資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 總章 元年 668年

春正月 劉仁軌の再出征

  • 正月壬子、右相の劉仁軌が遼東道副大総管となった。

二月 扶余城陥落

  • 二月壬午、李勣らは高句麗の扶余城を陥落させた。
  • 先に薛仁貴は金山で高句麗軍を破った勢いで、三千人だけを率いて扶余城を攻めようとした。諸将は兵少なしとして止めたが、薛仁貴は兵は数ではなく使い方次第だと言い、先鋒となって進んだ。
  • 高句麗軍と戦って大勝し、一万余を斬獲すると、そのまま扶余城を奪い取った。
  • 扶余川流域の四十余城はみな望風して服属した。

賈言忠の戦局判断

  • 侍御史の賈言忠が遼東から帰ると、高宗は戦況を尋ねた。
  • 賈言忠は、高句麗は必ず平らぐと断言した。
  • その理由として、隋煬帝が失敗したのは人心が離れていたからであり、太宗が果たせなかったのは高句麗にまだ内乱がなかったからだと述べた。
  • しかし今は高蔵が弱く、実権は権臣に奪われ、その泉蓋蘇文も死に、男建兄弟が内紛し、男生は唐に帰順して道案内も務めている。敵情を知り尽くしたうえ、唐は富強で将士も尽力しているから、乱れた高句麗を攻めれば一挙に滅ぼせるという。
  • また近年の飢饉や妖異で高句麗の人心は動揺しており、滅亡は目の前だと述べた。
  • さらに高宗が遼東諸将のうち誰が賢いかと問うと、薛仁貴の勇、龐同善の整斉、高侃の勤倹と忠果、契苾何力の沈毅と統御の才を挙げつつ、身を忘れて国家に尽くす点では李勣に及ぶ者はいないと評した。
  • 高宗は深くその言を是とした。

薛賀水・大行城

  • 泉男建は再び五万の兵を派して扶余城を救わせたが、李勣らは薛賀水でこれを迎え撃ち、大破して三万余を斬獲した。
  • その勢いで大行城を攻め落とした。

三月 改元と九成宮行幸

  • 三月庚寅、天下に大赦を行い、總章と改元した。
  • 戊寅、高宗は九成宮へ行幸した。

夏四月 彗星出現と高宗の態度

  • 四月丙辰、彗星が五車の星宿に現れた。
  • 高宗は正殿を避け、常膳を減らし、音楽も止めた。
  • 許敬宗らは、彗星が東北に現れたのは高句麗滅亡の兆しだから平常に復すべきだと奏した。
  • しかし高宗は、自分の不徳が天に責められているのに、どうして小夷のせいにできようか、しかも高句麗の百姓もまた自分の百姓であると言って許さなかった。
  • 戊辰、彗星は消えた。
  • 辛巳、楊弘武が薨じた。

八月 劉仁願の処分

  • 八月辛酉、卑列道行軍総管の劉仁願は、高句麗征討で進軍を遅らせた罪により、姚州へ流された。

九月 平壌陥落と高句麗滅亡

  • 九月癸巳、李勣は平壌を陥落させた。
  • 大行城を落とした後、他道に出ていた諸軍も李勣軍と合流し、鴨緑柵まで進んだ。高句麗が兵を出して拒んだが、李勣らはこれを大破し、二百余里追撃して辱夷城を奪った。
  • 諸城は逃亡・降伏が相次いだ。
  • 契苾何力が先に平壌城下へ着き、李勣の本軍も続いて平壌を一か月余り包囲した。
  • 高句麗王高蔵は泉男産に首領九十八人を率いさせ、白旗を持って李勣のもとへ降らせた。李勣は礼をもってこれを遇した。
  • なお泉男建は閉門して抵抗し、しばしば兵を出して戦ったが、いずれも敗れた。
  • 男建は軍事を僧の信誠に委ねていたが、信誠はひそかに李勣に内応を申し出た。
  • 五日後、信誠は城門を開き、李勣は兵を入れて城を焼き立て、男建は自刺したが死にきれず捕えられた。
  • こうして高句麗は完全に平定された。

冬十月 不死薬の献上と郝處俊の諫止

  • 十月戊午、烏荼国出身の婆羅門僧・盧迦逸多が懐化大将軍に任じられた。
  • 彼は不死の薬を合成できると称し、高宗はこれを服そうと考えた。
  • これに対し東臺侍郎の郝處俊は、寿命の長短は天命であって薬で延ばせるものではなく、太宗末年に那羅邇娑婆寐の薬を服しても効果がなく、危篤の際には医者も手がなかった、議者はその薬に責任を帰そうとしたが、外国の笑いものになるのを恐れてやめた前例もあると諫めた。
  • 高宗はこれに従って服薬を思いとどまった。

凱旋と献俘

  • 李勣の帰還に際し、高宗は、まず高蔵らを昭陵に献じ、軍容を整えて凱歌を奏しつつ京へ入り、その後太廟へも献ずるよう命じた。

十二月 含元殿受俘と安東都護府

  • 十二月丁巳、高宗は含元殿で俘虜を受けた。
  • 高蔵については、政治が彼自身の意思で行われていたわけではないとして赦し、工部尚書相当の司平太常伯の員外同正に任じた。
  • 泉男産は司宰少卿、僧信誠は銀青光禄大夫、泉男生は右衛大将軍に任じられた。李勣以下も差等を設けて賞された。
  • 泉男建は黔中へ流され、扶余豊は嶺南へ流された。
  • 朝廷は高句麗の旧五部・百七十六城・六十九万余戸を、九都督府・四十二州・百県に分け、平壌に安東都護府を置いてこれを統轄させた。
  • 功のあった酋帥は都督・刺史・県令に抜擢し、漢人とともに統治させた。
  • 薛仁貴を検校安東都護とし、二万の兵で鎮撫にあたらせた。

南郊・太廟と太子の奏請

  • 丁卯、高宗は南郊において高句麗平定を告げ、李勣を亜献とした。
  • 己巳、太廟を拝した。
  • この頃、征遼軍の逃亡兵について、期限内に自首しない者や自首後に再逃亡した者は本人を斬り、妻子を籍没する厳令があった。
  • 太子は上表し、逃亡とされる者の中には、病気で部隊に遅れた者、恐怖から逃げた者、樵採中に賊に掠われた者、渡海中に漂没した者、敵地深く入って殺傷された者なども多いはずだと述べた。
  • 軍中では取調べる余裕がなく、隊司の報告だけで機械的に「逃亡」とされ、妻子まで官没になるのは実情にあわず哀れだとして、「不辜を殺すよりは、法に外れてでも救う方がよい」との古語を引き、逃亡者家族の籍没免除を願った。
  • 高宗はこれを許した。

宰相人事と飢饉

  • 甲戌、姜恪が左相を検校し、閻立本が右相を守した。
  • この年、京師・山東・江淮で旱魃と飢饉が起きた。