資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十七年 679年
正月・二月 隴右巡按と尊号加上
- 正月壬寅、隴右節度大使の榮王琬に、実際に本道へ赴いて諸軍を巡按し処置させ、関内・河東の壮士三万から五万人を募って隴右の防衛に当て、秋まで寇がなければ帰還を許すよう命じた。
- 群臣は尊号として「聖文」を加えるよう請い、二月己巳に許され、天下に大赦し、この年の田租を免じた。
四月・六月 術数の禁令と人事
- 四月癸酉、陰陽術数のうち、昏礼・葬礼・卜筮の選日以外は禁じた。
- 己丑、牛仙客は兵部尚書兼侍中、李林甫は吏部尚書兼中書令となり、文武の選事を総轄した。
- 六月癸酉、御史大夫の李適之が幽州節度使を兼ねた。
幽州の軍令偽造事件
- 幽州将の趙堪白真陁羅は、節度使の張守珪の命と偽り、平盧軍使の烏知義に横水北方の叛奚残党討伐を命じた。
- 烏知義が応じないと、今度は皇帝の制命と偽って圧迫したため、やむなく出兵したが、初め勝って後に敗れた。
- 張守珪は敗戦を隠し、勝利として報告したが、事が漏れ、玄宗は内謁者監の牛仙童を派遣して実情を調べさせた。
- 張守珪は重賂によって牛仙童を抱き込み、白真陁羅に罪を着せて自殺させた。
- しかし牛仙童は玄宗に寵愛されていたため宦官たちに妬まれており、彼らが事実を暴いたので、玄宗は怒って甲戌、楊思勗に命じて牛仙童を杖殺させ、極めて残酷な刑を加えた。
- 張守珪は括州刺史に左遷され、また蕭嵩も仙童に城南の良田を贈っていたことを李林甫に暴かれ、青州刺史に貶された。
八月 突騎施平定の進展
- 乙亥、磧西節度使の蓋嘉運が突騎施可汗の吐火仙を捕えた。
- 嘉運は碎葉城を攻め、吐火仙を賀邏嶺で捕えたうえ、疏勒鎮守使の夫蒙靈詧と抜汗那王の阿悉爛達干に、密かに兵を率いて怛邏斯城へ突入させ、黒姓可汗の爾微をも捕えた。
- さらに曳建城に入って交河公主を奪還し、散在していた民数万人を抜汗那王に与えたため、その威は西方一帯に震えた。
吐蕃の侵攻と孔子追尊
- 壬午、吐蕃が白草・安人などの軍鎮を侵したが、隴右節度使の蕭炅がこれを破った。
- 甲申、孔子に文宣王の諡を追贈した。
- それまで先聖先師の祭では周公を南面、孔子を東面としていたが、以後は孔子を南面とし、王者の服を着せ、釈奠には宮懸の楽を用いることになった。
- また、孔門弟子たちにも公侯伯の爵を追贈した。
九月 諸部内附と太子改名
- 戊午、処木昆・鼠尼施・弓月など、もと突騎施に属していた諸部がみな衆を率いて帰附し、安西管内へ移住したいと願った。
- 皇太子は名を「紹」に改めた。
十月・十一月 明堂修造と剣南人事
- 十月辛巳、東都明堂の修造が命じられた。
- 丙戌、玄宗は驪山温泉へ行幸し、十一月辛丑に還宮した。
- 甲辰、明堂が完成した。
- 剣南節度使の張宥は文官で軍事に疎く、軍務のすべてを団練副使の章仇兼瓊に委ねていた。兼瓊は入朝して安戎城奪回の可能性を盛んに語り、玄宗を悦ばせた。
- 丁巳、張宥は光禄卿に移され、十二月、章仇兼瓊が剣南節度使となった。
祫禘の整理
- 睿宗の喪が明けてから、三年に一度祫祭、五年に一度禘祭が行われていたが、この年は夏に禘を終えたあと冬にまた祫が来る年回りだった。
- 太常は、祭が頻繁すぎれば敬意が薄れるとして、この年の祫をやめ、今後は通算して五年ごとに祫と禘をそれぞれ行うよう提案し、採用された。