資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 弘道 一年 623年

春正月から三月・突厥の侵攻

  • 春正月甲午朔、高宗は奉天宮へ行幸した。
  • 二月庚午、突厥が定州を侵したが、刺史の霍王李元軌が撃退した。乙亥には媯州を再び侵した。
  • 三月庚寅、阿史那骨篤禄と阿史徳元珍が単于都護府を包囲し、司馬張行師を捕らえて殺した。勝州都督王本立と夏州都督李崇義が分道して救援に向かった。

李義琰の致仕と崔知温の死

  • 太子右庶子・同中書門下三品の李義琰は父母を改葬した際、母方の親族に旧墓を移させた。高宗は、権勢を頼んで舅家を圧迫する者に政務を任せられないと怒った。
  • 義琰は不安になり、足の病を理由に引退を願った。庚子、銀青光禄大夫の散位を与えられて致仕した。
  • 癸丑、守中書令の崔知温が死去した。「守」は散官位より職事官が一階高い場合の称号で、逆に職事官が低い場合は「行」といい、二つの職事を兼ねる「兼」とは読みを異にした。咸亨二年以後、この用法が整理された。

夏四月・白鉄余の宗教反乱

  • 己未、車駕は東都へ帰った。
  • 綏州の歩落稽である白鉄余は銅仏を地中に埋め、草が生えた後、仏光を見たと村人を欺いた。群衆の前で掘り出し、拝めば病が治ると宣伝した。仏像を何重もの色袋に包み、多額の布施を受けるたびに一袋ずつ外した。
  • 数年で信者を集めると反乱を企て、城平県を占拠して「光明聖皇帝」を称し、百官を置いた。綏徳・大斌二県を攻め、官吏を殺し民家を焼いた。三県はいずれも漢の膚施県方面に北魏・西魏が置いた県で、大斌の名は稽胡が文武を兼ねて帰順したことにちなむ。
  • 右武衛将軍程務挺と夏州都督王方翼が討伐し、甲申に城を落として白鉄余を捕らえ、残党を平定した。別資料には延州の稽胡、称号を光王、時期を儀鳳中とする異説があるが、実録に従う。

五月から六月・豊州存廃論

  • 五月庚寅、高宗は芳桂宮へ向かった。これは澠池県西の紫桂宮を調露二年に避暑宮、永淳元年に芳桂宮と改称したものである。合璧宮まで行ったが、大雨のため引き返した。
  • 乙巳、阿史那骨篤禄らが蔚州を襲い、刺史李思倹を殺した。豊州都督崔智辨は朝那山北で迎撃したが敗れ、捕虜となった。朝那山は豊州北方、黄河の北岸にあった。
  • 朝廷では豊州を廃し、住民を霊州・夏州へ移す案が出た。豊州司馬唐休璟は、豊州は黄河を防壁とし、秦漢以来の郡県で、耕作と牧畜に適する要地だと反対した。隋末に住民を寧州・慶州へ移したため胡族が深く侵入し、霊州・夏州が国境となったが、貞観末に再び住民を募ってようやく安定したので、今廃せば河畔を敵に渡すことになると論じた。朝廷は廃止を中止した。
  • 六月、突厥の別部が嵐州を略奪したが、偏将楊玄基が撃退した。

秋七月から冬・皇族配置と封禅中止

  • 秋七月己丑、皇孫重福を唐昌王とした。庚辰、十月に嵩山祭祀を行うと詔したが、高宗の病のため翌年正月へ延期した。
  • 甲辰、相王李輪を豫王へ移し、名を旦と改めた。
  • 中書令兼太子左庶子の薛元超は失語症となり、引退を願って許された。
  • 八月己丑、嵩山封禅のため太子を東都へ召し、唐昌王重福を京師に留め、劉仁軌を副官として守らせた。
  • 冬十月己卯、太子が東都へ着いた。癸亥、高宗は奉天宮へ行幸した。
  • 十一月丙戌、翌年の嵩山封禅を取りやめた。高宗の病が重くなったためである。

秦鳴鶴の鍼治療

  • 高宗は頭が重く、視力も衰えたため、侍医秦鳴鶴を召した。殿中省尚薬局には従六品上の侍御医四人が置かれていた。
  • 秦鳴鶴が頭部を刺して瀉血すれば治ると述べると、簾中の天后は病が治ることを望まず、天子の頭に針を刺すのは斬罪に当たると怒った。高宗は試すよう命じ、百会と脳戸の二穴を刺させた。
  • 治療後、高宗は目が明るくなったと言った。天后は額に手を当てて天の賜物だと喜び、自ら彩絹百匹を秦鳴鶴へ与えた。百会は頭頂中央、脳戸は後頭部の穴で、古い鍼灸説では脳戸への深い刺鍼は失語を招くため禁じられたが、鳴鶴はわずかに出血させて頭痛を止めたという。

監国と高宗の崩御

  • 戊戌、右武衛将軍程務挺を単于道安撫大使とし、阿史那骨篤禄らを招討させた。
  • 太子に監国を命じ、裴炎・劉景先・郭正一を東宮平章事とした。高宗は奉天宮で重態となり、宰相も謁見できなかった。
  • 丁未、東都へ帰り、百官は天津橋南で迎えた。
  • 十二月丁巳、弘道と改元して天下を赦した。高宗は則天門楼で赦令を発表しようとしたが、呼吸が苦しく馬に乗れず、民衆を殿前へ入れて宣告した。
  • その夜、裴炎を召して遺詔を授け、輔政を命じた。高宗は貞観殿で五十六歳で崩御した。遺詔では太子が柩前で即位し、軍国の大事で決し難いものは天后の裁可も得るよう命じ、万泉・芳桂・奉天などの宮を廃した。

中宗即位と皇太后の称制

  • 庚申、裴炎は、太子がまだ即位していないため勅命を出せないとして、緊急の処分は皇太后の令を中書門下から施行するよう奏請した。
  • 甲子、中宗が即位し、天后を皇太后と尊称した。政務はすべて皇太后の裁決を受けた。
  • 皇太后は、澤州刺史の韓王李元嘉らが高い身分と人望を持つことを警戒し、三公などの官を加えて慰撫した。澤州は漢の高都・端氏・泫氏方面で、西燕以後の建興郡・建州を経て隋に澤州と改められ、濩澤にちなむ名とされる。
  • 甲戌、劉仁軌を左僕射、裴炎を中書令とし、戊寅に劉景先を侍中とした。
  • 宰相が門下省で会議する場所を政事堂といったが、裴炎が中書令となると、初めて中書省へ移された。長孫無忌・房玄齢・魏徴らも、官職は異なっても門下省の政務を担当していた。
  • 壬午、王果・令狐智通・楊玄倹・郭斉宗を并州・益州・荊州・揚州の四大都督府へ分遣し、府官と協力して非常事態に備えさせた。郭正一は国子祭酒となり、政務から外れた。