春正月 改元前の人事と辺境対策
- 正月、李光弼は太尉兼中書令となり、従前の職もそのままとされた。
- 于闐王勝の弟・曜は四鎮節度副使とともに本国のことを代行するよう命じられた。于闐王と四鎮節度使がともに行営にあったためである。
- 党項などの羌が辺境を侵食し、京畿に迫りそうになったため、邠寧等州節度から鄜・坊・丹・延を分けて鄜坊丹延節度、別名渭北節度を置いた。桑如珪が邠寧を、杜冕が鄜坊方面を担った。
- 郭子儀には両道節度使を兼ねさせ、京師に留めてその威名で鎮撫にあたらせた。
- 皇帝は再び九宮貴神を祀った。
二月から四月 李光弼の連勝
- 二月、李光弼は懐州を攻め、史思明が救援に来ると、沁水のほとりで逆撃して破り、三千余の首級を挙げた。
- 第五琦は忠州へ左遷されたのち、賄賂二百両受領の嫌疑をかけられた。本人は、もし証拠があるなら律に照らして処罰してよいと主張したが、御史劉期光はこれを「服罪」と曲解して奏上した。
- その結果、第五琦は官を除かれて夷州へ長流となった。
- 三月、蒲州は河中府へ改められた。
- 李光弼は懐州城下で安太清を破り、四月には河陽西の中州でも史思明を破って斬首千五百余を得た。
襄州再乱と節度使の任免
- 襄州では張維瑾・曹玠が節度使史翽を殺して州を占拠し、再び反乱となった。
- はじめ韋倫を山南東道節度使にしようとしたが、李輔国の門を通さずに任命されたためか、ほどなく秦州防禦使へ回された。
- そこで来瑱が山南東道節度使に任じられ、襄州に着くと張維瑾らは降伏した。
閏四月 改元と武成王追尊
- 王思礼は司空に進み、武徳以来、宰相でなくして三公に至った最初の例となった。
- 趙王係は越王へ移された。
- この月、天下に大赦があり、年号を上元と改めた。
- 太公望を武成王と追諡し、歴代の名将を「亜聖十哲」として配祀した。中祀・下祀・雑祀の多くは停止された。
- この日、史思明ははじめて本格的に東京へ入り、宮城へ拠った。前年は城が空で、白馬寺南に屯しただけだったためである。
五月 宰相の交代
- 苗晋卿は侍中となった。世人は、吏務に通じるが身を守って位を保つ人物として、漢の胡広になぞらえた。
- 宦官馬上言が賄賂を受けて呂諲に官を求め、呂諲がこれを補任したことが発覚すると、馬上言は杖殺された。
- 呂諲も罷められて太子賓客となり、代わって劉晏が戸部侍郎となり、度支・鋳銭・塩鉄などを統轄した。財政運営に長けていたためである。
六月 西南・貨幣・後継問題
- 桂州経略使邢済は、西原蛮二十万を破り、黄乾曜らを斬ったと奏した。
- 乾元銭・重輪銭・開元銭の三品併行が続く中、凶作で米一斗が七千銭に達し、人が人を食う事態となった。
- 京兆尹鄭叔清は私鋳者を厳罰に処したが禁じきれず、そこで京畿では開元銭と乾元小銭をともに十文、重輪銭を三十文とする命令が出された。諸州は追って指示を待つこととされた。
- 史思明もまた「順天元宝」などの銭を鋳ており、一枚百文相当としたため、賊地では物価がさらに高騰した。
- 興王佋が死去した。張皇后の長子で、幼時は定王侗と呼ばれた人物である。
- 張皇后はかねてから太子の地位を揺るがそうとしていたが、佋が死に、侗もまだ幼かったため、太子の地位はいよいよ安定した。
- 鳳翔節度使崔光遠は普潤で党項を破った。
- 田神功は鄭州で史思明の軍を破ったと奏した。
上皇を西内へ移す計画
- 上皇は蜀から帰って以来、興慶宮を愛し、そこに住んでいた。皇帝は時に夾城を通って起居を問うたし、上皇も時おり大明宮に赴いた。
- 陳玄礼・高力士・玉真公主・如仙媛・王承恩・魏悦・梨園弟子らがそば近く仕え、上皇はしばしば長慶楼にのぼって往来する父老に酒食を賜った。地方からの奏事官が通ると、玉真公主らに主客役をさせて宴まで設けた。
- こうした自由な交流を、李輔国は快く思わなかった。もとは微賤の出で、急に富貴となった彼は、上皇側近から軽んじられていたためでもある。
- 李輔国は皇帝に、上皇は外部と通じ、陳玄礼や高力士らが陛下に不利な策をめぐらしている、六軍も不安がっていると訴えた。
- 皇帝は泣いて信じまいとしたが、李輔国は、社稷のためには騒乱を未然に防ぐべきだ、しかも興慶宮は市井に近く防備に適さないから、大内へ迎えても何も変わらず、かえって上皇も安泰だと説いた。
七月 上皇の西内遷居
- 興慶宮には馬三百匹がいたが、李輔国は偽勅でこれを取り上げ、十匹しか残さなかった。上皇は高力士に、皇帝は李輔国に惑わされて孝を全うできなくなったと嘆いた。
- 李輔国はさらに六軍将士に号哭・叩頭させて、上皇を西内へ迎えるよう請願させた。皇帝は泣きながら応じなかったが、病中でもあり、ついに李輔国は矯って皇帝の言葉と称し、上皇を「遊覧」と称して西内へ移そうとした。
- 睿武門で、李輔国は射生兵五百騎を抜刀させて道を塞ぎ、興慶宮は狭いから大内へ移るべきだと奏した。上皇は驚いて落馬しそうになった。
- 高力士は李輔国を叱って下馬させ、将士にも上皇の言葉として「それぞれ慎め」と命じたので、兵は刀を収めて再拝した。
- 高力士と李輔国がともに馬の轡を執って、上皇は西内の甘露殿へ入った。
- 李輔国は軍勢を率いて退いたが、上皇のもとに残された兵は、老弱な者が数十人ばかりだった。陳玄礼・高力士・旧宮人らも左右に留められなかった。
- 上皇は、興慶宮は自分の王地であり、もともと皇帝に譲ろうとしていたのだ、と語って心を鎮めた。
- 同日、李輔国と六軍大将は素服で皇帝に謝罪し、皇帝も圧力を受けて、南宮でも西内でも違いはない、社稷安定のためにしたのなら恐れることはないと慰めた。
上皇遷居後の処分
- 顔真卿は百官を率いて上表し、上皇の起居を問うよう求めたが、李輔国はこれを憎み、蓬州長史へ左遷した。
- 重輪銭は天下でも京畿と同じく三十文通用とされた。
- 高力士は巫州、王承恩は播州、魏悦は溱州へ流され、陳玄礼は引退させられた。如仙媛は帰州へ移され、玉真公主は玉真観に出された。
- 皇帝は後宮から百余人を選んで西内に置き、万安・咸宜の二公主に上皇の日常を見させた。四方の珍物もまず上皇にすすめられた。
- だが上皇は日に日に不愉快となり、ついには肉食をやめ辟穀し、病を深めた。皇帝も初めは見舞ったが、やがて自ら病み、人を遣わして起居を問うだけになった。
- 皇帝はのちに李輔国を誅したいと思うようになったが、禁兵を握ることを恐れて決断できなかった。
神策軍の強化
- かつて哥舒翰が吐蕃から奪った地に神策軍を置いたが、その後その地は吐蕃に奪われた。軍使成如璆が衛伯玉に千人を率いさせて赴難させて以来、衛伯玉は陝に留屯していた。
- この月、衛伯玉は神策軍節度使に任じられた。これは後の神策軍の強大化の始まりである。
秋九月 南都設置と郭子儀策の挫折
- 興王佋には「恭懿太子」の諡が贈られた。
- 荆州に南都を置き、江陵府とし、永平軍三千を置いて呉・蜀の衝を押さえた。これは呂諲の請いによる。
- 郭子儀を閑地に置くべきでないという意見が出ると、邠州へ出鎮させたところ、党項は退去した。
- さらに郭子儀に、朔方から范陽を直撃して河北を奪回する大計を命じ、禁軍や朔方・鄜坊・邠寧・涇原の蕃漢兵あわせて七万人を節度下に置いた。
- しかし詔が下って十日ほどで、魚朝恩の妨害により計画は中止となった。胡三省は、これが実行されていれば後の邙山敗戦や河北藩鎮化も避けられたかもしれないと惜しむ。
冬 淮西の劉展反乱
- 青沂等五州節度使が置かれたが、この時期の節度管轄は史料間で食い違いがある。
- 李銑・劉展はいずれも淮西節度副使だったが、李銑は貪暴、劉展は強硬で、上司に憎まれやすかった。節度使王仲昇は李銑を罪に問って誅した。
- 当時「手に金刀を執りて東方に起つ」という謡言があり、王仲昇と監軍邢延恩は、劉展の姓がこれに当たるとして危険視した。
- 邢延恩は皇帝に、劉展を江淮都統に任じて兵権を手放させ、赴任途上で捕える策を進言し、皇帝もこれを採用した。
- だが制書を受けた劉展は不審に思い、印綬を先に受けたいと求めた。邢延恩は広陵へ急いで李峘と相談し、その印節を解いて劉展に渡してしまった。
- 劉展はこれで謀略を悟り、江淮の親旧を招き、三道の官属にも迎賀させ、宋州兵七千を率いて広陵へ向かった。
劉展、江淮を席巻
- 邢延恩は広陵へ逃げ、李峘・鄧景山とともに劉展を防いだ。双方が互いに相手を「反」とする檄文を出したため、州県はどちらに従うべきか迷った。
- 李峘は京口、鄧景山は徐城で守ったが、劉展は威名と軍紀で人心を圧し、倍速で到着した。景山軍は崩れ、景山と延恩は寿州へ逃げた。劉展は広陵へ入った。
- 屈突孝標に濠・楚攻略を、王暅に淮西略取を命じた。
- 李峘は北固に木柵を設けて江口を塞いだが、劉展は白沙と瓜洲に疑兵を張って京口に敵の兵を引きつけ、上流から下蜀へ渡って奇襲した。李峘軍は自潰し、李峘は宣城へ逃れた。
- 劉展は潤州を陥れ、侯令儀が逃げると、姜昌羣が城を任され、その部将宗犀が劉展に降った。つづいて昇州も陥ち、宗犀は潤州司馬兼丹楊軍使となった。
- 劉展は親族を各地に配置し、許嶧を潤州刺史、李可封を常州刺史、楊持璧を蘇州刺史、孫待封に湖州を、宗犀に宣州を任せた。傅子昂は南陵に駐屯し、江西進出を狙った。
- 屈突孝標は濠州・楚州を、王暅は舒・和・滁・廬などを落とし、江淮での勢いは極めて強かった。
李蔵用の抗戦
- 李峘が潤州を捨てた時、副使の李蔵用は、重い俸禄を食みながら難に当たって逃げるのは忠でも勇でもないと諫めた。
- 三江五湖の地勢と数十州の兵糧があるのに、矢一つ放たず捨てるべきではないとして、自ら残兵を集めて蘇州に赴き、壮士二千を募って柵を築いた。
- しかし劉展の将張景超・孫待封に郁墅で敗れ、杭州へ退いた。景超は蘇州を、待封は湖州を取った。
- さらに景超は杭州へ迫り、蔵用は温晁を余杭へ置いて防いだ。
田神功、劉展を破る
- もともと皇帝は平盧兵馬使田神功に精兵三千を率いさせ、任城に駐屯させていた。
- 鄧景山は敗れると邢延恩とともに、勅命が届く前から田神功に救援を急がせ、淮南の金帛・女子を褒美に与えると約束した。田神功とその兵はこれに喜び、南下した。
- 彭城に至ってはじめて、皇帝の正式な討展勅命が届いた。
- 劉展はこれを聞いて初めて恐れを見せ、自ら八千で迎撃し、精兵二千を率いて淮を渡り、都梁山で田神功と戦ったが敗れた。
- 劉展は天長まで退いて橋で持ちこたえようとしたが再び破られ、わずか一騎で逃げて江を渡った。
- 田神功は楚州を経て広陵へ入り、城内を大掠奪した。特に商胡が多数殺され、地下に埋めた財貨を探して地面を掘り返した。
年末の戦況
- 李光弼は百余日にわたる懐州攻めの末、ついにこれを落とし、安太清を生け捕りにした。
- 史思明は田承嗣を淮西へ、王同芝を陳許へ、敬江を兗鄆へ、薛鄂を曹州へ派遣して占領を広げた。
- 十二月、党項は美原・同官に侵入して大掠奪を行い、去った。
- 郭愔らが羌胡を率いて秦隴防禦使韋倫を破った。
- 兗鄆節度使能元皓は史思明軍を攻撃して破った。
- 李峘が潤州を去った後も、李蔵用は蘇州で兵を募り抵抗を続けたが、劉展の勢力は蘇・湖・常・潤・宣に広がった。
- この年、吐蕃は廓州を陥れた。