資治通鑑唐紀三十三 玄宗 天寶 十三載 754年

正月:安禄山の入朝と玄宗の信任

  • 春正月己亥、安禄山が長安に入朝した。楊国忠は以前から「安禄山はひそかに反逆を企てている」とたびたび訴えており、今回も「召せば来ないはずだ」と主張した。
  • しかし玄宗が召すと、安禄山はただちに参上し、庚子に華清宮で拝謁した。彼は涙ながらに、自分は胡人でありながら抜擢されたのに楊国忠に憎まれて命が危ういと訴え、玄宗はこれを憐れんで巨額の恩賞を与えた。
  • このため玄宗はますます安禄山を信じ、楊国忠の警告は聞き入れられなくなった。太子もまた安禄山の反意を察していたが、進言しても採用されなかった。
  • 甲辰、太清宮から、学士の李琪が玄元皇帝の神示を見たとして、唐の国運が長く栄えるとの奏上があった。
  • 玄宗は安禄山を同平章事にしようと考え、張垍に制書を書かせていたが、楊国忠が「文字も知らぬ者を宰相にすれば異民族に軽んじられる」と諫めたため中止した。
  • 乙巳、安禄山は左僕射に任ぜられ、子にも高位の官が与えられた。
  • さらに庚申、安禄山は閑厩・隴右群牧などを統轄する使職を兼ね、壬戌には総監事務まで知ることになった。彼は吉温を武部侍郎・閑厩副使に推挙し、これが楊国忠の反感を招いた。
  • 安禄山はひそかに戦用に堪える良馬数千匹を選び、別に飼わせて備えを進めた。

二月:尊号の加上と恩賞

  • 二月壬申、玄宗は太清宮に朝献し、玄元皇帝にさらに尊号を加えた。
  • 癸酉には太廟に詣で、高祖・太宗・高宗・中宗・睿宗の諡号にいずれも「孝」の字を加えた。これは漢代皇帝の諡法にならったものである。
  • 甲戌、群臣は玄宗に「開元天地大宝聖文神武証道孝徳皇帝」の尊号を上り、天下に大赦が行われた。
  • 丁丑、楊国忠は司空に進んだ。甲申には冊命が行われた。
  • 己丑、安禄山は、奚・契丹・九姓・同羅などとの戦いで功績のあった配下への特進を願い出た。玄宗は常格にとらわれずこれを許し、将軍五百余人、中郎将二千余人が一挙に任ぜられた。これは後に反乱を起こすため、先に兵の心をつかむ措置だった。

三月:安禄山の帰国と張均兄弟の左遷

  • 三月丁酉朔、安禄山は范陽への帰還を辞し、玄宗は自らの衣を与えた。安禄山は楊国忠が自分を引き留めるよう奏するのを恐れ、潼関を出るときわめて急いで東へ向かった。
  • 船で黄河を下る際も、十五里ごとに交代させて昼夜兼行し、郡県に寄っても下船しなかった。以後、安禄山謀反の噂を述べる者があっても、玄宗は縛って差し出させたため、人々は反乱の兆しを知りながら口をつぐむようになった。
  • 高力士が餞別から帰ると、玄宗は安禄山の様子を問うた。高力士は、不満げであり、宰相任命が取りやめになったことを悟っているだろうと答えた。
  • 玄宗は「この話は張垍兄弟が漏らしたに違いない」と怒り、張均を建安太守、張垍を盧溪司馬、弟の張埱を宜春司馬に左遷した。

三月:哥舒翰配下の論功行賞と阿布思の誅殺

  • 哥舒翰もまた部将の論功を願い、火抜帰仁を驃騎大将軍、王思礼を特進、成如璆・魯炅・渾惟明を雲麾将軍、郭英乂を左羽林将軍とするなど、河隴の諸将に恩賞が与えられた。
  • また、厳武・呂諲・高適・曲環らを幕僚として用いた。
  • 程千里は阿布思を捕えて宮中に献じ、これを斬った。
  • 甲子、程千里は金吾大将軍となり、封常清が北庭都護・伊西節度使を代行した。

四月:安禄山の戦果報告

  • 夏四月癸巳、安禄山は奚を破り、その王李日越を捕えたと奏上した。

六月:南詔遠征の大敗

  • 六月乙丑朔、日食が起こったが、完全には欠けず鉤のように見えた。
  • 剣南留後の李宓は七万の兵を率いて南詔の閤羅鳳を討ったが、敵は太和城に籠って戦わず、深く誘い込まれた唐軍は兵糧が尽き、瘴気と飢えで多数が死んだ。
  • 李宓が退こうとすると、蛮軍の追撃に遭い、李宓自身も捕えられて全軍が壊滅した。
  • 楊国忠は敗戦を隠し、かえって勝利として奏聞し、さらに中原の兵を徴発して討伐を続けたため、前後の戦死者はほぼ二十万人にのぼった。だが誰も真相を語れなかった。
  • 玄宗が高力士に「朝政は宰相、辺事は諸将に任せてある。何を憂えることがあろう」と言うと、高力士は、雲南でたびたび敗れ、辺将は兵権を握りすぎており、ひとたび変が起これば手遅れだと率直に諫めた。玄宗は「静かに考えよう」と答えるにとどまった。

七月:洮陽・澆河二郡の設置

  • 秋七月癸丑、哥舒翰は新たに開いた九曲の地に洮陽・澆河の二郡と神策軍を置いた。成如璆が神策軍使を兼ねた。

八月:宰相交代

  • 楊国忠は陳希烈を嫌っており、希烈がたびたび辞職を願うと、玄宗は本来吉温を後任にしようとした。
  • しかし楊国忠は吉温が安禄山に近いことを恐れ、柔和で操りやすいとして韋見素を推挙した。
  • 八月丙戌、陳希烈は太子太師となって政務を退き、韋見素が武部尚書・同平章事となった。

九月:関中飢饉と災異の隠蔽

  • 前年から水害と旱害が相次ぎ、関中は大飢饉となっていた。
  • 楊国忠は、自分に従わない京兆尹の李峴を嫌い、災害の責任を彼に負わせて、九月に長沙太守へ左遷した。
  • 玄宗が雨害を憂えると、楊国忠は出来の良い稲だけを選んで献上し、「雨は多いが作柄への害はない」と言って取り繕った。
  • 扶風太守の房琯が自郡の水害を報告すると、楊国忠は御史に調べさせ、以後天下で災害を正直に言う者はなくなった。
  • 高力士もまた、長雨がやまぬ中で、宰相に権を委ねすぎ賞罰が乱れたため陰陽の調和が失われたのだと述べた。玄宗は黙って聞くしかなかった。

十月・十一月:華清宮行幸と宦官官制の変更

  • 冬十月乙酉、玄宗は華清宮へ行幸した。
  • 十一月己未、内侍監二員が新設され、正三品とされた。これは本来三品を超えないはずの宦官官制をさらに破る措置だった。

閏月:韋陟・吉温の失脚

  • 河東太守兼本道採訪使の韋陟は名声が高く、楊国忠は彼が宰相になるのを恐れて、収賄の嫌疑をかけ御史に取り調べさせた。
  • 韋陟は吉温に賄賂を渡して救済を求め、安禄山にも働きかけたが、逆にそれが楊国忠に暴かれた。
  • 閏月壬寅、韋陟は桂嶺尉、吉温は澧陽長史に左遷された。
  • 安禄山は吉温の冤罪を訴え、楊国忠の讒言を批判したが、玄宗はどちらの肩も持たなかった。
  • 戊午、玄宗は宮中へ戻った。

戸口の極盛

  • この年、戸部の報告では、天下は三百二十一郡、一千五百三十八県、一万六千八百二十九郷、九百六万九千余戸、人口五千二百八十八万余人に達した。唐の戸口が最も栄えた時期であった。