資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十五年 677年
正月・二月 玄学博士と科挙改革
- 正月、崇玄学に博士を置き、毎年、明経と同様に試験で二人を取ることとした。
- 二月、進士は声律ばかりで古今に暗く、明経は帖誦ばかりで趣旨に通じないとして、今後は明経に大義十条と時務策三首を課し、進士には大経十帖を試すよう制度を改めた。
新羅王の交代
- 戊辰、新羅王の興光が死去し、子の承慶が位を継いだ。
二月・三月 辺境の勝利
- 乙酉、幽州節度使の張守珪が捺禄山で契丹を破った。
- 己亥、河西節度使の崔希逸が青海西で吐蕃を破った。
- 崔希逸は以前、吐蕃側の乞力徐に対して、両国は通好して一家のようなものなのだから、互いに守備兵を撤き耕牧を妨げないようにしようと説き、白犬を刑して盟約まで結んでいた。
- ところが吐蕃は西方で勃律を攻め、唐の制止に従わず滅ぼしたため、玄宗は怒った。
- そこへ崔希逸の傔人・孫誨が功を求めて、吐蕃には備えがなく今なら急襲できると奏上した。玄宗は内給事の趙惠琮を同道させて事情を見させた。
- 趙惠琮らは現地で詔を偽って崔希逸に進撃を命じ、崔希逸はやむなく二千里深入りして青海西で戦い、大勝して首二千余を斬った。乞力徐は脱走した。
- 趙惠琮・孫誨は厚賞を受けたが、以後吐蕃はまた朝貢を絶った。
四月 周子諒の弾劾と死
- 監察御史の周子諒が、牛仙客は器ではないと弾劾し、讖緯の文を引いてその不吉を論じた。
- 玄宗は激怒し、殿庭で打ち据えさせ、気絶して蘇るとさらに朝堂で杖打ちし、瀼州へ流した。周子諒は藍田で死んだ。
- 李林甫は、周子諒は張九齡が推薦した人物だと告げた。
甲子・乙丑 張九齡左遷と三王廃立
- 甲子、張九齡は荊州長史に左遷された。
- 楊洄はさらに、太子瑛・鄂王瑶・光王琚が、太子妃の兄である駙馬薛鏽とひそかに異謀を構えていると奏した。
- 玄宗が宰相に諮ると、李林甫は「これは陛下の家事であり、臣らの与るべきことではない」と答えた。玄宗は決意し、乙丑、宦官に詔を持たせて宮中で三人を庶人に落とした。
- 薛鏽は瀼州へ流され、まもなく瑛・瑶・琚は城東驛で死を賜り、薛鏽も藍田で死を賜った。
- 瑶・琚はいずれも学問と才識があり、罪によらず死んだとして人々は惜しんだ。
- その翌日、瑛の母方の趙氏、太子妃の薛氏、瑶の母方の皇甫氏など数十人が流罪・左遷となったが、瑶妃の韋氏は賢かったため助かった。
五月 贓罪処分の変更
- 夷州刺史の楊濬は贓罪で死刑相当となったが、玄宗は六十杖のうえ古州流罪に減じた。
- 裴耀卿は、杖で身体を損ねる処罰は士人には辱めが強すぎ、徒隷に適用すべきものであると上疏した。玄宗はこれを受け入れた。
五月・六月 辺軍の募兵と宗室登用
- 癸未、方隅が安定したとして、中書門下と諸道節度使に命じ、軍鎮の軽重や利害を見極めて兵員定数を定め、征人・客户の中から若者を募って長期の辺軍に充て、田宅を増給し手厚く遇するようにした。
- 辛丑、宗室の子弟で才能ある者を選び、台省・法官・京県官などに任じるよう命じた。法を守る者に私情を交えず、宗室であっても修身勉励する者には恩を惜しまぬという方針を示した。
七月 刑の少なさを賀す
- 大理少卿の徐嶠が、今年、天下で死刑となった者は五十八人だけで、大理獄には従来「殺気」が強く鳥も巣をかけないと言われたのに、今は鵲が巣を作ったと奏上した。百官は、ほとんど刑罰が用いられない理想に近づいたとして賀表を出した。
- 玄宗はその功を宰相に帰し、翌庚辰、李林甫を晋国公、牛仙客を豳国公に封じた。
- また二人に法官とともに律令格式の修訂を命じ、九月壬申に頒行された。
秋 和糴法の拡充
- 西北辺境の数十州には常備兵が多く、地租や営田だけでは養えなかったため、和糴法が用いられていた。
- 彭果が牛仙客を通じて関中での和糴実施を献策し、戊子、豊作で穀価が下がって農民が損をしているとして、市価より二、三割高く買い上げる勅が出された。
- 東西の畿内で数百万斛の粟を和糴し、この年の江淮からの租米輸送は停止された。
- 以後、関中の蓄積は豊かになり、車駕が東都へ行幸する必要はなくなっていった。
- 癸巳、河南・河北の租で含嘉倉や太原倉に送るべきものも、それぞれ本州に留めて納めさせた。
王璵の祠祭進出
- 太常博士の王璵が、青帝壇を立てて立春の祭を行うよう上疏し、採用された。
- 冬十月辛丑、以後は立春に親しく東郊で迎春することが定められた。
- 玄宗はこの頃、神鬼の祭祀を好むようになっており、王璵は祭礼・祈祷に巧みだったため、侍御史となり祠祭使も兼ねた。
- 王璵は紙銭を焼くなど巫覡に近いやり方で祈祷し、礼に通じた人々からは恥ずべきことと見られた。
十月・十一月 温泉行幸と宋璟の死
- 壬申、玄宗は驪山温泉に行幸し、乙酉に還宮した。
- 己丑、開府儀同三司の宋璟が死去した。
十二月 武惠妃の死と明堂改修
- 丙午、惠妃武氏が薨じ、貞順皇后と追諡された。
- この年、将作大匠の康諐素に命じて東都の明堂を解体させたが、諐素は全壊では民力を煩わせるとして、上層のみを取り払って高さを旧来より九十五尺低くし、乾元殿に作り替える案を出し、これが採用された。
- また、租庸調や租資課について、各地の土産物で京都へ送る制度が整えられていた。