資治通鑑唐紀 中宗大和大聖大昭孝皇帝下 景龍 二年 708年

春二月 韋后をめぐる祥瑞工作

  • 宮中で、皇后の衣装箱の中の裙に五色の雲が立ちのぼったという話が持ち上がり、中宗はその図を描かせて百官に示した。
  • 韋巨源は、これを天下に布告すべきだと進言し、朝廷はそれに従って大赦を行った。
  • 迦葉志忠は、唐の歴代の君主や則天武后らが帝位につく前にも民間の歌が現れていたとして、韋后にも天命があるように説いたうえで、「桑韋」の歌を楽府に編入し、先蚕の祭りで奏するよう請願した。太常卿鄭愔もこれを後押しし、中宗は大いに喜んで賞した。
  • 右補闕の趙延禧もまた、周と唐の統一や符命の一致を説き、中宗が則天武后の後継であり、その子孫が長く天下を保つと称揚した。中宗は悦び、趙延禧を諫議大夫に抜擢した。

蕭至忠の諫言

  • 丁亥、蕭至忠は上疏し、恩寵を受ける者には金帛や美食を与えるだけで十分で、官職という公の器を私物化してはならないと論じた。
  • さらに、官職の乱発、近親者の飽くことなき要求、売官や法の私用によって、台省・寺監の中に無用な官が満ち、政務に害をなしていると厳しく批判した。
  • 中宗はその意図自体は評価したが、実際には改めようとしなかった。

三月 張仁愿の三受降城築城

  • 丙辰、朔方道大総管の張仁愿は、黄河沿いに東・中・西の三受降城を築いた。
  • もともと朔方軍と突厥は黄河を境としており、河北には拂雲祠があって、突厥は南侵の前にそこで祈祷し、牧馬・点兵してから渡河していた。
  • この時、黙啜が全軍を率いて西方で突騎施を攻めていたため、張仁愿はその隙を衝いて漠南を奪い、河北に三城を築いて相互支援させ、突厥の南下路を断つべきだと主張した。
  • 唐休璟は、漢以来の防衛線は大河を頼ってきたのであり、敵地に築城するのは徒労に終わると反対したが、張仁愿は譲らず、中宗は最終的にこれを採用した。
  • 工事では、任期満了で帰還予定の兵も残して作業にあてた。咸陽兵二百余人が逃亡すると、張仁愿は全員を捕えて城下で斬り、軍中を震え上がらせた。こうして六十日で完成した。
  • 中城は拂雲祠の地に置かれ、東西の二城とはそれぞれ四百里余り離れつつも渡河の要地を押さえ、さらに牛頭朝那山の北へ三百里余り版図を広げ、烽火台と見張り所を千八百あまり設けた。
  • 論弓仁を遊奕使として諾真水に駐屯させて哨戒させた結果、以後、突厥は山を越えて牧猟することもできず、朔方は再び侵掠を受けなくなった。鎮兵も数万人削減できた。
  • 張仁愿は城に甕城や防御施設を置かなかった。理由を問われると、「兵は進撃を尊び、退いて守るのは下策だ。敵が来たら全力で出戦すべきで、城を振り返る者は斬ってよい。退却心を生む守備設備は不要だ」と答えた。後に常元楷が甕城を築くと、世人は張仁愿を重く見て常元楷を軽んじた。

四月 修文館の拡充

  • 癸未、修文館に大学士四人・直学士八人・学士十二人を置き、公卿以下から文才ある者を選んで李嶠らに任じた。
  • 中宗が禁苑に遊んだり宗戚と宴を開いたりするたびに学士は必ず従い、詩を作って唱和した。上官昭容が優劣を評定し、優れた者には金帛を賜った。
  • 宴に常時参加できたのは中書・門下の宰相格と、常参の王公・親貴ら少数に限られ、大宴の時のみ八座・九列および諸司五品以上が加わった。
  • この結果、天下ではこぞって華麗な文章を尊ぶ風潮が広まり、儒学・忠諫に秀でた人物は出世しにくくなった。

秋七月 仏寺造営と斜封官

  • 癸巳、張仁愿は同中書門下三品となった。
  • 甲午、清源尉の呂元泰は、辺境が安定せず兵士も輸送も疲弊しているのに、仏寺の建立が日増しに広がって人民を疲れさせていると上疏した。黄帝・堯舜以来の聖王は倹約と仁義によって名を残したのであり、造寺費用を辺境防衛に回すのが真の慈悲だと論じたが、中宗は取り上げなかった。
  • この頃、安楽公主・長寧公主・郕国夫人・上官婕妤、その母鄭氏、尚宮の柴氏・賀婁氏、女巫の第五英児、隴西夫人趙氏らが権勢を背景に請託や賄賂を受け、官人任命に介入していた。
  • たとえ屠者や商人、奴婢のような身分の者でも、三十万銭を出せば墨書の特勅で官を得られ、その文書が斜めに封じられて中書省へ回るため「斜封官」と呼ばれた。三万銭を出せば僧尼にもなれた。
  • 員外・同正・試・摂・検校・判・知など、正規外・兼務名目の官が数千人に及び、西京・東都にはそれぞれ二人ずつ吏部侍郎を置いて四銓とし、毎年数万人を選んだ。
  • 上官婕妤ら後宮の女性は外宅を多く持ち、出入りも節度を欠いた。朝士たちもそこに出入りして取り入り、進達を求めた。
  • 安楽公主は特に驕慢で、宰相以下がその門に出入りした。長寧公主と張り合って豪奢な邸宅を築き、宮殿になぞらえたうえ、工巧の面ではむしろ上回った。
  • 安楽公主は昆明池を求めたが、そこが百姓の漁労資源であるとして許されなかったため、別に民田を奪って「定昆池」を造った。数里にわたり、石で華山を模し、水で天河を模した。
  • さらに一億銭の価値があるという織成裙を持ち、その模様は見る角度や光で色が変わる精巧なものだった。中宗が撃毬を好んだため、駙馬の武崇訓・楊慎交は油を撒いて球場を固め、奢侈の風がますます広がった。

辛替否の諫奏と李朝隠

  • 左拾遺の辛替否は、官職増設・売官・公主たちの奢侈と民力の搾取、仏寺造営の弊害を厳しく論じた。
  • 特に、公主たちの行為は民の怨みを招き、辺境の兵や朝廷の士が力を尽くさなくなる原因になると警告した。また、寺院を建てても国家経営の根本にはならず、いざ乱や飢饉が来れば僧や塔は役に立たないと述べた。
  • しかしこの上疏も聞き入れられなかった。
  • 斜封官は両省を通さずに任命され、両省も異議を唱えられなかった。吏部員外郎の李朝隠だけは前後千四百余人の任命を差し戻し、怨みを買ったが、少しも気にかけなかった。

冬十月 武平一の上表

  • 己酉、修文館直学士で起居舍人の武平一は、外戚の権勢を抑えるよう上表した。韋氏を名指しはしなかったが、自家も含めて親族の権勢を削ぐよう求めた。
  • 中宗は丁重な詔で応じたが、許さなかった。武平一は武承嗣らの一族で、名を甄といい字で通っていた。

十一月 突騎施の娑葛が叛く

  • 庚申、突騎施の酋長・娑葛は自立して可汗となり、唐の使者である御史中丞の馮嘉賓を殺し、その弟の遮努らに兵を率いさせて辺境を侵させた。
  • もと娑葛が烏質勒の後を継いで部衆を統べると、旧将の闕啜忠節は服さず、双方はたびたび戦った。忠節は劣勢となり、郭元振は忠節を入朝させて宿衛にあてようとした。
  • ところが経略使の周以悌は、忠節に対し「国家が厚遇するのは部衆を持つからであり、単身入朝すればただの老胡にすぎない」と説き、宗楚客・紀処訥に賄賂を贈って留任し、安西兵や吐蕃を借りて娑葛を討ち、阿史那献を可汗に立てて十姓を招撫し、さらに郭虔瓘に㧞汗那兵を動員させる策を授けた。
  • 郭元振は、吐蕃はもともと十姓四鎮を狙っており、忠節が吐蕃を引き入れれば四鎮が危うくなると警告した。また、阿史那献のような可汗子孫を立てても人望がなく、㧞汗那兵の動員も失敗してさらなる後患を招くだけだと論じた。
  • しかし宗楚客らは従わず、馮嘉賓を派遣して忠節を安撫させ、呂守素に四鎮の処置を命じ、牛師奨を安西副都護として甘州・涼州以西の兵と吐蕃兵を徴して娑葛討伐に向かわせた。
  • 娑葛は、京師にいた使者・娑臘からこの計画を聞き、急ぎ帰らせて報告を受けると、西安・撥換・焉耆・疎勒の四方面から各五千騎を出して侵攻した。
  • 郭元振は疎勒で河口に柵を築いて動けず、忠節は計舒河口で馮嘉賓を迎えたところを襲われて生け捕られた。馮嘉賓は殺され、呂守素は僻城で捕らえられて柱に縛られ、体を裂かれて殺された。

安楽公主の再婚

  • 安楽公主を左衛中郎将の武延秀に再嫁させるにあたり、中宗は嵩山にいた武攸緒を召した。武攸緒は入朝しても礼を特別扱いさせず、通常の臣礼を尽くしたので、中宗が準備していた「道を問う特別礼」は成り立たなかった。
  • 武延秀は姿容に優れ歌舞にも巧みで、以前から安楽公主に気に入られていた。武崇訓の死後、公主はついに武延秀に嫁いだ。
  • 己卯に婚礼が行われ、皇后の儀仗まで貸し与えられ、禁兵を分けて護衛させ、安国相王が障車役を務めた。
  • 庚辰に大赦し、武延秀を太常卿兼右衛将軍に任じた。辛巳、群臣を両儀殿で宴し、公主自ら公卿に拝礼させると、公卿たちは地に伏して拝した。

突騎施戦線の崩壊

  • 癸未、牛師奨は火焼城で娑葛と戦って敗死し、娑葛はそのまま安西を陥落させ、四鎮への道路を遮断した。
  • 娑葛はさらに使者を送って上表し、争いの原因は宗楚客が闕啜忠節の賄賂を受けて自分の部族を滅ぼそうとしたことにあると述べ、宗楚客の首を求めた。
  • 宗楚客は郭元振を召還して罪に問おうとし、代わりに周以悌を派遣し、阿史那献を十四姓可汗に立てて焉耆に軍を置き、娑葛を討つと奏した。
  • 娑葛は郭元振に書を送り、自分はもともと唐と敵対しておらず、仇は忠節と宗楚客だと訴え、史献まで来ればさらに騒乱が続くので、大使を派遣して協議してほしいと願った。
  • 郭元振がこの書を上奏すると、宗楚客は怒って郭元振に異志があると讒した。だが郭元振は子の郭鴻に間道から状況を奏させ、自分は西方が未だ安定しないので帰京できないと請うた。
  • 周以悌はついに白州へ流され、郭元振が再びその任に復した。朝廷は娑葛を赦して十四姓可汗に冊立した。
  • この年、上官婕妤は昭容となった。

十二月 奏事の整理と除夜の戯れ

  • 御史中丞の姚廷筠は、諸司が法令に従わず、些細なことまでいちいち上奏して裁可を仰ぐため政務が滞るとし、軍国大事や法に明文のない場合のみ奏上させ、それ以外は各司で法に従って処分させるよう奏請した。中宗はこれに従った。
  • 丁巳の晦日、中宗は中書・門下・学士・諸王・駙馬を閤内に入れて守歳の宴を開き、庭に篝火を焚いて酒宴音楽を催した。
  • 酒が回ると、中宗は御史大夫の竇従一に「久しく伴侶がいないと聞く。今夜、朕が婚礼を整えてやろう」と言い出した。
  • やがて扇の後ろから礼服姿の女が現れ、中宗は竇従一に却扇詩を詠ませた。扇が取り払われると、それは皇后の老いた乳母・王氏であった。中宗は大笑いし、王氏を莒国夫人に封じて竇従一の妻にした。
  • 世間では乳母の婿を「阿㸙」と呼んだため、竇従一は表文などでも自らを「翊聖皇后阿㸙」と称し、人々は彼を「国㸙」とあだ名した。