資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦二年 二年 767年
春正月 周智光討伐
- 正月丁巳、密勅により郭子儀が周智光討伐を命じられた。郭子儀は渾瑊・李懐光を渭水沿いに進軍させると、周智光の部下たちは離反し始めた。
- 己未、同州の大将李漢恵が部隊を率いて郭子儀に降った。
- 壬戌、周智光は澧州刺史へ左遷され、甲子、華州の牙将姚懐・李延俊が彼を殺し、その首を献じた。
李忠臣の掠奪
- 淮西節度使李忠臣は華州収復を名目に入朝したが、麾下の兵は潼関から赤水に至る二百里で大掠奪を行い、民間財産はほとんど尽きた。官吏の中には紙を衣とし、数日食べられぬ者まで出た。
- 己巳、潼関に二千の鎮兵が置かれた。
剣南分割と郭子儀の栄遇
- 壬申、剣南は再分割され、東川観察使が遂州に置かれた。
- 二月丙戌、郭子儀が入朝すると、皇帝は元載・王縉・魚朝恩らに交代で郭子儀邸へ宴を設けさせ、その費用は一度で十万緡に及んだ。皇帝は常に郭子儀を大臣として重んじ、名を呼び捨てにしなかった。
- 郭曖が昇平公主と言い争った際、「お前の父が天子であることを頼みにしているのか。自分の父は天子になる気が薄かっただけだ」と言い放ったところ、公主は車で宮中へ走って訴えた。皇帝はむしろ郭曖の言を認め、「郭子儀がその気なら天下はお前の家のものではない」と諭した。郭子儀は帰宅後、郭曖を杖打ちにした。
吐蕃との盟約と杜鴻漸の帰朝
- 四月庚子、宰相と魚朝恩が興唐寺で吐蕃と盟約を結ぶことになった。
- 杜鴻漸は蜀から帰朝を願い、崔旰を西川留後に残した。
- 六月甲戌、杜鴻漸は成都から帰り、蜀の利害を大いに述べて崔旰を推薦した。皇帝も姑息策をとり、杜鴻漸を再び政務に参与させた。
- 七月丙寅、崔旰は西川節度使、杜済は東川節度使となった。崔旰は賄賂のため苛斂を行い、元載はその兄弟崔審・崔寛まで高官に引き上げた。
章敬寺建立と仏教傾斜
- 丁卯、魚朝恩は下賜地を章敬寺とし、章敬太后の冥福に資すると上奏した。寺の造営は極度に華美で、長安の材木も足らず、曲江や華清宮の建物まで壊して流用した。
- 進士高郢は、百姓を犠牲にして寺を造るのは本末転倒であり、夏禹にならって宮室を卑しくすべきで、梁武帝のように寺塔を崇めるべきではないと諫めたが、採用されなかった。
- もともと皇帝はそこまで仏教偏重ではなかったが、元載・王縉・杜鴻漸らが深くこれを勧めた。彼らは、国家の長久や安史・僕固懐恩・回紇・吐蕃の諸事も仏の報応によるものだと説き、皇帝はこれを信じるようになった。
- 宮中では常に僧に食を施し、外敵が来れば『仁王経』を講じさせて禳いとした。不空は高官・国公にまで昇り、寺院は京畿の良田美利を多く占めるに至った。さらに五台山に金閣寺を造り、莫大な費用がかかった。
秋冬 吐蕃警報と郭子儀父墓の盗掘
- 八月庚辰、李抱玉が入朝し、左僕射の称号返上を強く願い、皇帝はこれを許したが、鳳翔節度使辞任は許さなかった。
- 九月、吐蕃が霊州を囲み、遊騎は潘原・宜禄まで達した。郭子儀は河中から三万を率いて涇陽へ進み、のち奉天へ移った。
- 十月戊寅、路嗣恭が霊州城下で吐蕃を破り、二千余を斬ったため、敵は撤退した。
- 十二月庚辰、郭子儀の父の墓が暴かれたが、犯人は捕まらず、魚朝恩の指図ではないかとの疑いが広まった。郭子儀は奉天から入朝し、「自分が長く軍を率いて墓暴きなどの暴行を禁じきれなかった報いであり、天の譴責だ」と涙ながらに述べたため、朝廷は安心した。
- この年、鎮西の名称は再び安西に戻された。
- 新羅王憲英が死去し、子の乾運が立った。