資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 永泰元年 前403年

閏十月 郭子儀の入朝と辺境人事

  • 閏十月乙巳、郭子儀が入朝した。彼は、霊武が回復されたばかりで民力が衰え、異民族もなお安定していないとして、朔方軍の糧料を扱っていた路嗣恭を三原方面に置いて鎮撫に当たらせるよう求めた。さらに、河西節度使楊志烈の死後の処置として、河西を巡撫する使者の派遣と、凉・甘・肅・瓜・沙など諸州への長史設置を願い出て、朝廷はこれを認めた。
  • 丁未、百官は自らの職田を軍糧に回すよう願い出て、許可された。
  • 戊申、戸部侍郎の路嗣恭が朔方節度使となった。彼は荒廃した地に軍府を建て直し、統制を行き渡らせた。
  • 己酉、郭子儀は河中の任地へ戻った。

剣南の混乱と崔旰の台頭

  • もとは厳武が崔旰を利州刺史に推挙していたが、蜀で乱が起きて山賊が道路を塞いだため、崔旰はこれを平定した。のち厳武が再び剣南を治めると、張献誠に働きかけて崔旰を自陣へ呼び寄せ、漢州刺史とし、さらに西山で吐蕃と戦わせて数城を落とし、領土を広げた。
  • 厳武の死後、軍府では後継をめぐって争いが起きた。朝廷は郭英乂を任じたが、崔旰らは王崇俊を推したため、郭英乂は王崇俊を誅殺し、崔旰を召還しようとした。崔旰はこれに応じず、郭英乂は兵糧を絶って圧迫し、自らも討伐に出たが、大雪と戦闘で大敗した。
  • 郭英乂は政治が苛烈で奢侈に流れ、兵や民の怨みを買っていた。また、玄宗が蜀に避難した際の行宮を軍営とし、玄宗の像を移して自ら住んだことから、崔旰はこれを「反意あり」と吹聴した。
  • 辛巳、崔旰は五千余の兵で成都を急襲し、城西で郭英乂を破って入城、郭英乂の家を滅ぼした。郭英乂は簡州へ逃れたが、普州刺史韓澄に殺され、その首は崔旰に送られた。
  • これに対し、邛州の柏茂琳、瀘州の楊子琳、剣州の李昌巙らがそれぞれ兵を挙げて崔旰討伐を唱え、蜀中は大混乱に陥った。

顧繇の上奏と処罰

  • 華原令の顧繇が、元載の子伯和らが権勢を振るい賄賂を受けていると上言したが、十二月戊戌、かえって罪を得て錦州へ流された。

学校再興

  • 安史の乱以来、国子監の建物は荒れ、兵士が寄宿しているほどだった。祭酒の蕭昕が学校再建を求めた。