資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十八年 730年
正月二月 裴光庭の台頭
- 正月辛卯、裴光庭を侍中に任じた。
- 二月癸酉、はじめて百官に春の月の旬休ごとに景勝地へ遊び宴楽することを命じ、宰相から員外郎までを十二組に分け、各組に五千緡を賜った。
- 玄宗自身もしばしば花萼楼に出て帰りの一行を引き留め、酒宴で舞わせて歓を尽くさせた。
三月四月 職田復給と長安外郭工事
- 三月丁酉、京官にふたたび職田を支給した。
- 四月丁卯、西京外郭の築造を開始し、九十日で完成させた。
裴光庭の循資格
- 乙丑、裴光庭は吏部尚書を兼ねた。
- それ以前、選司では人の能力に応じて任官し、場合によっては飛び級昇進もあった一方で、二十年以上仕えても禄を得ない者もいた。州県官の異動にも一定の等級秩序がなかった。
- 裴光庭は、罷免後に一定回数の選を経た者から順に集め、官位の高い者は待機回数を少なく、低い者は多くして、能力を問わず選の年限が満ちれば任官する制度を作った。
- また、非違がない限り、降格はさせず、一定の年限ごとに順当に昇進させる「循資格」を整備した。
- 停滞していた凡庸な官人はこれを歓迎し、「聖書」と呼んだが、才能ある士人はみな恨み嘆いた。
- 宋璟は争って反対したが、通らなかった。
- さらに裴光庭は、流外官人の署任についても門下省の審査を経させるよう改めた。
吐蕃の和請
契丹・奚の反乱
- もとより契丹王の李邵固が可突干を入貢に遣わした際、同平章事の李元紘がこれを無礼に扱っていた。
- 左丞相の張説は、奚・契丹は必ず叛く、可突干は狡猾で剛戻、長く国政を専断して人心を得ているので、その心を失えば再び来朝しなくなるだろうと語っていた。
- 己酉、可突干は李邵固を殺し、契丹人を率い、さらに奚を脅して突厥に降った。
- 奚王李魯蘇とその妻の韋氏、邵固の妻の陳氏はいずれも唐へ逃げ帰った。
- 朝廷は幽州長史の趙含章に討伐を命じ、さらに裴寛・薛侃らを関内・河東・河南北に派遣して勇士を募った。
忠王を元帥に
- 六月丙子、単于大都護の忠王李浚を河北道行軍元帥とし、御史大夫の李朝隠、京兆尹の裴伷先を副将として、十八総管を統べて奚・契丹討伐にあたらせた。
- 李浚が百官に会うため光順門に出ると、張説は学士の孫逖・韋述に対し、かつて見た太宗の肖像によく似ている、これは社稷の福だと語った。
平盧軍の戦功
- 可突干が平盧に侵入すると、平盧先鋒使の烏承玼が捺禄山でこれを破った。
洛水氾濫
吐蕃との和親論
- 秋九月丁巳、忠王李浚に河東道元帥を兼ねさせたが、結局出征はしなかった。
- 吐蕃はたびたび敗れて恐れ、和親を求めるようになった。
- 忠王友の皇甫惟明は、奏事の折に、和親の利益を説いた。賛普が以前送った無礼な書は、当時まだ幼少で本人の真意とは限らず、むしろ辺将が戦争を望んでねつ造した可能性があると述べた。
- さらに、辺境に戦が続けば将吏は官物を盗み、虚偽の戦功を述べて勲爵を求めるので、得をするのは奸臣であって国家ではないと論じた。
- 河西・隴右の疲弊も指摘し、公主を見舞う使者を送って賛普と約し、叩頭称臣させて辺患を断つのが長策だと勧めた。
- 玄宗は喜び、皇甫惟明と内侍の張元方を吐蕃へ派遣した。
- 賛普は大いに喜び、貞観以来に得た唐の勅書をことごとく示した。
- 冬十月、吐蕃は大臣の論名悉獵を派遣して入貢した。上表では、唐を舅、自らを甥と称し、公主婚姻による一家の義を言い立て、中間の戦乱は辺将の挑発によるものだと述べ、和好の再開を強く願った。
- 以後、吐蕃は再び服属の姿勢を示すようになった。
温泉行幸と護密王の入朝
- 庚寅、玄宗は鳳泉湯へ行幸し、癸卯に京師へ戻った。
- 甲寅、護密王の羅真檀が入朝し、宿衛としてとどまった。
年末の平穏と異民族席次争い
- 十一月丁卯、玄宗は驪山温泉へ行幸し、丁丑に還宮した。
- この年、天下で奏請された死罪はわずか二十四人であった。
- 突騎施が入貢したため、玄宗は丹鳳楼でこれを宴した。突厥の使者もその席に列した。
- 両使者は席次を争い、突厥は突騎施は自国の臣下にすぎないとして上席を主張し、突騎施は今日の宴は自分のためなので下位には座れないと反論した。
- 玄宗は東西に幕を分け、突厥を東、突騎施を西に置いて争いを収めた。
王毛仲と宦官勢力
- 王毛仲は、内外の閑厩・監牧を統轄する都使として、寵を恃んで日ごとに驕慢となった。
- 葛福順・唐地文・李守徳・王景耀・高広済らと親しく、彼らも毛仲の権勢を当てにして多くの不法を働いた。
- 毛仲は兵部尚書になれなかったことを不満に思い、その不快を言葉や表情にあらわしたので、玄宗も次第に不快となった。
- このころ玄宗は宦官を三品将軍にすることさえあり、諸州へ使いに出せば官吏は賄賂の供応に追われ、京城近郊の田園も半ば宦官の所有となっていた。
- 楊思勗・高力士はとくに寵遇されていたが、毛仲は宦官の高位者をまるで人とも思わず、少しでも意に逆らえば奴僕のように罵辱した。
- 高力士らは毛仲の勢いを憎んだが、しばらくは口に出せなかった。
- ところが、毛仲の妻が男子を産んで三日目、玄宗が高力士に酒食・金帛を持たせて祝わせ、さらにその子に五品官を授けたところ、毛仲はその嬰児を抱いて「この子は三品にもなれるではないか」と言い放った。
- 玄宗は激怒した。高力士もまた、北門の奴僕出身の将たちが一心同体となっており、早く除かなければ大患になると説いた。
- 玄宗は、その党が変を起こすことを恐れつつも、処置を決意した。