里を荒らしていた。
- 荊南・黔中・洪州・桂管の兵が多年討っても平らげられなかったが、湖南観察使となった曹王皋は、疲れた民を駆って小勢の反乱を攻めるのは得策でないと判断した。
- 彼は書を送り、自分もまた辛京杲に陥れられた身であり、すでに朝廷の恩赦で復帰したのだから、何で将軍を兵刃にかけようか、と説いた。
- 王国良がなお疑うと、曹王皋は従者一騎だけを連れて五百里を越え、その陣門で自ら名乗って降伏を受けた。王国良は驚いて出迎え、曹王皋は彼と兄弟の約を結び、攻守の具を焼き払って兵を農に返した。朝廷は王国良を赦し、惟新の名を賜った。
沈太后捜索と劉晏誅殺
- 辛巳、行方不明となっていた徳宗の生母沈氏を遥かに皇太后として尊んだ。彼女は安史の乱で東都に残され、その後所在不明となっていた。
- このころ、荊南節度使の庾準は楊炎の意を受け、忠州刺史となっていた劉晏が朱泚に書を送り救援を求め、さらに州兵を補充して朝命に抗おうとしていると奏上した。
- 楊炎はこれを事実として固め、徳宗はひそかに中使を忠州へ遣わし、劉晏を縊殺させた。己丑になってからようやく賜死の詔を下した。天下の人々はこれを冤とした。
劉晏の治財
- 劉晏は、安史の乱後に戸口が激減し、藩鎮が州県を押さえて貢賦が入らず、国家財政が窮乏する中で、ほとんど財政を一手に支えた人物だった。
- 彼は遠近の物価情報を飛脚網で数日以内に集め、食貨の軽重を掌握した。人材登用にも長け、敏捷で廉潔な士人を重用し、金穀の出納も士人に任せ、吏には単純事務だけをさせた。士は名誉を重んじ、吏は利を重んじると見抜いて制度設計していた。
- また、戸口が増えれば税収も増えるとして、民を安んずることを理財の先とし、諸道の知院官から旬ごとに豊凶を報告させ、飢饉の兆候があれば州県からの申請を待たずに減税・救済を実施した。
- その結果、彼が統轄した地域では戸口が増え、天下全体が二百万戸から三百万戸余りへ増える中、増加分の多くは彼の治績によるものとされた。
- 塩政では、塩の産地にのみ官を置いて塩戸から買い上げ、商人に売って流通させた。遠隔地には官塩を備蓄し、価格が騰貴したら安売りする「常平塩」を行い、官も利を得て民も困らなかった。江淮の塩利は四十万緡から六百万緡余へ伸びた。
- 漕運でも、水路ごとに適した船を造り、揚州・河陰・渭口・太倉を結ぶ転送体制を整え、年間百余万斛を沈没なく運ばせた。船場への支出を惜しまなかったのも、役人に多少の余裕を与えることで長続きする制度を作るためだった。後世に予算が削られると、実際に船が粗悪になり、漕運は衰えた。
- 劉晏は一日のうちに大量の案件を処理し、後の財政家も及ばなかったと評される。
八月:張光晟の回紇使殺害
- 八月甲午、振武留後の張光晟は、回紇使者の董突ら九百余人を殺した。董突は武義可汗の叔父である。
- 代宗期以来、九姓胡はしばしば回紇を名乗って京師に雑居し、商業活動で富を殖やしながら乱暴を働き、回紇とともに公私の害となっていた。徳宗は董突に一党を率いて帰国するよう命じていたが、振武に数か月滞留して莫大な物資支給を求め、樵牧民が禾稼を荒らす被害も深刻だった。
- 張光晟はその財貨を奪う意図もありつつ、まず九姓胡に働きかけて回紇内部の対立を煽った。さらに、回紇内部では新可汗の即位後に移地健や国相梅録らが争っているという情報を上奏し、今こそ群胡を除くべきだと主張した。だが徳宗は三度許可しなかった。
- それでも張光晟は、副将にあえて礼を失わせ、怒った董突がこれを鞭打つと、ただちに兵を率いて館を襲い、群胡ともども皆殺しにして京観とした。証人一人だけを帰して、回紇が大将を辱め振武を襲う企てだったため先手を打ったのだと説明させた。
- 徳宗は張光晟を右金吾将軍に徴したうえで、回紇に謝意を示すため使者を送り、専殺権のある者を引き渡して復讐させてほしいという回紇の要求に配慮して、張光晟を睦王傅へ左遷した。
朱泚・舒王謨・姚令言
- 朱泚に中書令を加えたが、盧龍・隴右節度使の本官はそのままとした。
- 舒王謨を四鎮北庭行営・涇原節度大使とし、涇州牙前兵馬使の姚令言を留後にした。謨は代宗の子・邈の子で、幼くして父を失っていたため、徳宗がことさら目をかけた。
九月:宣政殿修繕と時日忌避の否定
- 九月壬午、将作監が宣政殿の廊が壊れていると奏し、十月は魁岡に当たるので修繕すべきでないと述べた。徳宗は、人の妨げにならず公務に支障がなければそれが吉日だとして、すぐ修理を命じた。
贓吏粛清と員㝢の告発
- 大暦以前は賦税の出納や俸給に厳格な法がなく、地方長官が恣意的に扱えたうえ、元載・王縉政権下では賄賂が横行し、贓吏を摘発しない状態が二十年近く続いていた。江西観察使の路嗣恭が虔州刺史の源敷翰を摘発して流したのは例外だった。
- 徳宗は宣歙観察使の薛邕を左丞として召したが、薛邕が宣州から去る際に官物を巨万単位で盗んでいたことを、殿中侍御史の員㝢が暴いた。
- 冬十月己亥、薛邕は連山尉に左遷された。これにより州県は朝廷の法を恐れ、放縦しにくくなった。
宦官と武臣の反発
- 徳宗は即位当初、宦官を退けて朝士を親任していた。しかし張渉は賄賂、薛邕は巨額の贓物で失脚し、宦官や武将は、南牙の文臣こそ巨悪なのに自分たちばかり濁乱と非難されている、と言い立てた。
- これにより徳宗の心には、だれを本当に頼るべきかという疑いが芽生え始めた。
沈太后捜索の再開
- 中書舎人の高参が、各地に沈氏の捜索を命じるよう求めた。
- 庚寅、睦王述を奉迎使、喬琳を副使とし、さらに沈氏と同族の者四人を判官として中使とともに諸道へ分遣し、太后を探させた。
十一月:待制官・公主婚礼の礼制
- 十一月、待制官に加えて朝集使二人も引見し、時政の得失や遠方の民の苦しみを問う制度を始めた。
- それまで公主が降嫁する時、舅姑が拝礼しても花嫁は答礼しないのが通例だったが、徳宗は礼官に命じて改定させた。公主は中堂で坐る舅姑に礼を返し、夫の諸父兄姉には東序で家人の礼に従って拝することになった。
- ある県主の婚礼日が丁丑に決まっていたが、その日、徳宗の従父妹が死去した。有司は会場準備も済み、殤服は大事を妨げないと主張したが、徳宗は費用より礼を重んじるとして中止させた。
- 至徳以来の混乱で、諸公主・郡県主には結婚適齢を過ぎてなお禁中に留まり、十年も天子に会わぬ者すらいた。徳宗は宗女たちを引見し、身分に応じて敬いと慰撫を示したうえで、すべてに婚姻を命じ、持参品の大小も自ら確認した。
- 己卯・庚辰の二日間で、岳陽ら十一人の県主が嫁いだ。
十二月:吐蕃との往来と財政統計
- 吐蕃は韋倫の再来をさらに喜び、十二月辛卯朔、韋倫が帰朝すると、吐蕃は論欽明思らを使者として入貢させた。
- この年、皇太子の母王氏は淑妃に冊立された。
- 天下の税戸は三百八万五千七十六戸、籍兵は七十六万八千余人、税銭は一千八十九万八千余緡、穀は二百十五万七千余斛であった。