資治通鑑唐紀 睿宗玄真大聖大興孝皇帝上 景雲 元年 710年
正月 金城公主の吐蕃行き
- 丙寅の夜、中宗は韋后とともにひそかに市中へ出て灯火を見物し、さらに数千人の宮女を外出させたが、帰らない者も多かった。
- 中宗は金城公主を吐蕃へ送る役を紀処訥に命じたが辞退され、ついで趙彦昭にも断られた。
- 丁丑、左驍衛大将軍の楊矩に命じ、己卯には中宗自ら始平まで送ってから帰った。
- 二月、金城公主は吐蕃に到着し、賛普は彼女のために別に城を築いて住まわせた。
二月から五月 遊宴と諫臣の死
- 庚戌、中宗は梨園の球場で三品以上の文武官に撃毬や拔河をさせた。韋巨源・唐休璟のような老臣まで綱につかせたため、二人は倒れて長く起き上がれず、帝・后・妃・公主らはこれを見て大笑いした。
- 四月丙戌には芳林園に遊び、公卿に馬上から桜桃を摘ませた。
- 長安東南の民家の井があふれて大池となっていた隆慶池の北には、相王の五子が邸宅を並べていた。望気者はそこに帝王の気がこもっていると言い、近ごろ特に盛んだとした。
- 乙未、中宗は隆慶池に行幸し、彩楼を飾って群臣と舟遊びした。人々は、これをその気を押さえ込もうとしたものだと見た。
- 定州人の郎岌は、韋后と宗楚客が叛逆を企んでいると上言したが、韋后が中宗に告げ、杖殺された。
- 五月丁卯、許州司兵参軍の燕欽融もまた、皇后の淫乱と国政干与、安楽公主・武延秀・宗楚客らの宗社危殆を上言した。
- 中宗は燕欽融を召して面詰したが、欽融は叩頭しても顔色を変えず、少しもひるまなかった。
- すると宗楚客は偽勅を用い、飛騎に命じて燕欽融を殿庭の石上に打ち倒し、頸を折って殺させた。宗楚客は大声で快哉を叫んだ。中宗は徹底追及こそしなかったが、心中では不快を覚えた。
- このことから、韋后とその党はかえって自らの危うさを感じ始めた。
五月 祝欽明の醜態
- 己卯、中宗が近臣を宴した際、国子祭酒の祝欽明は自ら願い出て「八風舞」を演じ、首を振り目を回し、醜悪な仕草を尽くした。
- 中宗は笑ったが、祝欽明は本来儒学で名を成した人物であり、吏部侍郎の盧蔵用はひそかに「祝公は五経を地に落とし尽くした」と嘆いた。
六月 中宗の崩御と韋后政権
- 散騎常侍の馬秦客は医術、光禄少卿の楊均は料理で韋后に取り入って宮中に出入りしていた。事が漏れて誅されるのを恐れた韋后・安楽公主らは、韋后を臨朝させ、安楽公主を皇太女にしようと企て、餅餤に毒を仕込んだ。
- 壬午、中宗は神龍殿で崩じた。
- 韋后は喪を秘して発せず、みずから政務を総覧した。癸未、宰相たちを禁中に召し、諸府兵五万人を京城に集め、韋捷・韋灌・韋璿・韋錡・韋播・高嵩らに分けて統率させた。
- さらに薛思簡らに兵五百を率いさせ、均州へ急派して譙王重福に備えた。東都には裴談・張錫を留守とし、張嘉福・岑羲・崔湜を宰相に加えた。
- 太平公主と上官昭容は遺制案を作り、温王重茂を皇太子とし、皇后が政務を知り、相王旦が参謀政事となる形を考えた。
- しかし宗楚客は、相王が韋后にとって義理上微妙な立場であり、朝廷で礼が立たないと主張して宰相たちを動かし、韋后の臨朝と相王排除を求めた。蘇瓌は遺詔改変に反対したが、韋温・宗楚客に押されて従った。
- こうして相王は太子太師に退けられ、甲申、梓宮を太極殿へ移して発喪し、皇后は臨朝摂政し、大赦して年号を唐隆に改めた。相王旦を太尉とし、雍王守礼を豳王、寿春王成器を宋王に進めて人望を慰めた。
- 丁亥、殤帝が即位した。年十六で、韋后は皇太后となり、陸氏を皇后とした。
- 壬辰、紀処訥・岑羲・張嘉福をそれぞれ諸道巡撫に出した。
- 宗楚客・武延秀・趙履温・葉静能・諸韋は、韋后に武后の先例に倣って唐の命を奪うよう勧め、南北衛・台閣の要職を韋氏一族で固め、内外に党を広げた。
- 宗楚客はひそかに図讖を引いて、韋氏が唐を改めるべきだと韋后に進言した。
臨淄王隆基の決起準備
- 韋后らは、やがて殤帝をも害し、相王と太平公主を除こうと密議した。
- 相王の子・臨淄王隆基は、潞州別駕を罷められて京師におり、ひそかに有能な勇士を集めて社稷回復を図っていた。
- 羽林軍の中には、太宗以来の百騎・千騎を発展させた万騎がおり、隆基はその豪傑たちと厚く結んでいた。
- 兵部侍郎の崔日用は、もともと韋武の側にあり宗楚客とも親しかったが、その謀略を知って自身への累を恐れ、宝昌寺の僧・普潤を隆基のもとへ密かに遣わして急いで挙兵するよう促した。
- 隆基は太平公主、薛崇暕、鍾紹京、王崇曄、劉幽求、麻嗣宗らとともに、先手を打って諸韋を誅する計画を立てた。
- ちょうど韋播・高嵩が万騎に威を示そうとしばしば笞打っていたため、将士たちは彼らを怨んでいた。果毅の葛福順・陳玄礼らが隆基に訴えると、隆基は諸韋誅殺をほのめかし、彼らは喜んで死力を尽くすと誓った。
- ある者が相王にあらかじめ告げるべきだと勧めたが、隆基は「成功すれば功は王に帰す。失敗しても自分一人の死で済み、王を危険に巻き込まずに済む」と言って、あえて知らせなかった。
庚子の夜 唐隆の政変
- 庚子の晡、隆基は平服で幽求らと禁苑に入り、鍾紹京の役所に集まった。紹京はためらったが、妻の許氏に励まされて協力した。
- 羽林将士は玄武門に駐屯しており、夜になると葛福順・李仙鳬らが隆基のもとに集まって合図を定めた。二鼓のころ天星が雪のように散り、劉幽求は「天意がこう示している。時を失ってはならない」と言った。
- 葛福順は剣を抜いて羽林営へ入り、韋璿・韋播・高嵩を斬ってその首を示し、「韋后は先帝を毒殺し、社稷を危うくした。今夜、諸韋を皆殺しにして相王を立てる。二心ある者は三族を滅ぼす」と号令した。羽林兵は皆これに従った。
- 隆基は苑南門から出て、鍾紹京は工匠二百余人を率いてこれに従った。葛福順は左万騎で玄徳門、李仙鳬は右万騎で白獣門を攻め、凌煙閣前で合流する段取りを定めると、一斉に鬨を上げた。
- 守門将を斬って門を破ると、隆基は玄武門外から兵を率いて入った。太極殿で梓宮を宿衛していた諸衛兵も騒ぎを聞いて甲冑を着けて呼応した。
- 韋后は驚いて飛騎営へ逃げ込んだが、飛騎に斬られて首を隆基へ献じられた。安楽公主は鏡に向かって眉を描いているところを斬られ、武延秀は粛章門外で、賀婁氏は太極殿西で殺された。
上官昭容の最期
- 上官昭容は、かつて従母の子・王昱から、武氏に寄り添えば滅族の道だと諫められていた。重俊の変で自らが追われた後、はじめてその忠告を思い、以後は帝室へ心を寄せるようになっていた。
- 中宗の崩後、昭容は温王を立て相王に補佐させる遺制案を草したが、宗楚客と韋氏に改められていた。
- 隆基が宮中へ入ると、昭容は燭を持ち、宮人を率いて迎え、遺制草案を劉幽求に示した。幽求は彼女のために取り成したが、隆基は許さず、旗下で斬った。
辛巳以後 諸韋の誅殺と睿宗擁立
- 当時、少帝は太極殿にいた。劉幽求は、今夜の兵が相王擁立で一致している以上、早く決めるべきだと主張した。隆基はいったんそれを制しつつ、宮中・諸門にいた韋氏の親党をくまなく捜して皆殺しにし、夜明けまでに内外を平定した。
- 辛巳、隆基は相王に会って、事前に告げなかった罪を謝した。相王は抱いて泣き、「社稷宗廟が地に墜ちなかったのはお前の力だ」と述べた。
- 相王は少帝を奉じて安福門に出て百姓を慰撫し、京城の諸門を閉めて万騎を各所へ派遣し、韋氏の親党を捕えた。韋温は東市北で殺され、宗楚客は喪服姿で青驢に乗って逃げたが、通化門で見破られて斬られた。弟の宗晋卿も同時に殺された。
- 趙履温は、安楽公主のために財を傾けて邸宅を築き、紫の上衣の襟で車を曳くほどへつらった男だったが、公主の死後なお楼下で万歳を叫んだため、相王は万騎に命じて斬らせた。百姓はその酷使を恨み、争って肉を切り取った。
- 汴王邕と竇従一は、それぞれ韋后の妹である自分の妻の首を自ら斬って差し出した。
- 韋巨源は家人に逃げるよう勧められたが、「大臣たるもの国難を聞いて赴かぬわけにはいかない」と言って出たところ、乱兵に殺された。年八十であった。
- 馬秦客・楊均・葉静能らの首はさらされ、韋后の屍も市にさらされた。崔日用は杜曲で諸韋を誅し、襁褓の児まで助からなかった。そのため諸杜氏の側にも誤殺が多数出た。
- その日の赦では、首魁は誅したので残る支党は問わないと宣言し、隆基を平王とし、左右万騎や内外の馬政を管掌させた。薛崇暕は立節王に封じられ、鍾紹京と劉幽求は中書省の要職で機務に参与した。
- 武氏宗族もこの時に誅流がほぼ尽くされた。紀処訥は華州、張嘉福は懐州で捕えられて斬られた。
壬寅から甲辰 相王の即位
- 壬寅、太極殿で宮人と宦官が劉幽求に太后擁立の制書を作らせようとしたが、幽求は国難の直後にそれは不可だと拒んだ。
- 十道へは使者を遣わして情勢を宣撫し、均州には譙王重福を慰問させた。竇従一は濠州司馬へ左遷され、諸公主府の官属は廃された。
- 癸卯、太平公主は少帝の命として相王への譲位を申し出た。相王は固辞したが、隆基は殿中監同中書門下三品となり、兄弟たちも禁軍の要職に置かれた。
- 隆基の二奴、王毛仲と李守徳はともに俊敏で武勇に優れた。毛仲は決起当夜には姿をくらませていたが、数日後に戻ると、隆基は咎めず、かえって将軍に抜擢した。毛仲は高麗出身である。
- 汴王邕・楊慎交・蕭至忠・韋嗣立・趙彦昭・崔湜らは地方官へ左遷された。
- 劉幽求は宋王成器と平王隆基に対し、相王はかつて皇位にあったこともあり、今こそ即位して天下を安定させるべきだと説いた。隆基は父の性格からいって自ら求めはしないだろうと答えたが、幽求は社稷のために人望へ従うべきだと主張した。
- 成器と隆基が相王に面会して強く勧めると、相王もついに承諾した。
- 甲辰、少帝は太極殿東隅で西向きに座し、相王は梓宮のそばに立っていた。太平公主が「帝位を叔父に譲ってよいか」と問い、劉幽求が国難にあって仁孝による譲位は堯舜に比すべきと称えた。少帝の制が伝えられ、なお少帝が御座にいると、太平公主は「天下の心はすでに相王に帰した。これは幼児の座る席ではない」と言って自ら引き下ろした。
- 睿宗が即位して承天門に御し、大赦した。少帝はふたたび温王とされた。
- 鍾紹京は中書令となったが、もと司農寺の下級吏にすぎず、朝政にあたると賞罰をほしいままにしたため、衆に嫌われた。薛稷は彼に辞退を勧め、さらに睿宗に対して、元勲とはいえ出自と器量が宰相にふさわしくないと進言した。睿宗はこれを是とし、丙午に戸部尚書へ転じ、ほどなく蜀州刺史に出した。
太子冊立と処分・追復
- 睿宗は太子を立てるにあたり、嫡長の宋王成器と、大功ある平王隆基との間で迷った。
- 成器は、国家が安定していれば嫡長を先にすべきだが、危難の時は功ある者を先にすべきであり、自分は平王の上に立てないと、涙ながらに何日も固辞した。大臣たちも多く、平王の功が大きい以上、彼を立てるべきだと述べた。
- 劉幽求は「天下の禍を除いた者は天下の福を受けるべきだ」と言い、睿宗もこれに従った。丁未、平王隆基を太子とした。隆基はなお成器に譲ろうとしたが許されなかった。
- 則天武后は旧号の天后に戻され、かつて廃された雍王賢には章懐太子の諡が追復された。
- 戊申、宋王成器は雍州牧・揚州大都督・太子太師となり、温王重茂は内宅に置かれた。薛稷は黄門侍郎参知機務となった。
- 武三思・武崇訓の爵位と諡号は削られ、棺は壊され、屍をさらし、墳墓も平らにされた。
- 姚元之を兵部尚書同中書門下三品とし、韋嗣立・蕭至忠・趙彦昭・崔湜らも呼び戻して宰相・要職に再起用した。
- 宋之問・冉祖雍は韋武への追従の罪で嶺南へ流された。
- 己酉、衡陽王成義を申王、巴陵王隆範を岐王、彭城王隆業を薛王とした。
太平公主の権勢
- 太平公主は沈着で知略に富み、武后が自分に似ているとして諸子の中でも特に愛した。武后の時代にはなお畏れて権勢を専断しなかったが、張易之誅殺に力を尽くし、中宗の時代にも韋后・安楽公主に一目置かれていた。
- さらに今度は太子隆基とともに韋氏を誅したため、いっそう尊重されるようになった。
- 睿宗は大政を図るたびに公主と相談し、朝に出なければ宰相が彼女の邸に赴いて意見を求めた。宰相の奏事でも、まず「太平と議したか」「三郎と議したか」と確認してから裁可した。三郎とは太子隆基のことである。
- 公主の求めることはほとんど拒まれず、宰相以下の進退も一言で決まった。推挙で一気に清顕の地位へ進む者も数え切れず、門前に集まる者は市のようだった。
- 子の薛崇行・崇敏・崇簡らは王に封じられ、近郊に田園を広く持ち、器玩の収集や邸宅営造は嶺南や蜀からも物資を送らせるほどで、生活ぶりは宮中に比肩した。
七月 追贈と新政
- 郎岌と燕欽融には諫議大夫が追贈された。
- 庚戌朔、韋月将には宣州刺史が追贈された。
- 癸丑、崔日用を黄門侍郎参知機務とし、故太子重俊の位号を回復した。
- 神龍政変以来に失脚した敬暉・桓彦範・崔玄暐・張柬之・袁恕己・成王千里・李多祚らの罪を雪いで官爵を復した。
- 丁巳、宋璟を検校吏部尚書同中書門下三品とし、岑羲を罷めた。
- 宋璟と姚元之は協力して中宗朝の弊政を改め、忠良を進め、不肖を退け、賞罰を公平にし、請託を許さなかった。そのため朝野は、再び貞観・永徽の風が戻ったと歓迎した。
- 壬戌、崔湜・張錫・蕭至忠・韋嗣立・趙彦昭らを相次いで罷免または外任とし、丙寅、姚元之は兼中書令となり、李嶠は懐州刺史へ左遷された。
- 丁卯、唐休璟は致仕し、張仁愿も宰相職を解かれて左衛大将軍となった。
- 黄門侍郎参知機務の崔日用と、中書侍郎参知機務の薛稷は御前で互いを非難し合った。薛稷は日用を武三思に阿った不忠者・売友邀功の不義士と攻撃し、日用は薛稷こそ張易之・宗楚客へ寄った傾側者だと言い返した。
- 睿宗は両者をともに罷め、日用を雍州長史、薛稷を左散騎常侍とした。
- 己巳、大赦して年号を景雲に改めた。韋氏の残党でまだ処分されていない者も一括して赦した。
- 乙亥、武氏の崇恩廟と昊陵・順陵を廃し、韋后を庶人、安楽公主を悖逆庶人と追廃した。
譙王重福の陰謀の始まり
- 韋后が臨朝していた頃、吏部侍郎鄭愔は江州司馬へ左遷される途中で密かに均州へ立ち寄り、刺史の譙王重福や洛陽人の張霊均と、韋氏誅伐の兵を挙げる相談をしていた。だが決行前に韋氏が滅んだため、重福は集州刺史へ移されることになった。
- 張霊均は重福に対し、「大王は嫡長の立場にあり、本来は天子たるべき人だ。相王は功はあるが帝統を継ぐべきではない。東都の士民も大王の来訪を望んでいる」と説いた。左右屯営の兵を動かし、東都を奪えば、そこから西の陜州、東の河南北を制して天下を取れると煽った。
- 重福はこの説に従い、鄭愔と張霊均はひそかに徒党数十人を集めた。
- 鄭愔は秘書少監から沅州刺史へ左遷されていたが、洛陽にとどまって重福の到来を待ち、重福を帝とする制書を準備した。年号は中元克復とし、睿宗を「皇季叔」と尊び、温王を皇太弟とし、自身は左丞相として文事を、張霊均は右丞相として武事を統べる構想で、厳善思にも礼部尚書兼吏部事務を任せるつもりだった。
- 重福と張霊均は驛馬を偽って東都へ向かい、鄭愔は裴巽の邸を整えてそこで迎える手はずを整えた。
- 洛陽県の官吏は、この陰謀をうすうす察知し始めていた。