資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十六年 678年
正月 牛仙客の昇進と教育制度
- 乙亥、牛仙客が侍中となった。
- 丁丑、玄宗は滻水の東で迎気の礼を行った。
- 辺境への長期駐屯兵は、募集でほぼ足りるようになったとして、今後は鎮兵を新たに派遣せず、現地の兵は帰還を許すとした。
- また、天下の州県ごとに里学を置くことを命じた。
正月・二月 節度体制の整備
- 壬辰、李林甫は隴右節度副大使を領し、鄯州都督の杜希望が留後を担当した。
- 二月乙卯、牛仙客は河東節度副大使も兼ねた。
- 己未、貞順皇后が敬陵に葬られた。
- 壬戌、河曲六州胡のうち、かつて康待賓の乱に連座して諸州へ分散移住させられていた者たちに、故地へ戻ることを許し、塩州・夏州の間に宥州を置いて住まわせた。
三月 吐蕃との戦い
- 吐蕃が河西に侵入したが、河西節度使の崔希逸がこれを破った。
- 鄯州都督で隴右留後の杜希望は、吐蕃の新城を攻め落とし、その地に威戎軍を置いて千人を駐屯させた。
五月 河西兼領と崔希逸の死
- 乙酉、李林甫は河西節度使も兼ねた。
- 丙申、崔希逸は河南尹に転じたが、吐蕃との盟約を破って攻めたことを内心恥じ、ほどなく死んだ。
太子冊立へ向かう
- 太子瑛が死んで以来、李林甫はたびたび寿王瑁を太子に立てるよう勧めた。
- しかし玄宗は、忠王璵が年長で仁孝・恭謹・好学であることから、彼を立てたい気持ちがありながらも、一年以上決められずにいた。
- 三子を同日に死なせ、継嗣が未定であることを深く気に病み、常に心が晴れず、食事や睡眠も減っていた。
- 高力士が理由をたずねると、玄宗は後継者が決まらぬことだと明かした。高力士は、最年長者を立てれば誰も争えないと進言し、玄宗はこれに強く同意した。
六月 忠王璵、太子となる
- 庚子、忠王璵が皇太子に立てられた。
- 辛丑、岐州刺史の蕭炅が河西節度使となって留後を総括し、鄯州都督の杜希望が隴右節度使、太僕卿の王昱が剣南節度使となり、それぞれ吐蕃経略を命じられた。
- さらに、以前に立てた赤嶺碑を破壊するよう命じた。
突騎施の内乱
- 突騎施の可汗蘇禄は、もと廉潔で、戦利品を諸部に分けて私蔵せず、人望を得ていた。
- 唐の公主を娶る一方で、突厥・吐蕃とも通じ、それぞれの王女も娶って三国の女を可敦とし、諸子を葉護に立てたため、出費が増大した。
- 晩年は中風で片手が縮み、諸部の心が離れた。
- 黄姓・黒姓に分かれた諸部のうち、莫賀達干と都摩度の二部が最も強く、まず共謀し、莫賀達干が夜襲して蘇禄を殺した。
- のち都摩度は方針を変え、蘇禄の子の骨啜を吐火仙可汗として立てて残党を集め、莫賀達干と争った。
- 莫賀達干は磧西節度使の蓋嘉運へ使者を送り、玄宗は嘉運に、突騎施および抜汗那以西の諸国の招撫を命じた。
- 吐火仙と都摩度は碎葉城に拠り、黒姓可汗の爾微特勒は怛邏斯城に拠って、唐に対抗した。
太子冊命の礼制変更
- 太子冊命の儀では、天子と同じ「中厳」「外辦」や絳紗袍が用いられていた。
- 太子は至尊と同じ称呼・服制を嫌い、改めたいと上表した。
- 左丞相の裴耀卿は、「中厳」を廃し「外辦」を「外備」と改め、絳紗袍を朱明服とするよう奏請し、採用された。
七月 太子冊立の実施
- 己巳、玄宗は宣政殿で皇太子の冊立を行った。
- 本来なら太子は輅に乗って殿門まで来る先例だったが、この時は輅に乗らず、東宮から歩いて入った。
- この日、天下に大赦があった。
- 己卯、忠王妃の韋氏が皇太子妃に冊立された。
杜希望・王忠嗣の勝利
- 杜希望は鄯州の兵を率い、吐蕃の河橋を奪って河の西側に塩泉城を築いた。
- 吐蕃は三万で迎え撃ち、杜希望の兵は少なく恐れたが、左威衛郎将の王忠嗣が先陣を切って敵陣を破り、敵を大敗させた。
- 唐はその地に鎮西軍を置き、王忠嗣は功により左金吾将軍へ昇進した。
八月・九月 渤海王の死と剣南敗戦
- 辛巳、渤海王の武藝が死に、子の欽茂が立った。
- 九月朔、日食があった。
- 王昱は、かつて吐蕃に奪われた安戎城を奪回しようと、その側に二城を築き、蒲婆嶺の下に軍を留めて兵糧を運び込んだ。
- 吐蕃は大軍で安戎城を救援し、王昱軍は大敗して数千人が死に、王昱は身一つで逃げ、軍資・兵糧を失った。
- 王昱は栝州刺史に左遷され、さらに高要尉へ再左遷されて死んだ。
九月 南詔の統一と冊封
- 戊午、南詔の蒙帰義が雲南王に冊立された。
- その祖先は哀牢夷の地にあって、姚州の西に住み、周辺に六詔が並立していた。蛮語で王を「詔」といった。
- 蒙舍詔が最南にあったため、南詔と呼ばれた。
- 皮邏閤の代に勢力を伸ばし、破渳河蛮討伐の功をもって王昱に賄賂を贈り、六詔合一を朝廷に請わせた。朝廷はこれを許し、名を帰義と賜った。
- 帰義は兵威で諸蛮を服属させ、従わぬ者を滅ぼし、さらに吐蕃を破って大和城に移った。
- 胡注は、のちにこれが国境の大患となることを指摘する。
十月 温泉行幸と軍制変更
- 戊寅、玄宗は驪山温泉へ行幸し、壬辰に還宮した。
- この年、西京・東都の往来の道に行宮を千余間築き、左右羽林の別軍として龍武軍を置き、万騎営を属させた。
齊澣の運河開削
- 潤州刺史の齊澣は、瓜歩から長江を渡ると迂回六十里になるとして、京口の堰から江を直渡りし、伊婁河二十五里を掘って楊子県へ通じるようにすることを請い、許された。