資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦 十二年 777年
春・李抱玉の死と田承嗣再赦
- 三月乙卯、兵部尚書・同平章事で鳳翔・懐沢潞秦隴節度使の李抱玉が死去した。弟の李抱真が懐沢潞留後となった。
- 癸亥、河東行軍司馬の鮑防が河東節度使に任じられた。鮑防は襄州の人である。
- 田承嗣は結局入朝せず、そのうえ李霊曜を助けたため、朝廷は再び討伐を命じた。
- しかし田承嗣が再度謝罪の表を出すと、庚午、朝廷はまたも官爵をすべて回復し、入朝も不要とした。朝廷の無力さがはっきり現れた。
元載・王縉の失脚
- 元載は専横で、王縉もこれに付和した。元載の妻王氏や子ら、王縉の一族や尼までが賄賂を受け取り、政務は群吏や側近に委ねられていた。進官を願う士人は、彼らの子弟や主書に取り入らなければ道がなかった。
- 皇帝は長年不満を抱きながらも漏洩を恐れ、誰にも打ち明けられず、ただ妻方の舅筋にあたる左金吾大将軍の呉湊にだけ相談した。
- ちょうど元載・王縉が夜に醮を行って不軌を企てたとの告発があり、庚辰、皇帝は延英殿に出て呉湊に命じ、政事堂で元載・王縉を逮捕させた。仲武や卓英倩らも捕えられ、劉晏・李涵らが取り調べた。
- 宮中からの追及に対し、元載・王縉は罪を認めた。同日、内侍省を管した董秀がまず宮中で杖殺され、元載も万年県で自尽を命じられたが、実際には口に汚れた襪を詰められて殺された。
- 王縉にも当初自尽が命じられたが、劉晏が大臣への重刑は再奏すべきだと主張したため、最終的には栝州刺史へ左遷にとどまった。
- 元載の妻王氏、その子伯和・仲武・季能も誅され、家産が籍没された。胡椒だけで八百石にのぼったという。
新政の開始
- 四月壬午、楊綰が中書侍郎、常衮が門下侍郎となり、ともに同平章事に任じられた。
- 楊綰は清廉・簡素で知られ、その任命は朝野に歓迎された。郭子儀は宴席の音楽を大幅に減らし、京兆尹の黎幹は随従を減らし、崔寛は豪壮な邸宅を壊した。新政の空気が広がった。
- 癸未、元載の党とみなされた楊炎・韓洄・包佶・韓会らが左遷された。皇帝は当初さらに重い処分を考えたが、呉湊が助命を繰り返し諫めたため、官を貶めるにとどめた。
- 丁酉、吐蕃が黎州・雅州に侵入したが、崔寧が撃破した。
俸禄改革
- 元載は地方官を厚遇し、京官を薄遇して、地方に出たがるよう誘導していた。京官は生活が苦しく、地方官に借金する有様だった。
- 楊綰と常衮は京官の俸禄が薄すぎると上奏し、己酉、京官の俸を増額する詔が出た。年間十五万六千余緡ほどの増支出となった。
- 五月辛亥、都団練使を除いて各州の団練・守捉使を原則廃止し、軍事緊急時以外は刺史を勝手に召し出せないようにした。あわせて州兵の定数を定め、常備兵である官健と、農閑期に召集される団結を区別した。
- さらに州県官の俸給にも上下の秩序を定め、元載・王縉時代の恣意を改めた。制度はまだ粗いながらも、ようやく形を整えた。
元載一党の余波と楊綰の死
- 庚午、皇帝は中使を遣わして元載の祖父の墓を暴き、棺を壊し、家廟を破却して神主を焼かせた。
- 戊寅、卓英倩らも杖殺された。卓英倩の弟・英璘は郷里で横暴を振るい、兄の失脚後に険阻の地に拠って乱を起こしたが、乙巳に孫道平がこれを捕えた。
- 皇帝は楊綰に多くを期待して弊政を改めようとしたが、楊綰は病に倒れ、七月己巳に死去した。皇帝は「天はなぜこうも早く楊綰を奪うのか」と深く嘆いた。
秋冬の人事・段秀実・塩田問題
- 八月、東川節度使の鮮于叔明に李姓を賜った。
- 元載・王縉の時代から、宰相に宮中の食事を十人分下賜するのが慣例になっていたが、常衮と朱泚はこれを辞退し、以後停止された。常衮は堂封も辞そうとしたが、同僚に止められた。
- 楊綰・常衮の推薦で、湖州刺史の顔真卿が召還されて刑部尚書に任じられ、また淮南判官の関播も抜擢された。
- 九月、段秀実が涇原節度使となった。彼は軍令を簡潔にしつつ威と恵みを備え、私生活は清倹で、姬妾も持たず、公の会以外で酒や音楽に近づかなかった。
- 吐蕃八万が原州北の長沢監に進出し、方渠を破って抜谷へ入ったが、郭子儀が李懐光を送って救わせたため退いた。続いて坊州にも侵入した。
- 十月、西川節度使の崔寧は望漢城で吐蕃を大破した。
- そのころ長雨で河中府の塩池が被害を受けたが、度支を預かる韓滉は塩税減収を恐れて「害はなく、むしろ瑞塩が生じた」と奏した。皇帝は疑い、蔣鎮を遣わして調査させた。
- 吐蕃は塩州・夏州・長武にも侵入したが、郭子儀が将を遣わして退けた。
- ちょうど京兆尹の黎幹は、長雨で農作物に被害が出たと奏上したが、韓滉はこれを否定した。御史の再調査で実際には三万余頃もの被害が確認され、さらに渭南令の劉澡が韓滉に阿って「自県だけは被害なし」と虚報していたことも判明した。皇帝は「字人の官たる県令が、被害がない場合でもあると言うべきなのに、逆に被害があるのにないと言うとは不仁だ」と嘆き、劉澡を左遷した。韓滉自身は問われなかった。
- 十一月、山南西道節度使の張献恭が岷州で吐蕃を破った。
- 十二月、蔣鎮が帰ってきて、瑞塩の件は韓滉の奏の通りだと報告し、朝廷は塩池に「宝応霊応池」の号を与えたが、当時の人々はこれを醜いお世辞だと見た。
- 朱泚は涇州から京師へ帰還し、崔寧もまた吐蕃十余万を破ったと奏上した。
- 庚子、朱泚は隴右節度使を兼ね、河西・沢潞方面の行営も統べることとなった。
年末・藩鎮の実態
- 平盧節度使の李正已は、もとからの十州に加えて、李霊曜討伐の混乱で曹・濮・徐・兗・鄆の五州を手に入れ、本拠を青州から鄆州へ移した。青州は子の李納に守らせた。
- 李正已の支配は苛烈だったが、法令は一応そろい、賦税は比較的軽く、十万の兵を擁して東方に雄拠したため、周辺諸鎮は皆これを恐れた。
- 田承嗣は魏博・相衛・洺貝・澶の七州を掌握し、李宝臣は恒・易・趙・定・深・冀・滄の七州を支配して、それぞれ数万の兵を持った。梁崇義も襄・鄧・均・房・復・郢を領していた。
- これらの藩鎮は名目上は朝廷に仕えながら、官爵・兵甲・租税・刑殺をすべて自ら決し、朝廷の法令を用いなかった。朝廷が城を修し兵を増やすだけでも猜疑して反発し、国内にありながら実態は異域同然であった。