資治通鑑唐紀 中宗大和大聖大昭孝皇帝 神龍 二年 706年

正月:新たな宰相人事

  • 戊戌、吏部尚書の李嶠が同中書門下三品となり、中書侍郎の于惟謙も同平章事となった。

閏正月:公主府の拡大と五王排斥の始動

  • 丙午、太平・長寧・安楽・宜城・新都・定安・金城の諸公主に、開府して官属を置くことが許された。
  • 武三思は、敬暉・桓彦範・袁恕己がなお京師にいることを恐れ、乙卯、彼らをそれぞれ滑州・洺州・豫州の刺史として外に出した。
  • 閿郷の僧・万回には「法雲公」の号が与えられた。彼は観音への祈願で生まれ、万里を往復したかのような奇行で知られた人物である。
  • 甲戌、突騎施の酋長・烏質勒が懐徳郡王に封じられた。

二月:韋巨源・慧範・道士らの優遇

  • 乙未、韋巨源が同中書門下三品となり、皇后と宗族の序列を結ぶことまで許された。
  • 丙申、慧範ら僧九人に五品の位階と郡県公の爵位が与えられ、道士の史崇恩らも五品を加えられ、葉静能は金紫光禄大夫となった。
  • 左右台および内外の五品以上から二十人を選び、十道巡察使として、官吏の監察・民の撫循・賢人推薦・冤獄是正を委ねた。姜師度・馬懐素・源乾曜・盧懐慎・李傑らがこれに加わった。

三月:宰相更迭と王同皎事件

  • 甲辰、韋安石は罷免されて戸部尚書となり、蘇瓌が侍中、西京留守の唐休璟は致仕した。
  • 宋之問・宋之遜兄弟は、張易之に連座して嶺南へ流されたが逃げ帰り、駙馬都尉の王同皎の家に匿われていた。
  • 王同皎は武三思と韋皇后の専横を憎み、しばしば親しい者に不満を漏らしていた。これを簾の下で聞いた宋之遜は、子の曇と甥の李悛を使って武三思に密告し、自分の罪を購おうとした。
  • 武三思は、王同皎が張仲之・祖延慶・周憬らと壮士を集め、自分を殺して皇后を廃しようとしたと上表させた。中宗は李承嘉・姚紹之に取り調べを命じ、楊再思・李嶠・韋巨源にも照合させた。
  • 張仲之は武三思の罪状を訴えたが、楊再思・韋巨源は聞こえぬふりをし、李嶠と姚紹之は仲之を縛って獄へ送った。仲之は打たれて腕を折られながらも、死後に天へ訴えると言い残した。
  • 庚戌、王同皎らは斬られ、家産は没収された。周憬は比干廟に逃げ込み、自らの忠義を訴えてから自刎した。
  • 宋之問・宋之遜・宋曇・李悛・冉祖雍ら告発者は京官に起用され、朝散大夫を加えられた。

三月:五王派の再左遷と官制の膨張

  • 武三思はなおも敬暉らを讒言し続け、敬暉を朗州、崔玄暐を均州、桓彦範を亳州、袁恕己を郢州へ左遷した。
  • 五王と共に立功した者も党与として次々に貶められた。
  • 京官・外州を通じて員外官が二千人余も増置され、宦官にも七品以上の員外官が千人近く与えられた。
  • 魏元忠は端州から帰って宰相となったが、もはや強く諫めず、時勢に合わせるだけとなり、朝野を失望させた。
  • 袁楚客は魏元忠に書を送り、太子未立、公主開府、僧侶や宦官の跋扈、濫官、贈賄による選挙、宮女の自由な出入り、左道の者の重用など、国家の「十失」を挙げて是正を迫った。元忠は恥じて謝するのみであった。

四月:韋氏追尊と韋月将事件

  • 韋皇后の父・韋玄貞はさらに酆王と追尊され、皇后の四弟もみな郡王を贈られた。
  • 李懐遠は致仕した。
  • 処士の韋月将が、武三思は宮中と私通しており、必ず逆乱を起こすと上書した。中宗は激怒して斬刑を命じた。
  • 宋璟は真相究明を求めて強く抗弁し、「そのまま斬れば天下は必ず皇后と武三思のことを疑う」と主張した。中宗は怒って自ら側門から出るほどであったが、宋璟は自分を先に斬れとまで言って譲らなかった。
  • 蘇珦・徐堅・尹思貞も、夏に処刑するのは時令に反すると述べ、結局、韋月将は杖刑ののち嶺南へ流され、秋分を過ぎた一日の明け方に広州都督周仁軌によって斬られた。
  • 李承嘉は武三思に迎合して尹思貞を朝廷で誹り、尹思貞は「奸臣にくみして忠臣を除こうとしている」と面と向かって言い返したため、青州刺史へ出された。
  • 宋璟も武三思に憎まれ、貝州刺史へ出された。

五月~六月:五王の最終処分

  • 五月庚申、則天大聖皇后を乾陵に葬った。
  • 武三思は鄭愔を使って、敬暉・桓彦範・張柬之・袁恕己・崔玄暐が王同皎と通謀したと告発させた。
  • 六月戊寅、敬暉は崖州司馬、桓彦範は瀧州司馬、張柬之は新州司馬、袁恕己は竇州司馬、崔玄暐は白州司馬にそれぞれ流され、いずれも員外置・終身在任とされ、勲封も削られた。桓彦範には与えられていた韋姓が取り上げられ、元の桓氏へ戻された。

周仁軌の南征と韋后との結びつき

  • 韋玄貞がかつて欽州に流された際、甯承基兄弟がその娘を奪おうとして、妻の崔氏と四人の子を殺していた。
  • 中宗は周仁軌に兵二万を与えてこれを討たせた。甯承基らは海に逃げたが、周仁軌は追って斬り、その首を崔氏の墓前に供え、部衆もほぼ殲滅した。
  • 中宗は周仁軌に鎮国大将軍・五府大使を加え、汝南郡公に封じた。韋皇后は簾の内から彼に父に対するような礼を取った。
  • のちに韋皇后が敗れると、周仁軌もその党として誅された。

七月:重俊の立太子と朝廷内の不穏

  • 戊申、衛王重俊が皇太子に立てられた。
  • 太子は聡明で果断だったが、その官属には貴遊の子弟が多く、不法も多かった。左庶子の姚珽がたびたび諫めたが聞かなかった。
  • 丙寅、李嶠が中書令となった。
  • 中宗は西京への還幸を予定し、辛未、李懷遠を同中書門下三品のまま東都留守に任じた。

七月:皇太子重俊の挙兵と敗死

  • 武三思はひそかに人を使い、皇后の淫行を記した文書を天津橋に掲げさせた。中宗は激怒し、調査を命じたところ、李承嘉は敬暉ら五王がやらせたと奏して族誅を請い、安楽公主も内から五王を讒言した。
  • 大理丞の李朝隠は慎重な再審を求めたが、裴談は制書どおり処断すべきだと主張した。中宗は鉄券の約束により族誅まではせず、五王をさらに嶺南の遠地へ長流した。
  • 崔湜は武三思に、五王はいつか北帰して後患になるから矯制して殺すべきだと進言し、周利用が使者に選ばれた。
  • 周利用は道中ですでに張柬之・崔玄暐の死を確認し、桓彦範には竹の上に縛りつけて肉が骨に至るまで引きずり、最後は杖殺した。袁恕己には大量の野葛汁を飲ませ、なお死なないため撲殺した。薛季昶もついに儋州で毒死した。
  • 同じ頃、武三思・上官婉児・安楽公主らは、太子重俊を軽んじ、武崇訓はしばしば「奴」と呼んで侮辱した。安楽公主は自らを皇太女に立てるよう求め、武崇訓もこれを後押しした。
  • 辛丑、太子重俊は李多祚・李思冲・李承況・独孤禕・沙吒忠義らとともに、羽林軍三百余を動かして武三思・武崇訓父子をその邸で殺し、一族党与十余人も誅した。
  • 太子はさらに上官婉児を捕らえ、続いて韋皇后を討とうとして宮城に入ったが、中宗・韋皇后・安楽公主・上官婉児は玄武門楼へ避難した。
  • 李多祚はなお中宗からの召問を期待して攻撃をためらったが、宮闈令の楊思勗が先鋒を斬ると、太子軍は動揺した。中宗が楼上から宿衛の千騎に呼びかけると、彼らは反転して李多祚らを斬り、兵は潰走した。
  • 成王千里・天水王禧も別働して失敗し、太子は終南山に逃れたのち、従者に殺された。
  • 中宗はその首を太廟に献じ、武三思・武崇訓の柩に反祭したうえで朝堂に梟した。東宮官属は誰も遺骸に近寄らなかったが、永和県丞の甯嘉勗だけが衣でその首を包み、声を上げて哭したため、貶謫された。
  • この事件に関わった門の守備兵らも流罪となった。韋氏側はさらに大規模処罰を求めたが、鄭惟忠は大獄の再審は人心を乱すと諫め、中宗はそれ以上の拡大を止めた。
  • 楊思勗はこの功により銀青光禄大夫・行内常侍となった。

七月末~八月:武三思父子の追尊、安楽公主の専横

  • 癸卯、大赦が行われ、武三思は太尉・梁宣王、武崇訓は開府儀同三司・魯忠王と追尊された。
  • 安楽公主は、武崇訓の墓を永泰公主の例にならって「陵」とするよう求めた。給事中の盧粲は礼に反すると駁したが、中宗は「安楽は永泰と異ならない」として押し通した。盧粲が再度諫めると、陳州刺史に出された。
  • 席豫は、安楽公主を皇太女に立てようとする動きを聞いて強く憂え、立太子を求める上書をした。太平公主は彼を諫官に推薦しようとしたが、席豫はそれを恥として逃れた。
  • 八月戊寅、中宗は「応天神龍皇帝」、皇后は「順天翊聖皇后」の尊号を加えられた。玄武門は神武門、門楼は制勝楼と改称された。

八月:相王・太平公主への讒言

  • 蘇珦は重俊党の取り調べで相王の名が出た際、ひそかにその嫌疑を解き、中宗も問罪しなかった。
  • しかし安楽公主と宗楚客は日夜、相王を讒言した。冉祖雍は相王と太平公主が重俊と通謀したと誣告し、中宗は蕭至忠に取り調べを命じた。
  • 蕭至忠は泣きながら、天下を有する帝がなぜ一人の弟、一人の妹を容れられず、羅織して害そうとするのかと訴えた。相王がかつて皇嗣として天下を中宗に譲ろうとしたことも引き合いに出し、中宗は疑いを解いた。
  • 右補闕の呉兢も上疏し、相王は至親であり、国の枝葉が少なくなっている今こそ骨肉相残を慎むべきだと諫めた。

八月~九月:魏元忠の失脚

  • 魏元忠はもともと武三思の専横を憤っていたが、重俊の乱で子の魏升が太子に脅されて随従し、戦乱の中で殺された。
  • 元忠は「元凶はすでに死んだ。自分は鼎鑊にかけられてもかまわないが、ただ太子の死が惜しい」と語った。
  • 宗楚客・紀処訥らは、これを太子通謀の証拠として三族誅殺を請うたが、中宗はこれを許さず、元忠は官爵を解いて散秩で帰第したのち、丙戌、特進・斉公として致仕を許され、朔望朝参のみを認められた。

九月:景龍改元と再度の魏元忠攻撃

  • 丁卯、蕭至忠は黄門侍郎、宗楚客は左衛将軍兼太府卿、紀処訥は太府卿となり、いずれも同中書門下三品となった。于惟謙は罷めて国子祭酒となった。
  • 庚子、大赦があり、ここで改元して景龍元年となった。
  • 宗楚客らは姚廷筠を御史中丞に引き立て、魏元忠を弾劾させた。侯君集や房遺愛らの例を引いて、元忠も大逆として一族皆殺しにすべきだと主張した。
  • 中宗はある程度これに傾き、元忠は大理に繋がれたのち、渠州司馬へ左遷された。
  • 冉祖雍や楊再思・李嶠もさらに重い処分を求めたが、中宗は「軽重の権は朕にある」と不快感を示した。
  • それでも袁守一が再度、狄仁傑の監国奏請に昔元忠が反対したことまで持ち出して攻め立て、ついに元忠は務川尉へ再左遷された。
  • 中宗はなお、病中の君主に代わって皇太子に国政を見させる提案は、狄仁傑が私恩を売ろうとしただけで、元忠に落ち度はないと述べ、死刑にはしなかった。
  • 元忠は配所へ向かう途中、涪陵で死んだ。

秋冬:慧範弾劾・宦官跋扈・朔方防衛

  • 慧範は東都に聖善寺を、長楽坡に大像を造って国庫を疲弊させていた。中宗・韋皇后ともにこれを重んじ、誰も咎められなかった。
  • 戊申、侍御史の魏伝弓が慧範の巨額の不正蓄財を告発し、極刑を求めた。中宗は赦そうとしたが、伝弓は「賞が乱れている以上、刑まで及ばなければ国家は立たない」と論じ、ついに慧範は官を削られて私宅蟄居となった。
  • 安楽公主に近い宦官の薛簡らも横暴であったが、これも伝弓が糾弾した。
  • 楊再思は中書令となり、韋巨源・紀処訥は侍中となった。
  • 壬戌、左右羽林千騎は「万騎」と改称された。
  • 十月丁丑、張仁愿は朔方道大総管として突厥討伐を命じられたが、到着時にはすでに敵は退いていた。
  • 蘇安恒は奇矯を好み、重俊の乱で武三思誅殺は自分の策だと吹聴したため、告発されて戊寅に誅された。

冬十二月:贖生政策への反対

  • 乙丑朔、日食があった。
  • この年、中宗は使者を江淮へ分遣し、生き物を買い取って放す「贖生」を行わせた。
  • 中書舎人の李乂は上疏し、江南では魚鼈の採捕が民の生業であり、放生は末利を施すだけで平民の生計を損ねると指摘した。国家が人を愛するなら、むしろ救贖の費用で租税や徭役を軽くすべきだと論じた。