資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦 十一年 776年
正月〜二月・田承嗣の赦免
- 正月壬辰、諫議大夫の杜亞が魏州へ派遣され、田承嗣の慰撫にあたった。
- 辛亥、西川節度使の崔寧は、吐蕃の四節度や突厥・吐谷渾・氐・羌・諸蛮を合わせた大軍を破ったと報じた。
- 二月庚辰、田承嗣は再度使者を送り、入朝を願った。これを受けて朝廷は田承嗣の罪を赦し、官爵を元に戻し、家族を伴っての入朝も認めた。部下の中で朝命に背いた者も不問とされた。
- 同月、朔方の五城に戍兵を増やして回紇に備えた。
三月・河陽の再乱
- 三月戊子、河陽軍が再び乱れ、監軍の冉庭蘭を追い出して三日間掠奪した。冉庭蘭は態勢を立て直して再入城し、首謀者数十人を誅して鎮圧した。
汴宋の変動と李霊曜
- 五月、汴宋留後の田神玉が死去した。
- 都虞候の李霊曜は兵馬使の孟鑒を殺し、北では田承嗣と結んで後援を求めた。
- 癸巳、李勉が永平節度使のまま汴宋など八州の留後を兼ねた。
- 乙未、朝廷は李霊曜を濮州刺史にしようとしたが、彼は命を受けなかった。
- 六月、あらためて李霊曜を汴宋留後とし、使者を送って宣慰した。
秋・李霊曜討伐
- 七月、田承嗣は兵を滑州へ侵入させ、李勉を破った。
- 吐蕃は石門を越えて長沢川に侵入した。
- 八月、朱泚に同平章事を加えた。
- 李霊曜は留後となるとますます驕り、八州の刺史・県令をみな自党で固め、河北諸鎮のような独立勢力を目指した。
- 甲申、朝廷は淮西の李忠臣、永平の李勉、河陽三城使の馬燧に討伐を命じ、さらに淮南の陳少游、淄青の李正已にも兵を進めさせた。
- 汴宋兵馬使で節度副使代行の李僧恵は李霊曜の謀主であったが、宋州牙門将の劉昌が僧の神表を通じて密かに説得した。李僧恵は心を翻し、高憑・石隠金らとともに朝廷へ李霊曜討伐を請う表を送った。
九月〜十月・戦局逆転
- 九月、李僧恵・高憑・石隠金はそれぞれ宋州・曹州・鄆州の刺史に任じられた。
- 李忠臣と馬燧が鄭州に進軍すると、李霊曜はこれを迎え撃った。両軍は不意を突かれて滎沢まで退き、淮西兵は大量に潰走し、鄭州の士民も東都へ逃げ込んだ。李忠臣は撤退を考えたが、馬燧が「順をもって逆を討つのに何を恐れるのか」と踏みとどまり、軍を立て直した。
- 戊辰、李正已は鄆・濮二州を落としたと奏上した。
- 壬申、李僧恵は雍丘で李霊曜軍を破った。
- 十月、李忠臣は汴南、馬燧は汴北から進み、たびたび李霊曜軍を破った。
- 壬寅、陳少游の前軍と合流し、汴州城西で大戦して李霊曜を敗走させ、城内に籠らせた。翌日から包囲した。
田悦救援と汴州平定
- 田承嗣は田悦に兵を与えて李霊曜を救わせ、田悦は匡城で永平・淄青軍を破って勢いに乗り、汴州北方に陣した。
- 丙午、李忠臣は部将の李重倩に軽騎数百を率いさせて夜襲させた。李重倩は敵営を縦横に突破して数十人を斬り、その混乱に乗じて李忠臣・馬燧の大軍が総攻撃をかけた。田悦軍は戦わずして崩れ、死者が折り重なった。
- 李霊曜はその報を聞いて城門を開き、夜のうちに逃亡した。こうして汴州は平定された。李重倩は奚人であった。
- 丁未、李霊曜は韋城まで逃げたが、杜如江に捕えられた。
- 馬燧は李忠臣の暴慢を知っていたため、自分の功を譲って汴州城に入らず、西の板橋に屯した。果たして李忠臣は功を独占し、さらに功争いになった李僧恵を会食の席で殺し、劉昌まで殺そうとしたが、劉昌は逃れて助かった。
年末・褒賞と段秀実
- 甲寅、李勉が李霊曜を械送して京師に至らせ、そこで斬られた。
- 十二月、李正已と李宝臣にともに同平章事を加えた。
- 涇原節度使の馬璘が危篤となると、行軍司馬の段秀実に後事を託した。段秀実は軍を厳しく整え、非常に備えた。丙申、馬璘が死去すると、軍中は大勢が泣き騒いだが、段秀実は喪の手順・出入り・送葬・祭奠を細かく定め、違反者は軍法に処するとして秩序を保った。
- 都虞候の史廷幹、兵馬使の崔珍、十将の張景華らはこの機に乱を起こそうとしたが、段秀実はそれを見抜き、配置換えで未然に封じ、一人も殺さず軍府を安定させた。
- なお馬璘は巨万の財産を蓄え、京師の邸宅は功臣中でも随一であったが、死後まもなく子孫がこれを使い果たした。
- 戊戌、昭義節度使の李承昭は病を称し、沢潞行軍司馬の李抱真に磁州・洺州を含む留後を兼ねさせたいと上表した。
- 庚戌、李忠臣にも同平章事を加え、汴州刺史を兼ねさせて汴州に治所を置かせた。