資治通鑑唐紀 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 乾封 元年 666年
春正月 泰山封禅
- 正月戊辰朔、高宗は泰山南麓で昊天上帝を祀った。
- 己巳、泰山に登って玉牒を封じ、上帝の冊を玉匱に、配帝の冊を金匱に納め、金縄と金泥で封じ、玉璽で印し、石室に蔵した。
- 庚午、社首山に降りて皇地祇を祀った。高宗の初献が終わると、執事官はみな退き、宦官が帷を執って皇后を壇上へ導き、亜献を行わせた。帷幕は錦繍で飾られ、酒や祭器の進奉、登歌には宮人が用いられた。
朝賀・大赦・改元
- 壬申、高宗は朝覲壇に御して朝賀を受け、天下に大赦を行い、乾封と改元した。
- 文武官の三品以上には爵一等、四品以下には官階一級を加えた。
- これ以前、官階は勤務実績や勲功でのみ進んでいたが、この時から広く一律加階が行われるようになり、後年には緋服の者が朝廷にあふれる一因となった。
李義府の死
- 大赦の際、長流罪人だけは帰還を許されなかった。
- そのころ、巂州へ流されていた李義府は憂憤から病を発し、死んだ。
- 朝士たちは彼が再び朝廷へ戻るのではと日々心配していたため、その死を聞いてようやく安堵した。
曲阜・亳州の巡礼
- 丙戌、車駕は泰山を発ち、辛卯に曲阜へ着いた。
- 高宗は孔子に太師を追贈し、少牢をもって祭った。
- 癸未、亳州に至って老君廟を拝し、老子に「太上玄元皇帝」の尊号を贈った。
- 丁丑、東都に到着して六日滞在し、甲申には合璧宮へ赴いた。
夏四月 帰京と陸敦信の退任
- 四月甲辰、京師に還り、太廟を拝した。
- 庚戌、陸敦信は老病を理由に職を辞し、国子祭酒として左侍極のみを兼ね、政事から退いた。
五月 乾封泉宝の鋳造
- 五月庚寅、乾封泉宝を鋳造し、一枚で旧銭十枚に当てるとした。およそ一年のうちに旧銭を廃止する予定であった。
高句麗の内紛
- 高句麗では泉蓋蘇文が死に、長子の男生が莫離支となった。
- 男生は国政を掌ったのち、諸城を巡察するため外出し、留守政務を弟の男建・男産に委ねた。
- すると周囲の者が、男生は弟たちの勢力を嫌って先に除こうとしている、逆に男建・男産は兄が帰れば権力を奪うつもりだと言って、双方に猜疑を吹き込んだ。
- 男生はひそかに腹心を平壌へやって様子を探らせたが、二弟はこれを捕え、王命を称して男生を召し返した。
- 男生は恐れて帰らず、男建が自ら莫離支を称して兵を発し、男生を討とうとしたため、男生は別城にこもり、子の献誠を唐へ送って援軍を求めた。
六月 唐の高句麗討伐準備
- 六月壬寅、契苾何力が遼東道安撫大使となって兵を率い、男生救援へ向かった。献誠は右武衛将軍に任じられ、道案内役となった。
- また、龐同善・高侃も行軍総管として出征した。
七月 旭輪の改封と劉仁軌の入相
- 七月乙丑朔、殷王旭輪は豫王に移された。
- 劉仁軌は大司憲・検校太子左中護から右相へ進んだ。
劉仁軌と袁異式の旧怨
- 劉仁軌はもと給事中で、畢正義事件の調査を行ったことから李義府に恨まれ、青州刺史へ出されていた。
- 百済遠征の際、海が荒れていて出航に適さない中で、李義府は劉仁軌に無理に糧運を命じ、遭難して船が失われ多くの人夫が溺死した。
- 監察御史の袁異式が取り調べに来ると、李義府は彼に「事を処理できれば官に困ることはない」と口添えした。
- 袁異式は劉仁軌に「朝廷に誰を仇とするのか、早く身の処し方を考えよ」と迫ったが、劉仁軌は、自分に罪があるなら法で殺せばよく、私怨を喜ばせるような自殺はしないと答え、きちんと獄書を作って上奏した。
- 袁異式は、劉仁軌が後に獄から抜け出せぬよう、自らその錠をいじって出発した。
- 李義府は斬刑を求めたが、源直心が海難は人力では防げないと弁護したため、劉仁軌は除名のうえ白衣で従軍し功を立てる道を与えられた。
- 後に李義府は劉仁願に示唆して劉仁軌を殺させようとしたが、劉仁願は応じなかった。
- いま劉仁軌が大司憲から宰相となると、袁異式は恐れたが、劉仁軌は酒杯を掲げて、もし昔のことを根に持っているならこの杯のようにする、と誓って恨みを示さなかった。
- そののち袁異式が詹事丞へ移されると、世論は不満を漏らしたが、劉仁軌はかえって彼を司元大夫に推薦した。杜易簡は、これは矯枉過正だと評した。
八月 竇德玄の死と武后一族の粛清
- 八月辛丑、左相を検校していた竇德玄が薨じた。
- ここで武后の一族内の怨恨が表面化した。武士彠は前妻の相里氏との間に元慶・元爽を、楊氏との間に三女をもうけ、次女が現在の皇后であった。
- 武士彠の死後、元慶・元爽や従兄の惟良・懐運らは楊氏に礼を尽くさず、楊氏は深く恨んでいた。
- 皇后が立つと、楊氏は栄国夫人、その娘の賀蘭氏は韓国夫人となり、惟良らも皇后の縁故によって昇進した。
- ある宴席で栄国夫人が惟良らに、昔に比べて今の栄達をどう思うかと問うと、彼らは自分たちは功臣の子弟として仕官したのであり、皇后の縁による恩遇はかえって恐ろしいだけで栄誉とは思わぬと答えた。
- 栄国夫人は不快に思い、皇后は表向きは謙抑を装いながら、内心では彼らを憎んで遠州刺史へ出すよう請願した。
- その結果、惟良は始州、元慶は龍州、元爽は濠州へ左遷された。元慶は赴任先で憂死し、元爽はのちに罪を得て振州へ流され、その地で死んだ。
韓国夫人の娘の死と惟良・懐運の誅殺
- 韓国夫人とその娘は、皇后の縁故で禁中へ出入りし、高宗の寵愛を受けた。韓国夫人は早くに死に、その娘は魏国夫人の号を賜った。
- 高宗は魏国夫人を内職に置こうと考えたが、皇后の意向をはばかってまだ決しなかった。皇后はこれを憎んだ。
- ちょうど惟良・懐運らが諸州刺史として泰山朝覲のため入京し、献食を行った。
- 皇后はひそかに毒を入れた肉醤を用意して魏国夫人に食べさせ、急死させたうえで、その罪を惟良・懐運に着せた。
- 丁未、惟良・懐運は誅殺され、その姓は蝮氏に改められた。
- 懐運の兄・懐亮の妻である善氏も、以前から栄国夫人に無礼だったため、惟良らの事件に連座して掖庭に没し、栄国夫人の意を受けた皇后により、別件を口実に棘で鞭打たれ、肉が尽き骨が見えるほどの責めを受けて死んだ。
九月 高句麗での前進
- 九月、龐同善は高句麗軍を大破し、泉男生も部衆を率いて合流した。
- 朝廷は男生を特進・遼東大都督兼平壌道安撫大使に任じ、玄菟郡公に封じた。
- 戊子、致仕していた劉祥道が薨じた。子の劉斉賢は剛直な人柄で、高宗から重んじられた。
- ある時、将軍の史興宗が晋州産の鷂を捕らせるため、斉賢を使ってはどうかと奏したが、高宗は「劉斉賢を鷂捕り扱いするのか」と叱ったという。
冬十二月 李勣の総司令官就任
- 十二月己酉、李勣が遼東道行軍大総管となり、郝處俊がその副に任じられた。龐同善・契苾何力も副大総管兼安撫大使として従来どおり従軍した。
- 水陸の諸軍総管や運糧使の竇義積・独孤卿雲・郭待封らもみな李勣の指揮下に入った。
- 河北諸州の租税はすべて遼東へ送って軍費に充てられた。
- 李勣は婿の杜懐恭にも従軍して功名を立てさせようとしたが、懐恭は貧しい、奴馬がないなどと辞退し、最後には岐陽山中に逃げ隠れた。
- その理由を人に問われると、「岳父は私を法で立てるつもりなのだ」と答えた。
- 李勣はこれを聞いて涙し、杜懐恭は疎放なところがあるからだろうとして、追及をやめた。