資治通鑑唐紀 肅宗 文明武德大聖大宣孝皇帝 至德 二年 757年

九月 長安奪回へ向けた出兵準備

  • 蔡希德が城下に来て挑戦すると、程千里は百騎を率いて門を開けて突撃し、これを捕えようとした。だが援軍が来たため退こうとして橋が壊れ、堀に落ちて逆に蔡希德に捕えられた。程千里は従騎に「自分がこうなったのは天命だ。将を失っても城は失うな」と伝えさせた。蔡希德はその後も城攻めに失敗し、程千里を洛陽へ送り、安慶緒は彼を特進に任じて客省に幽閉した。
  • 郭子儀は、回紇軍が精強であるとして、さらに兵の増派を求めるよう粛宗に勧めた。回紇の懐仁可汗は子の葉護と将軍帝徳らに精兵四千余を率いさせて鳳翔へ送った。粛宗は葉護を手厚くもてなし、望むままに褒賞を与えた。

九月 唐・回紇連合軍の西京奪還戦

  • 丁亥、元帥の広平王俶は、朔方軍と回紇・西域の兵あわせて十五万余を率いて鳳翔を出発した。俶は葉護と兄弟の契りを結び、葉護は大いに喜んで俶を兄と呼んだ。
  • 扶風で郭子儀が三日間の宴を設けると、葉護は「国家に急があるから遠く来ているのに、食事のために滞在している場合ではない」と言い、宴が終わるとすぐ進軍した。唐側は回紇軍に日々、羊二百・牛二十・米四十斛を支給した。
  • 庚子、諸軍は同時に進発し、壬寅、長安西方の香積寺北、灃水東岸に布陣した。李嗣業を前軍、郭子儀を中軍、王思礼を後軍とし、賊軍十万は北に陣した。
  • 李帰仁が出て挑発し、官軍が追撃して敵陣近くまで迫ると、賊軍が一斉に進んで官軍は押し返され、混乱した。賊は輜重を奪おうとした。李嗣業は「今ここで身をもって賊を食い止めなければ、軍は全滅する」と言い、上半身をあらわにして長刀を持ち、陣前で大声を上げて斬り込んだ。彼の刀に当たる者は人馬ともに砕け、数十人を斬ると軍勢は落ち着きを取り戻した。
  • その後、李嗣業は前軍に長刀を持たせて壁のように進ませ、自ら先頭に立って敵を崩した。都知兵馬使の王難得は部下を救おうとして眉の上に矢を受け、皮膚が垂れて目を覆ったが、自ら矢を抜き皮を引きちぎって、血に顔を染めながら戦い続けた。
  • 賊は精騎を東に伏せて官軍の背後を襲おうとしたが、偵察がこれを察知した。朔方左廂兵馬使の僕固懐恩は回紇兵を率いてこれを撃ち、ほぼ全滅させた。賊軍はこれで気勢を失った。
  • 李嗣業はさらに回紇兵とともに敵陣の背後へ回り込み、大軍と挟撃した。正午から夕方までの戦いで六万級を斬り、堀や塹壕は死体で埋まった。賊軍は大敗して残兵は城へ逃げ込み、夜まで城中の騒ぎは収まらなかった。

九月 長安回復と回紇の掠奪回避

  • 僕固懐恩は広平王俶に、賊が城を捨てて逃げた今こそ二百騎で追い、安守忠や李帰仁らを縛って捕えるべきだと進言した。だが俶は、将兵も疲れているから明朝に図ろうと制した。懐恩は、敵将らは勇猛であり、今この機を逃せば再び勢力を整えて禍をなすと繰り返し訴えたが、許されなかった。夜明けに諜報が届くと、安守忠・李帰仁・張通儒・田乾真らはすでに逃亡していた。
  • 癸卯、唐軍は西京に入った。もともと粛宗は回紇に対し、城を落とした日には土地と人民は唐に、金帛と女子は回紇に与えると約していた。葉護はその約束通りにしようとしたが、広平王俶は馬前にひざまずき、「今ようやく西京を得たところで、もし掠奪すれば東京の人々は賊のために固く守り、二度と取れなくなる。東京を取ってから約束通りにしてほしい」と願った。
  • 葉護はこれに感じ入り、馬を降りて逆に拝礼し、俶の足を捧げ持って敬意を示し、「殿下のためにまっすぐ東京へ向かおう」と答えた。回紇・西域の兵は城南を経て滻水東岸に移駐した。これを見た民衆も将兵も異民族たちも、俶の礼に感泣し、「広平王こそ華夷の主である」と言った。
  • 広平王俶は軍を整えて入城し、長安の人々は老若男女が道を挟んで歓呼し、悲しみ泣いた。俶は長安に三日とどまって鎮撫にあたり、その後、大軍を率いて東へ進んだ。虢王巨を西京留守に任じた。

九月 捷報到来と李泌の退去願い

  • 甲辰、長安回復の報が鳳翔に届くと、百官が賀し、粛宗は涙を流した。その日のうちに中使の啖庭瑶を蜀へ遣わして上皇へ報告し、左僕射の裴冕を京師に入れて郊廟に報告し、また百姓を慰撫させた。
  • 粛宗は李泌を長安から召し寄せ、「上皇に東帰を請い、自分は東宮に戻って臣下の職分に復したい」と語った。李泌は、すでに出した表文では上皇は帰って来ないと見抜き、馬嵬から霊武に至るまでの推戴の経緯と、今や成功した今こそ孝養のため速やかに還京してほしいと群臣名義で請う表に改めるべきだと勧めた。粛宗はそれを読んで自らの過ちに気づき、すぐに使者へ託して蜀へ送った。
  • この夜、粛宗は李泌と酒を飲み、同じ寝台で寝た。李輔国が宮中の契鑰を李泌に渡すよう願い出たが、李泌は逆に李輔国に掌らせることを求め、粛宗はこれを許した。
  • 李泌は「これで恩に報いた。もう閑人に戻りたい」と言ったが、粛宗は長年の苦難をともにした今こそ楽しみを分かち合いたいと引き留めた。李泌は、自分が早くから遇され、重く任ぜられ、深く寵され、功が高く、行跡が奇であることが、むしろ留まれない理由だと述べ、「今去らねば死を招く」と迫った。
  • 粛宗がなお認めないため、李泌は建寧王の死について初めて口を開いた。粛宗は建寧王が兄の広平王を害して皇位を奪おうとしたため除いたのだと説明したが、李泌はそれは讒言であり、建寧王の孝友と聡明さを思えばあり得ないと論じた。かつて元帥に建寧王でなく広平王を推したのは自分であったが、建寧王は自分を恨まず、かえって親しんだ、それこそが彼の心の証だと述べた。粛宗は涙を流してこれを認めた。
  • 李泌はさらに、武后が聡明な子を次々に失わせた故事と、「黄台の瓜」の詩を引いて、すでに一人を摘んだのだから二人目を摘むなと諫めた。これは広平王に大功があり、その側近や後宮に讒言が生じうることを警戒させるためだった。粛宗は驚きつつも胸に刻んだ。

九月から十月 潼関以東の進展

  • 郭子儀は蕃漢の兵を率いて賊を潼関まで追い、五千級を斬って華陰・弘農二郡を奪回した。
  • 関東から捕虜百余人が献じられると、朝廷はみな斬るよう命じたが、監察御史の李勉が「今、元凶はまだ滅んでおらず、賊に汚された者は天下の半ばに及ぶ。みな誅すれば、彼らを賊へ追いやるだけだ」と諫めたため、粛宗は急いで赦した。
  • 冬十月丁未、啖庭瑶が蜀に到着した。
  • 壬子、興平軍は武関で賊を破り、上洛郡を回復した。
  • 吐蕃は西平郡を陥とした。

睢陽の陥落

  • 尹子奇は長く睢陽を囲み、城中の食糧は尽きた。東へ脱出してはどうかとの議論に対し、張巡と許遠は、睢陽は江淮の防壁であり、ここを捨てれば賊が長駆して江淮は失われる、しかも兵は飢えて弱っているから逃げても届かない、と主張して死守を決めた。
  • 茶・紙まで食べ尽くし、やがて馬を食べ、馬が尽きると雀や鼠を捕えた。それも尽きると、張巡は愛妾を殺して兵に食べさせ、許遠も奴僕を殺した。その後は城中の婦人、さらに男子や老人・弱者にまで及んだ。だが人々は必死を知って背かなかった。最後に残ったのはわずか四百人であった。
  • 癸丑、賊が城に登ったが、将士は病み疲れて戦えなかった。張巡は西に向かって再拝し、「力は尽きた。生きては都を守れず、死しては鬼となって賊を討つ」と言い、ついに城は陥落した。張巡・許遠ともに捕えられた。
  • 尹子奇が張巡に、なぜ戦うたびに目尻が裂け歯が砕けるほど激昂したのかと問うと、張巡は「逆賊を呑み込みたいと思うが、力が足りないだけだ」と答えた。尹子奇はその気概を義として生かそうとしたが、部下は「この人は節義を守る者で、決して用いられない。人望もあるから後患となる」と言い、張巡・南霽雲・雷万春ら三十六人はともに斬られた。許遠は生け捕りのまま洛陽へ送られ、のち偃師で死んだ。
  • 張巡は当初、兵一万人余と城中の住民数万人を抱えていたが、一度名を聞けば忘れず、大小四百余戦で賊兵十二万人を殺した。兵法の教練も一律ではなく、各将に応変の戦い方を教えさせた。これは賊軍が雲散霧消のように変化し、臨機応変が不可欠だからだった。
  • 彼は器械や甲仗をほぼ敵から奪って補い、自らは動じず、退いた兵にも「自分はここを離れない、お前たちは戻って勝負を決めよ」と言って奮い立たせた。また、真心で人に接し、賞罰は明確で、苦楽を兵とともにしたため、兵はみな死力を尽くした。
  • 張鎬は睢陽救援のため急行し、浙東・浙西・淮南・北海・譙郡などにも檄を飛ばして救援を求めたが、譙郡太守の閭丘暁は日頃から傲慢で命令に従わず、張鎬が到着した時には睢陽は陥落して三日後だった。張鎬は閭丘暁を召し出して杖殺した。

十月 新店の戦いと東京回復

  • 張通儒らは残兵をまとめて陜を守り、安慶緒は洛陽の兵を総動員して御史大夫の厳荘に率いさせ、旧兵と合わせてなお十五万歩騎を有した。
  • 己未、広平王俶が曲沃に至ると、回紇の葉護は将軍鼻施吐撥裴羅らに命じて南山沿いに伏兵を捜索させ、嶺北に陣した。
  • 郭子儀らが新店で賊と遭遇したとき、賊は山を背にして布陣していた。官軍は初戦で不利となり、賊が山を下って追撃してきた。そこへ回紇軍が南山から賊の背後を襲い、黄塵の中で十余本の矢を放っただけで賊軍は「回紇が来た」と恐れて崩れた。官軍と回紇軍は挟撃し、賊は大敗した。厳荘・張通儒らは陜を捨てて東へ逃げた。
  • 庚申の夜、安慶緒は厳荘の報告を受け、洛陽の苑門から河北へ逃亡した。去るにあたって、哥舒翰・程千里ら捕虜となっていた唐将三十余人を殺した。
  • 壬戌、広平王俶は東京に入った。回紇はなお掠奪の意を残しており、俶はこれを憂えた。父老たちは羅と錦一万匹を出して回紇に与え、ようやく掠奪をやめさせた。

十月 上皇東帰決定と粛宗の長安帰還

  • 蜀から戻った使者は、上皇が「剣南一道だけを自らの生活のために持ち、二度と戻らない」と言っていたと報じた。上皇はどうすべきか恐れていたが、後から届いた群臣の賀表には、粛宗が初めての表では東宮復帰を願っていたこと、しかし群臣の表によって上皇の還京を強く望んでいることが記されていた。上皇はそれを受けて大いに喜び、食事をとり、音楽を命じ、東帰の日取りを定めた。
  • 粛宗はこの結果を李泌の力だと喜んだ。李泌はなお退隠を願い続け、ついに許されて衡山へ隠れることとなった。朝廷は山中に住居を築かせ、三品相当の待遇を与えた。
  • 癸亥、粛宗は鳳翔を発し、韋見素を蜀へ送って上皇を奉迎させた。
  • 乙丑、郭子儀は張用済・渾釈之に命じて河陽・河内を取らせた。厳荘は降伏し、陳留の人々は尹子奇を殺して郡ごと降った。頴川で来瑱を囲んでいた田承嗣も使者を送って降伏を願ったので、郭子儀はこれに応じたが、その対応が緩かったため田承嗣は再び叛いて武令珣とともに河北へ逃げた。来瑱は河南節度使に任じられた。
  • 丙寅、粛宗は望賢宮に着き、東京奪回の捷報を得た。丁卯、長安に入ると、百姓は国門の外まで二十里にわたり迎え、踊りながら万歳を叫び、泣く者もあった。粛宗は大明宮に居し、太廟が賊に焼かれていたため、素服で廟に向かい三日間哭した。

十月から十一月 安慶緒の鄴立てこもり

  • 同じ日、上皇は蜀郡を発った。安慶緒は鄴郡へ逃れて守り、鄴郡を安成府と改め、年号を天成とした。従騎三百ほど、歩卒千に満たない状態だったが、阿史那承慶ら諸将が常山・趙郡・范陽へ散って兵を集め、ほどなく蔡希德・田承嗣・武令珣らも各地から部下を率いて帰参したため、兵六万を得て再び声勢を盛り返した。
  • 広平王俶が東京に入った際、安禄山・安慶緒父子の下で官を受けた陳希烈ら三百余人は素服で泣きながら罪を請うた。俶は皇帝の意向によりいったん赦し、のち西京へ送った。
  • 己巳、崔器は彼らを朝堂で西京の百官と同じように請罪させたうえ、大理寺や京兆の獄に収監した。府県の末端役人や単に命令に従わされた者まで一括して拘束した。
  • 汲郡の甄済は、もと安禄山に掌書記として招かれたが、禄山の異志を見抜いて病を装って帰郷していた。反乱後に東京へ強制連行されたが、広平王俶が東京を平定すると軍門に出て謁した。粛宗は彼を三司の館に住まわせ、賊から官を受けた者たちに拝礼させて恥じ入らせたのち、秘書郎・国子司業に任じた。
  • 蘇源明は病を称して賊の官を受けなかったので、考功郎中・知制誥に抜擢された。

十一月 受賊官者への処置と回紇の帰還

  • 壬申、粛宗は丹鳳門で詔を下し、賊から官禄を受けた者・賊のために働いた者を三司に分類させて上申させることにした。ただし戦いで捕虜になった者、賊地に近く往来せざるを得なかった者などには自首を認め、罪を除いた。賊に汚された女子についても罪を問わないとした。
  • 癸酉、回紇の葉護が東京から帰還すると、粛宗は長楽駅で百官に出迎えさせ、宣政殿で宴を開いた。葉護は軍馬が不足しているとして、兵を沙苑に残し、自ら国へ戻って馬を取ってきて、再び范陽の残党を掃討したいと申し出た。粛宗は褒賞して送り出した。
  • 十一月、広平王俶と郭子儀が東京から帰還した。粛宗は郭子儀に「わが家と国家は卿によって再造された」と労った。
  • 張鎬・魯炅・来瑱・呉王祗・李嗣業・李奐ら五節度は河南・河東の郡県を次々と平定し、能元皓の拠る北海と高秀巖の拠る大同だけが未平定であった。
  • 己丑、回紇葉護を司空・忠義王に封じ、毎年絹二万匹を朔方軍経由で与えることとし、厳荘を司農卿とした。
  • 先に彭原にあったとき、粛宗は九廟の神主を栗で改めて作っていた。庚寅、長楽殿で朝享を行った。

十二月 上皇還京

  • 丙申、上皇は鳳翔に至り、従う兵は六百余だった。上皇は自ら、兵の甲冑・武器をすべて郡庫へ納めるよう命じた。粛宗は精騎三千を派遣して奉迎した。
  • 丙午、上皇が咸陽に着くと、粛宗は望賢宮で法駕を整えて出迎えた。上皇は楼上から黄袍を脱いで紫袍で現れ、粛宗は馬を降りて駆け寄り、楼下で拝舞した。上皇が楼を下りると粛宗を撫でて泣き、粛宗はその足を捧げ持ってむせび泣いた。上皇は自分の黄袍を出させ、それを自ら粛宗に着せた。
  • 上皇は「天命も人心も汝に帰した。自分が余生を養えるのは汝の孝である」と言い、粛宗は固辞しつつも受けた。父老たちは仗の外で歓呼し拝したので、粛宗は仗を開かせ、多くの者を中へ入れて上皇に謁見させた。
  • 上皇は正殿に住むことを拒み、「ここは天子の座だ」と言ったが、粛宗が固く請い、自ら扶けて殿に上げた。食事の際には、粛宗が自ら味見してから進めた。
  • 丁未、行宮を発つにあたり、粛宗は自ら上皇の馬を馴らして差し出し、上皇が馬に乗ると轡を取って数歩進んだ。上皇はこれを止め、粛宗は前を行くが、馳道の中央を避けた。上皇は左右に向かって「天子であった五十年より、天子の父となった今の方が貴い」と語り、左右は万歳を唱えた。
  • 上皇は開遠門から大明宮に入り、含元殿で百官を慰撫し、その後長楽殿で九廟の神主に謝して久しく慟哭した。その日のうちに興慶宮へ移って住んだ。粛宗は幾度も位を避け東宮へ戻りたいと願ったが、上皇は許さなかった。

十二月 受賊官者の裁断

  • 辛亥、李峴・呂諲を詳理使とし、御史大夫崔器とともに陳希烈らの獄を審理させた。李峴は李栖筠を判官に起用し、平恕を務めさせたため、呂諲・崔器の苛酷さが怨まれる一方で、李峴だけは美名を得た。
  • 戊午、粛宗は丹鳳楼で大赦し、安禄山とともに反した者、および李林甫・王鉷・楊国忠の子孫だけは赦免の例外とした。
  • 広平王俶を楚王に立て、郭子儀を司徒、李光弼を司空に進めた。蜀郡・霊武で扈従し功のあった者は皆、位階・爵位・食邑を加えられた。
  • 李憕・盧奕・顔杲卿・袁履謙・許遠・張巡・張介然・蔣清・龐堅らには追贈が行われ、その子孫や戦死者の家には二年の賦役免除が与えられた。
  • 郡県の翌年の租庸は三分の一を免じ、天宝期に改められた郡名・官名もおおむね旧に復した。また蜀郡を東京、鳳翔を西京、従来の西京長安を中京とした。
  • 張良娣を淑妃とし、多くの皇子を王に封じた。

張巡評価の再定着

  • 張巡が睢陽を守って食人に及んだことを責める議論も起こった。これに対し、友人の李翰は伝を作って上奏し、張巡は少兵で大軍を防ぎ、江淮を保全して皇帝の軍を待ったのであり、救援が来ぬまま食が尽き、やむなく人に及んだのであって本心ではない、たとえ最初からそうした覚悟があったとしても数百人を損じて天下を全うした功がある、と論じた。これにより議論はようやく収まった。
  • 以後の赦令では李憕らの名はたびたび及んだが、程千里だけは生け捕られて賊庭に送られたことが災いし、褒贈にあずからなかった。

十二月 伝国宝授与と史思明の離反準備

  • 甲子、上皇は宣政殿で伝国宝を粛宗に授けた。粛宗は涙しながら受けた。
  • 安慶緒が河北へ逃れる途中、李帰仁と精兵、曳落河・同羅・六州胡の数万は范陽へ潰走したが、史思明は厚く備えを固めて迎えた。范陽に入ると、曳落河と六州胡は史思明に降ったが、同羅は従わず、史思明が攻めて大破し、彼らの略奪品を悉く奪った。
  • 安慶緒は史思明の勢力を恐れ、阿史那承慶と安守忠を范陽へ送り兵を徴発させるとともに、密かに史思明を図らせようとした。
  • これに対し、判官の耿仁智や将の烏承玭は、唐室は中興し、安慶緒は朝露にすぎないのだから、史思明は朝廷に帰順して福とすべきだと説いた。史思明はこれに同意した。
  • 承慶・守忠が五千の精騎を従えて范陽に来ると、史思明は数万の兵で出迎え、「辺兵は臆病だから安心させるため弓を解いてほしい」と言わせた。承慶らが従うと、史思明は承慶を内庁で歓待しつつ別に甲兵を没収し、諸郡兵には糧を与えて帰らせた。願って留まる者には厚く賜って諸営に分配した。翌日、承慶らを拘禁し、竇子昂を使者として、十三郡と兵八万を率いて降伏する表を京師へ送った。あわせて、河東節度使高秀巖も所部をもって降った。
  • 乙丑、竇子昂が京師に到着すると、粛宗は大いに喜び、史思明を帰義王・范陽節度使に任じ、その七子にも顕官を授けた。内侍の李思敬と烏承恩を派遣して慰撫し、安慶緒討伐を命じた。
  • 史思明は張忠志を范陽へ呼び返し、その部将薛蕚に井陘路を開かせ、陸済を招いて趙郡を降らせ、子の朝義に兵五千を与えて冀州を押さえさせ、令狐彰を博州刺史にした。烏承恩が宣詔して回ると、滄・瀛・安・深・徳・棣などの州は相次いで降った。相州だけは安慶緒が守ったが、河北はほぼ唐のものとなった。

年末 受賊官者処分をめぐる議論

  • 上皇は粛宗に「光天文武大聖孝感皇帝」の尊号を加えた。
  • 郭子儀は再び東都へ戻り、河北経営にあたった。
  • 崔器・呂諲は、賊に陥った官で国を背いた者は律に照らして死刑にすべきだと上奏した。粛宗も一時これに傾いたが、李峴は、人々は都陥落の混乱の中で逃げ惑っていたのであり、このまま皆を死罪にすれば仁恕に反し、しかも河北未平の現状では、なお賊中にいる多くの臣に自新の道を塞ぐことになる、と論じた。粛宗は数日議論した末に李峴に従った。
  • そこで六等に分けて罪を定め、重い者は市で斬り、その次は自尽を賜り、さらに次は杖や流貶とした。壬申、達奚珣ら十八人を城西南の独柳樹で斬り、陳希烈ら七人に大理寺で自尽を命じた。張均・張垍については粛宗が助命を望んだが、上皇は「賊のもとで要職にあり、張均はわが家を毀った」として許さなかった。粛宗は張説の恩を引いて涙ながらに助命を請い、上皇は張垍だけを嶺南へ長流とし、張均は死罪とした。
  • 安禄山が任じた河南尹の張万頃だけは、賊中にあっても百姓を保護した廉で罪を問われなかった。
  • のちに、鄴にいる唐の臣らは、東京で陳希烈らが赦されたと聞いて自分たちの過ちを悔いたが、その後彼らが処刑されたと聞くと、帰順の思いを止めてしまった。粛宗はこれを深く悔やんだ。

年末 軍制再編と藩鎮の芽生え

  • もと廃されて尼となって禁中にいた韋妃がこの年に死んだ。
  • 左右神武軍を置き、もとの扈従者の子弟を入れて、左右羽林・左右龍武とあわせて北牙六軍とした。また騎射に優れた千人を選んで左右廂に分け、英武軍と号した。
  • 河中防禦使を節度使に昇格させて蒲・絳など七州を領させた。さらに剣南を東川・西川に分け、また荆灃節度・夔峡節度を置き、安西を鎮西と改めた。