正月:史思明の勢力拡張と江南の戦い
- 正月、史思明は年号を「応天」と改めた。
- 張景超が杭州を攻め、李蔵用の部将李彊を石夷門で破った。これに呼応して孫待封も武康から南下し杭州攻撃に加わろうとしたが、温晁が険阻な地形を利用してこれを撃退した。
- 李可封は常州を挙げて降伏した。
田神功の出兵と劉展の最期
- 田神功は楊恵元らに兵を与えて西から王暅を攻めさせ、自身も范知新・鄧景山らを分遣して下蜀・常州方面へ進ませた。
- 神功は瓜洲から渡江を試みたが、蒜山に陣した劉展側の抵抗と強風のため失敗した。一方で先遣隊は下蜀まで進んでおり、劉展はこれを攻撃した。
- 劉展は敗勢となると、弟の劉殷から海上へ逃れて持久戦に持ち込むよう勧められたが、無益に人を死なせることを嫌って拒み、自ら戦って戦死した。賈隠林がこれを射倒し、首級を挙げた。
- 劉殷・許嶧らもともに死んだ。王暅も淮南で敗れ、東へ逃れたのち常熟で降伏した。
- 孫待封は李蔵用に降り、張景超は兵七千余を集めてなお抗戦したが、劉展の死を聞くと兵を張法雷に託して杭州攻撃を続けた。だが景超自身は海へ逃れ、張法雷も杭州で李蔵用に敗れ、残党は平定された。
- 田神功配下の平盧軍は十日あまり大掠奪を行い、安史の乱では比較的被害の少なかった江淮の民衆も、このとき初めて深刻な兵害を受けた。
荊南の管轄拡大
- 荊南節度使の呂諲は、潭・岳・郴・邵・永・道および黔中に連なる涪州を荊南の管轄下に置くよう請い、認められた。
二月:党項の侵攻
- 奴刺党項が宝鶏を寇掠し、大散関を焼き、鳳州へ侵入して刺史の蕭某を殺し、大掠奪して西へ去った。鳳翔節度使の李鼎がこれを追って破った。
- 新羅王の金嶷が入朝し、宿衛を願い出た。
魚朝恩の進撃論と邙山の敗北
- 洛陽周辺の将兵は燕人が多く、長く駐屯して帰郷を望み、上下の心が離れているので今なら攻め落とせる、との意見が出た。魚朝恩はこれを信じ、しきりに粛宗へ洛陽攻略を進言した。
- 李光弼はなお賊の鋭気が衰えていないとして慎重論をとったが、僕固懐恩は光弼を憎み、魚朝恩の意見に同調した。
- そのため中使が相次いで李光弼に出兵を督促し、やむなく光弼は李抱玉に河陽を守らせ、自ら僕固懐恩・魚朝恩・衛伯玉らとともに洛陽を攻めた。
- 官軍は邙山に布陣したが、李光弼は険阻を頼みに布陣すべきだと主張したのに対し、僕固懐恩は平地に布陣して動かなかった。史思明はその混乱に乗じて攻め込み、官軍は大敗し、死者は数千、軍資・器械もすべて失った。
- 李光弼・僕固懐恩は黄河を渡って聞喜に退き、魚朝恩・衛伯玉は陝州へ逃げた。李抱玉も河陽を捨て、河陽・懐州は賊の手に落ちた。朝廷は大いに恐れて陝州の守備を厚くした。
李揆の失脚
- 李揆は呂諲と同じ宰相でありながら不仲で、呂諲が荊南で善政を行って再び宰相に返り咲くのを恐れた。
- そこで湖南方面への軍政配置を非難し、ひそかに荊湖に人を遣わして呂諲の失策を探らせた。これに対し呂諲が李揆を弾劾したため、李揆は袁州長史に左遷された。
- 河中節度使の蕭華が中書侍郎・同平章事となった。
三月:史朝義、父を殺して即位
- 史思明は疑い深く残忍で、少しでも意に沿わないと一族誅殺に及んだ。長子の史朝義は兵を率いて功を立て、士卒の支持もあったが、父の寵愛は受けず、史思明はしばしば次子の朝清を立てようとした。
- 史思明は邙山での勝利後、朝義を先鋒として北道から陝城を襲わせ、自らは南道から大軍を率いて続く計画を立てた。だが朝義は礓子嶺で衛伯玉に敗れ、たびたび攻めても成果を挙げられなかった。
- 思明は朝義を臆病者と罵り、軍法で斬ろうとしたうえ、三隅城の築城でも未完成を責め立て、陝州を落としたら必ず処刑すると明言した。
- これを恐れた朝義に対し、駱悦・蔡文景ら部下が決起を勧めた。朝義はしぶしぶ黙認し、彼らは宿衛の曹将軍を抱き込み、夜に兵三百を率いて鹿橋駅の思明の宿所を襲った。
- 思明は厩へ逃れて馬に乗ろうとしたが射られて捕えられた。駱悦は「懐王の命だ」と告げた。思明は自らの言葉が災いしたと悟りつつも、「長安を落としてからでも遅くなかった」と嘆いた。
- 思明は柳泉駅に幽閉されたが、味方の心がなお一つにまとまらないことを恐れた朝義側は、ついに彼を絞め殺し、遺体を洛陽へ運んだ。
- 朝義は皇帝位に即き、「顕聖」と改元した。
- さらに范陽へ密使を送り、張通儒らに命じて弟の朝清とその母辛氏、その他の不服従者数十人を殺させた。范陽ではその後も党争と相互殺戮が数か月続き、死者は数千にのぼった末、ようやく鎮まった。
- 朝義は李懐仙を范陽尹・燕京留守に任じた。
- しかし洛陽近辺数百里は荒廃しており、朝義配下の節度使たちも独立色が強く、安禄山以来の旧将たちは朝義の命令に従わないことが多かった。
四月:皇族の謀反と段子璋の反乱
- 術士の長塞鎮将朱融や左武衛将軍竇如玢らが、嗣岐王李珍を擁立して反乱を企てたが、発覚して珍は庶人に落とされ溱州へ移され、党与は誅された。
- 張鎬は以前李珍の邸宅を買っていた関係で、辰州司戸に左遷された。
- 裴遵慶が黄門侍郎・同平章事となった。
- 尚衡・能元皓はそれぞれ史朝義軍を破った。
- 梓州刺史の段子璋が反乱を起こし、東川節度使李奐を綿州で破って成都へ走らせた。子璋は自ら梁王を称し、「黄龍」と改元、綿州を龍安府とし、百官を置き、さらに剣州も落とした。
五月:玄宗との親子再会かなわず
- 李光弼が河中から入朝した。
- このころ粛宗は、上皇玄宗が西内に移されて以来、会いたいと思いながらも張后と李輔国を恐れて訪問できずにいた。
- 端午の日、山人の李唐が粛宗に対し、「陛下が幼い公主を思うように、上皇もまた陛下に会いたいとお思いでしょう」と言うと、粛宗は涙を流した。
- 党項が再び宝鶏を寇掠した。
- 令狐彰はもと史思明により滑・鄭・汴節度使に任じられて滑台を守っていたが、ひそかに降伏を願い出て、思明に疑われ薛岌に囲まれた。これを撃退して入朝したため、朝廷は彰を滑・衛など六州節度使に任じた。
- 侯希逸は史朝義の范陽兵を破った。
- 崔光遠と李奐は綿州を攻め落とし、段子璋を斬った。
- 李光弼は再び河南副元帥・太尉兼侍中となり、河南・淮南・山南東・荊南・江南西・浙江東西など広範囲の行営を統轄し、臨淮に出鎮した。
六月:江淮・河東・絳州の騒擾
- 能元皓は史朝義の将李元遇を破った。
- 江淮都統の李峘は、自らの失守の責任を浙西節度使侯令儀に転嫁し、侯令儀は康州へ流された。
- 田神功は劉展平定の功により開府儀同三司を加えられ、徐州刺史に移った。李峘・鄧景山は京師へ召還された。
- 党項は好畤を寇掠した。
- 七月朔日には日食があり、既に達して大星が見えた。
- 李蔵用は試官ながら浙西節度副使となった。
- 李輔国は兵部尚書を加えられ、入省の際には宰相や朝臣が送迎し、御厨が饗応し、太常が音楽を備えるほどで、その驕りはますます甚だしくなった。
- 輔国は宰相となることを求め、裴冕らに推薦させようとしたが、蕭華が裴冕に確かめるとそのような事実はなく、粛宗もそれを聞いて喜んだ。輔国はこれを恨んだ。
- 李光弼は河南行営へ赴き、李若幽は節度使として絳州に鎮した。粛宗は名を「国貞」と改めさせた。
九月:制度改変と飢饉
- 粛宗の誕生日である九月三日に、三殿で道場が開かれ、宮人を仏菩薩、武士を金剛神王に見立てて、大臣たちに礼拝させた。
- 粛宗は尊号をやめてただ「皇帝」と称し、昨年号も「元年」とだけ呼ぶこと、建子月を歳首とすること、四京・南都の称号を停止すること、五品以上の清望官や郎官・御史・刺史が後任候補を一人推薦する制度を定めた。
- 江淮では大飢饉が起こり、人肉食にまで及んだ。
十月:李蔵用冤殺と劉晏失脚
- 江淮都統の崔圓は李蔵用を楚州刺史に署任した。
- しかし劉展の乱で各州が倉庫物資を乱用したとして、支度租庸使が検証と弁償を求めた。将吏たちは不足分を補うため財産を売る者も出た。李蔵用は自らにも責任が及ぶことを恐れて悔恨を漏らしたため、以前から怨みのあった牙将高幹がこれを利用して謀反を告発し、先に兵をもって襲った。
- 李蔵用は逃げたが捕えられて斬られた。崔圓はその将吏を取り調べ、皆おそれて反逆を認める証言をした。
- ただ一人、孫待封だけは李蔵用は反逆していないと強く主張した。「劉展に従えば反臣と言われ、李公が劉展を滅ぼせば今度は李公が反臣と言われる。これでは誰が反逆でないと言えるのか」と語り、虚偽の証言を拒んで処刑された。
- 建子月朔、粛宗は正旦と同じ儀礼で朝賀を受けた。
- 康謙が史朝義と通じたと告発され、司農卿厳荘とともに下獄した。京兆尹劉晏は官吏を派遣して厳荘宅を監視させたが、ほどなく厳荘は放免されて粛宗に引見され、逆に劉晏が禁中のことを漏らし、功を誇って天子を怨んでいると讒言した。
- その結果、劉晏は通州刺史に左遷され、康謙は誅された。
- 元載は戸部侍郎として度支・鋳銭・塩鉄・江淮転運などの使を兼ね、財政・漕運の実権を握った。
冬至以後:上皇への朝謁と衛伯玉の進撃
- 粛宗は西内にいる上皇に朝見し、その後、太清宮・太廟・元献皇后廟に親しく祭った。
- 衛伯玉は史朝義を攻め、永寧・澠池・福昌・長水などを奪回した。
- 建丑月朔には円丘と太一壇を祀った。
- 平盧節度使侯希逸は、范陽と戦いを重ねて孤立し、さらに奚の侵攻も受けたため、全軍二万余を率いて南下し、李懐仙を襲って破った。