資治通鑑唐紀 肅宗 乾元 二年 699年

春正月 史思明の挙兵と朝廷の対応

  • 正月朔日、史思明は魏州城北に壇を築き、自ら「大聖燕王」を名乗り、周摯を行軍司馬とした。
  • 李光弼は、史思明が魏州を得ながら進軍しないのは、官軍を油断させて奇襲するためだと見抜き、朔方軍とともに魏州へ迫って戦うべきだと主張した。もし長引かせれば鄴城は必ず落ち、安慶緒が死ねば史思明も大義名分を失うと論じた。
  • しかし魚朝恩が反対したため、この策は採用されなかった。
  • この月、皇帝は王嶼の進言によって九宮貴神を祀った。
  • 藉田での耕作も行われたが、日付の伝承には誤りがあるとされる。

鄴城包囲と李嗣業の死

  • 鎮西節度使の李嗣業は鄴城攻めで流れ矢に当たり、まもなく死去した。兵は荔非元礼が引き継いだ。
  • もともと李嗣業は段秀実を懐州長史として留後を任せていた。段秀実は諸軍の駐屯が長びいて財も兵糧も尽きるなか、草や穀物を運び、兵を募り、馬を買い集めて、鎮西行営への補給を切らさなかった。

二月 月食と皇后尊号の沙汰

  • 二月、皆既月食があった。編者は、これは張皇后の専横を暗示する記録だと見る。以後も月食が目立って記されるのは、后妃の政治介入と結びつける意識による。
  • 以前から群臣は皇后に「輔聖」の尊号を加えるよう求めていた。皇帝が中書舍人李揆に意見を求めると、李揆は、古来皇后に尊号の例はなく、韋后の例は手本にすべきでないと答えた。
  • 皇帝は危うく誤るところであったと驚き、さらに月食もあったため、この議は取りやめとなった。
  • ただし張皇后は李輔国と結び、禁中で強い影響力を振るい、政治への干渉や請託が絶えなかった。皇帝は不快に思いながらも抑えられなかった。

鄴城包囲の行き詰まり

  • 郭子儀ら九節度使は鄴城を重ねて包囲し、壕を三重に掘り、漳水をせき止めて城へ流し込んだ。城中では井戸水まであふれ、櫓を組んで住むほど追い詰められた。
  • 安慶緒は冬から春まで持ちこたえ、食糧は尽き、一匹の鼠が高値で売られ、城壁の麦殻や馬糞まで掘り返して馬の飼料にした。
  • 誰もが陥落は間近と見たが、諸軍には総司令官が不在で、統一指揮がなかった。降伏したくても水が深く、城外へ出られない者も多かった。
  • 城攻めが長引くうち、官軍の士気も結束も崩れ始めた。

史思明の攪乱工作

  • 史思明は魏州から鄴へ向かい、各将に城から五十里離れて営を置かせ、太鼓を多数打ち鳴らして威圧した。
  • さらに各営から精鋭騎兵五百を毎日出し、城下で略奪を繰り返した。官軍が出ると散って営に帰るため、官軍は人馬や牛車を日々失い、薪や食料の確保も困難になった。
  • このころ全国的な飢饉で、江淮や并汾からの輸送に頼っていたが、史思明は兵を偽装して官軍の監督官になりすまさせ、輸送者を脅し、時に無実の者を殺し、物資集積地に放火させた。
  • こうして官軍は糧食不足に陥り、内部から崩れそうになった。史思明は機を見て大軍を城下に進めた。

三月 安陽河の大敗

  • 官軍は決戦を選び、三月、歩騎六十万を安陽河北に布陣した。史思明は精兵五万を率いてこれに当たった。
  • 官軍諸将は最初、これを小部隊と思って油断した。史思明は一気に突入し、李光弼・王思礼・許叔冀・魯炅らが応戦して双方に損害が出たが、魯炅は矢傷を負った。
  • 郭子儀が後続で到着したが、布陣を終えないうちに烈風が吹き、砂を巻き上げ木を倒し、昼なお暗くなった。敵味方は互いを見分けられなくなり、官軍は南へ、賊軍は北へ崩れた。
  • 武具や輜重は路上に山と捨てられ、官軍は大敗した。

潰走後の収拾

  • 郭子儀は朔方軍で河陽橋を断って東京防衛にあたり、戦馬一万のうち三千しか残らず、甲仗十万もほとんど失われた。
  • 東京の士民は恐れて山谷へ逃げ、留守の崔圓、河南尹蘇震ら官吏は襄・鄧へ避難した。各節度使も本鎮へ潰走し、その兵は通過地で略奪を働いた。
  • ただし李光弼と王思礼だけは軍紀を保って整然と退却した。

河陽防衛の決定

  • 郭子儀は河陽で守備を固めようとしたが、兵がまた動揺して缺門へ逃げた。集まった諸将は東京を捨てて蒲・陝で守ろうと議した。
  • これに対し都虞侯張用済は、蒲・陝は飢饉で支えにくく、河陽で防ぐべきだと主張した。郭子儀はこれに従い、韓遊瓌に騎兵五百を率いさせて先行させ、張用済には歩兵五千で後続させた。
  • 周摯は河陽を奪おうとしたが、後着で入れず撤退した。張用済は南北二城の築造を進めて守備を整えた。

段秀実・諸将の処分

  • 段秀実は将士の家族と公私の輜重を率い、野戍から河を渡って河南岸の河清で待機した。荔非元礼がそこへ到着して駐屯した。
  • 諸将はそれぞれ謝罪の表を上奏したが、皇帝は基本的に不問とし、崔圓のみ位階と封戸を削り、蘇震を左遷した。

安慶緒の最期

  • 史思明は官軍の敗走を確認すると、沙河で軍を立て直して鄴城南に駐屯した。
  • 安慶緒は郭子儀の陣営に残されていた大量の糧食を得て、孫孝哲・崔乾祐らとともになお史思明を拒もうとした。
  • しかし諸将は、今さら史思明に背くことはできないとし、使者を送って和解を図った。史思明は涙を流して迎え、丁重に返したが、安慶緒は自ら窮してついに臣従を表明し、璽綬を捧げる意向まで示した。
  • 史思明は表面上は受け流し、「兄弟の国」として助け合おうと返書した。安慶緒は喜び、三百騎で史思明の営へ赴いた。
  • だが史思明は庭下に引き出した安慶緒を、父を殺し位を奪った大罪人だと激しく罵り、その場で安慶緒と四弟、高尚・孫孝哲・崔乾祐らを殺した。
  • こうして安慶緒の州県と兵はすべて史思明のものとなり、安太清に兵五千を与えて懐州を取りに向かわせた。
  • 史思明はさらに西進を考えたが、根拠地の安定を優先し、子の朝義を相州に残して自らは范陽へ帰った。

朝廷人事

  • 回紇の骨啜特勒帝徳ら十五人が相州から西京に帰投し、宮中で宴と恩賞を受けた。
  • 荔非元礼は懐州刺史・鎮西北庭行営節度使代行となり、再び段秀実を節度判官にした。
  • 呂諲が同平章事に任じられ、苗晋卿・王嶼は罷免された。李峴、李揆、第五琦が宰相に加わった。
  • 皇帝は特に李峴を信任し、軍国の大事は多く李峴の判断に委ねられた。

羽林をめぐる論争

  • 京師で盗賊が多くなり、李輔国は羽林騎士五百を選んで夜警に当てるよう求めた。
  • 李揆は、南北軍が互いを牽制する現体制を崩してはならず、羽林に金吾の職務を代行させれば非常時の抑えが失われると上奏した。
  • 皇帝はこれを採用し、李輔国の案は退けられた。

四月 李輔国の専権

  • 郭子儀は東畿・山東・河東諸道元帥となり東京留守を兼ね、来瑱は陝州方面の節度使とされた。
  • 王思礼は潞城東で史思明の将楊旻を破った。
  • このころ李輔国は禁軍を掌握し、制勅は必ず彼の押署を経なければ施行されず、宰相や諸司の奏事も彼を通さねばならなかった。銀台門で天下の政務を決し、密偵を多数置き、御史台や大理寺の囚人まで恣意的に釈放・追索した。
  • 官吏たちは彼を名指ししづらく、「五郎」と呼んだ。名門出身の李揆さえ子弟の礼を取り、「五父」とまで呼んだという。

李峴の諫言と李輔国の反発

  • 李峴は皇帝の前で、制勅は中書を経るべきであり、李輔国の専権は政道を乱すと強く論じた。
  • 皇帝はこれに感じ入り、李輔国の察事をやめさせ、口勅や私的な追索を制限し、諸務を本来の有司へ返す詔を出した。軽重の判断も法官と中書門下で定めさせることとした。
  • 李輔国はこれを深く恨み、李峴を忌むようになった。

新たな節度使設置

  • 魯炅を陳・鄭・亳節度使、尚衡を青密七州節度使、李奐を豫・許・汝三州節度使とし、それぞれ国境防衛に当たらせた。
  • ただし相州敗戦の際、魯炅の部隊は特に略奪がひどく、本人は郭子儀が河上に退き、李光弼が太原へ戻ったと聞くと、恥じて毒を飲み自殺した。

史思明の即位

  • 史思明は自ら「大燕皇帝」と称し、年号を順天とした。妻の辛氏を皇后、子の朝義を懐王とし、周摯を宰相、李帰仁を将軍とした。范陽を燕京と改め、諸州を郡とした。

回紇可汗の死と寧国公主

  • 回紇の毗伽闕可汗が死去し、長子は先に殺されていたため、少子が立って登里可汗となった。
  • 回紇側は寧国公主を殉葬させようとしたが、公主は、中国風を慕って遠く婚姻したのに、今さら本俗に戻るなら婚姻の意味がないと拒んだ。
  • ただし、彼らの風習に合わせて顔を切って哭礼を行った。

謝夷甫獄と政争

  • 鳳翔の馬坊の押官が強盗行為を働き、天興尉の謝夷甫がこれを捕えて殺した。だがその妻が冤罪を訴えた。
  • 李輔国は関係者に再審を重ねさせた。孫鎣、崔伯陽、李曄、権献らはいずれも冤罪ではないとしたが、毛若虚だけは李輔国の意を迎えて謝夷甫に罪を帰した。
  • 崔伯陽は毛若虚の不正を弾劾しようとしたが、逆に皇帝の怒りを買って左遷され、権献・李曄・厳向・孫鎣も処分された。
  • 李峴は崔伯陽に罪はないと弁護したが、皇帝は朋党と見て、五月、李峴を蜀州刺史に左遷した。
  • 韓択木は入対し、李峴は専権を望んだのではなく、直言しただけだと述べた。毛若虚はやがて御史中丞となり、朝廷で威を振るった。

夏から秋 地方の動き

  • 許叔冀は汴州刺史・滑汴等七州節度使となり、劉展が副使となった。
  • 朔方を分けて邠寧等九州節度使が置かれた。
  • 魚朝恩は相州敗戦を口実に郭子儀を中傷し、七月、皇帝は郭子儀を京へ呼び返し、李光弼に朔方節度使・兵馬元帥を代行させた。
  • 兵士たちは郭子儀の留任を泣いて求めたが、郭子儀は彼らを欺いてその場を離れた。
  • 李光弼は親王を副えるよう求め、趙王係が天下兵馬元帥となり、李光弼が副した。

李光弼、朔方軍を掌握

  • 李光弼は河東騎兵五百を率い、夜に東都の軍営へ入った。軍紀を厳しく整え、着任すると軍容は見違えるほど改まった。
  • 朔方軍の将兵は郭子儀の寛大さを好み、李光弼の厳しさを恐れた。左廂兵馬使張用済はこれに反発し、東都へ突入して李光弼を追い出し、郭子儀を復帰させようと図った。
  • しかし僕固懐恩や康元宝が、そうなれば郭子儀一家を危うくし、朝廷への反逆になると諫めたため、中止となった。
  • 李光弼は汜水に出て張用済を召し、遅参の罪で斬り、辛京杲に部隊を任せた。
  • 次いで到着した僕固懐恩には座を与えて厚遇した。懐恩はあらかじめ蕃渾騎兵五百を率いて備えていたが、李光弼は事情を察しつつも咎めず、牛酒を与えた。

王思礼と張光晟

  • 王思礼は河東節度使となった。
  • かつて潼関敗戦で馬を失った王思礼に、名も告げず馬を譲った騎卒がいた。後に辛雲京が王思礼の怒りを買って苦境に陥ったとき、その部下張光晟が自分こそその恩人だと名乗り出て、王思礼に面会した。
  • 王思礼は張光晟を見てすぐ思い出し、手を取って涙を流し、今日の自分があるのは彼のおかげだと言った。張光晟が辛雲京の冤を訴えると、王思礼はこれを許し、張光晟を兵馬使に取り立て、厚く褒賞した。

八月 襄州の乱と寧国公主帰国

  • 襄州で康楚元・張嘉延が反乱を起こし、刺史王政は荆州へ逃れた。康楚元は自ら「南楚覇王」と称した。
  • 回紇の寧国公主は子がなかったため、帰国を許され、京師へ戻った。
  • 曹日昇が襄州へ赴いて慰諭し、王政は貶されたが、康楚元は従わなかった。
  • 李光弼は幽州長史・河北節度等使となった。

九月 荆南の動揺と貨幣改鋳

  • 張嘉延は荆州を襲って破り、荆南節度使杜鴻漸は澧・朗へ逃れた。配下諸州の官吏も山谷に潜んだ。
  • 綘州で乾元重宝の大銭を鋳させ、重輪を加えて一枚を五十枚分とした。京官たちは軍事で俸給が滞っているので、新銭で冬料を支給すべきだと請うた。

史思明の河南侵攻開始

  • 王仲昇が申沔等五州節度使となり、淮南西道行営兵馬を兼ねた。
  • 史思明は子の朝清に范陽を守らせ、自らは諸郡から兵三千ずつを徴して河南へ南下した。令狐彰を黎陽から滑州へ向かわせ、自身は濮陽、史朝義は白皋、周摯は胡良から渡河し、汴州で合流する計画を立てた。
  • 李光弼は河上を巡察中にこれを聞いて汴州へ入った。汴滑節度使許叔冀に十五日守れれば援軍すると告げたが、史思明が来ると許叔冀は敗れ、董秦・梁浦・劉従諫・田神功らとともに降伏した。
  • 史思明は許叔冀を中書令にし、董秦の家族を人質にとり、南徳信らに江淮方面の攻略を命じた。
  • しかし田神功はほどなく南徳信を襲って斬り、部衆を率いて唐へ帰順した。

洛陽放棄と河陽死守

  • 史思明が勝勢に乗って鄭州へ進むと、李光弼は洛陽へ戻り、留守韋陟に問うた。韋陟は陝に兵を残し、潼関へ退いて険阻に頼るべきだと答えた。
  • 李光弼は、無故に五百里の地を棄てれば敵を勢いづかせるだけだと退け、河陽へ移って澤潞と連携し、進退自在の体勢を取るべきだと主張した。これを「猿臂の勢」と表現した。
  • 韋陟や河南尹李若幽に洛陽退避を命じ、自らは軍士を率いて油や鉄など守城資材を運び、河陽へ向かった。
  • 途中、石橋付近まで史思明の遊兵が来ていたが、李光弼は日暮れに松明を掲げてゆっくり進軍し、隊列は乱れず、敵も敢えて迫れなかった。
  • 河陽に着いた時、兵は二万、糧食は十日分しかなかったが、李光弼は守備と編成を厳格に点検し、すぐ戦える体制を築いた。

十月 河陽攻防

  • 史思明は空の洛陽に入り、李光弼に後方を脅かされるのを恐れて宮城へは入らず、白馬寺南に退き、河陽南に月城を築いて対峙した。
  • 皇帝は親征を発表したが、群臣の諫止で中止した。
  • 史思明は驍将劉龍仙に城下で挑戦させた。龍仙は騎上で傲慢に罵ったが、白孝徳が単身に近い形で討ち取り、首を持ち帰った。城上の鼓噪もあって賊軍は大いに驚いた。
  • 史思明は良馬千余匹を黄河中州で毎日見せびらかしていたが、李光弼は軍中の牝馬五百を集め、子馬を城内につないだ。敵馬が水辺に来ると牝馬を出し、いななきで誘って、敵馬をいっせいに河を渡らせ奪い取った。
  • さらに敵は火船で浮橋を焼こうとしたが、李光弼は鉄叉付きの長竿と礮石で防ぎ、火船も戦船も沈めて撃退した。

野水渡の策略

  • 史思明は河清方面に兵を見せ、李光弼の補給路を断とうとした。李光弼は野水渡に出て備えたが、夜には河陽へ戻り、雍希顥に千人だけ残して柵を守らせた。
  • 李光弼は、史思明が高庭暉・李日越・喩文景のような勇将を必ずよこすが、来ても戦うな、降るなら連れて来いと命じた。諸将は意味を理解できず密かに笑った。
  • 果たして李日越が夜襲してきたが、李光弼を捕えられなければ帰れないと判断し、雍希顥に降った。李光弼は厚遇して腹心とした。
  • これを聞いた高庭暉もまた降伏した。李光弼は、人情を利用しただけだと説明した。
  • 高庭暉は右武衛大将軍に任じられた。

河陽大戦と周摯敗走

  • 史思明は再び河陽を攻めた。李光弼は李抱玉に南城を二日守れるかと問うと、李抱玉は引き受け、いったん糧尽きを偽って敵を油断させたうえで翌日反撃し、大きな損害を与えた。
  • 董秦も夜に柵を抜けて五百人を率い、唐へ降った。
  • 賊将周摯は中潬城へ猛攻をかけ、塹壕を埋めて進軍路を作った。荔非元礼は、戦うなら敵に塹壕を埋めさせてから打つのがよいと述べ、李光弼もこれを賞した。
  • 元礼は時機を見て出撃し、いったん退いて敵を緩ませ、再度鼓噪して破った。
  • 周摯は北城へ転進したが、李光弼は諸将に戦線を割り振り、自らの旗の振り方で総攻撃の合図を示すと命じた。もし敗れれば自分も賊手にはかからず自刃するとまで語った。
  • 郝庭玉がいったん退くと李光弼は驚き、首を求めたが、馬が矢を受けただけだと知ると馬を替えて再出撃させた。僕固懐恩父子が一時後退した時も、李光弼は使者に斬首を命じ、これを見た懐恩父子は必死に戦った。
  • 総攻撃で賊軍は大潰し、斬首千余、捕虜五百、溺死千余を出した。周摯は数騎で逃れた。徐璜玉らが捕らえられ、安太清は懐州へ逃げ込んだ。
  • 史思明はなお南城を攻めていたが、李光弼が捕虜を河辺に並べて見せると、敗北を知って退いた。
  • 李日越は右金吾大将軍に任じられた。

西南の反乱と康楚元平定

  • 邛・簡・嘉・眉・瀘・戎などの州で蛮族が反乱した。
  • 董秦は神策両軍兵馬使となり、李姓を賜って忠臣と改名した。
  • 康楚元の兵は一万を超えたが、商州刺史で荆襄租庸使の韋倫が討伐にあたり、まず投降者を厚遇して敵を弛ませたうえで攻め、康楚元を生け捕りにした。掠奪された租庸二百万緡も取り戻し、荆襄は平定された。

貨幣政策の失敗

  • 安西・北庭兵を陝に移して史思明に備えた。
  • 第五琦が作らせた乾元銭・重輪銭と開元銭の三種類が併用されるようになると、民は競って私鋳し、貨幣価値は下落し、物価は高騰し、餓死者が続出した。
  • 上奏する者は皆その責任を第五琦に帰し、十一月、第五琦は忠州長史に左遷され、これに連なる賀蘭進明も罰せられた。

年末の戦況

  • 呂諲が度支使を兼ねた。
  • 史思明は李帰仁に鉄騎五千で陝州を攻めさせたが、衛伯玉が数百騎でこれを礓子阪に破り、馬六百匹を獲た。衛伯玉は鎮西四鎮行営節度使となった。
  • 李忠臣も永寧の莎柵付近で李帰仁らをたびたび破った。