資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 顕慶 元年 656年

春正月 太子交代

  • 辛未、皇太子李忠は梁王・梁州刺史に落とされ、武皇后の子である代王李弘が新たに皇太子に立てられた。李弘はこの時四歳であった。
  • 李忠が廃されると、東宮の属官たちは罪に連座することを恐れて逃げ隠れし、別れの挨拶に来る者もなかった。ただ一人、右庶子の李安仁だけが李忠を見舞い、涙を流して拝辞した。李安仁は李綱の孫である。
  • 壬申、大赦があり、改元して顕慶となった。

二月〜三月 武氏一門の追尊と人事

  • 二月辛亥、武皇后の父・武士彠が司徒を追贈され、周国公に封じられた。
  • 三月、度支侍郎の杜正倫が黄門侍郎・同三品となった。

夏四月 矩州の反乱と治民の議論

  • 四月壬子、矩州の謝無霊が反乱を起こしたが、黔州都督の李子和がこれを平定した。
  • 己未、高宗が「民を養う道の要点は何か」と侍臣に問うと、来済は、統治者が農時や蚕桑を妨げず、課役を軽くすることこそ根本だと答えた。
  • そのうえで、山東で毎年数万人規模の役丁を徴発していることを問題視し、役に使えば人民は疲れ、庸銭を取れば費えが増すから、国家の必要分を除いて余分はすべて免ずべきだと進言した。高宗はこれを採用した。

六月 郊祀の変更

  • 礼官は、太祖・世祖の配祀をやめ、高祖を円丘で昊天に配し、太宗を明堂で五帝に配するよう奏上し、認められた。

秋七月〜八月 西南夷の帰附と崔敦礼の死

  • 七月乙丑、西洱蛮の酋長楊棟、顕和蛮の酋長王郎祁郎、昆棃・盤四州の酋長王伽衝らが部衆を率いて内附した。
  • 癸未、中書令崔敦礼は太子少師・同中書門下三品となった。
  • 八月丙申、崔敦礼が死去した。

八月 程知節の西突厥遠征と勝利

  • 辛丑、葱山道行軍総管の程知節が西突厥を討ち、歌邏・処月の二部を榆慕谷で大破し、千余級を斬った。
  • 副総管の周智度も、突騎施・処木昆らを咽城で破り、三万級を斬った。
  • 乙巳、龜茲王布失畢が入朝した。

李義府の獄事と王義方の弾劾

  • 李義府は寵を恃んで専権し、洛州の美しい女性・淳于氏が大理寺に拘禁されると、大理寺丞の畢正義に圧力をかけ、法を曲げて釈放させ、自分の妾にしようとした。
  • 大理卿段宝玄が不審に思って奏上し、給事中劉仁軌らが取り調べることになると、李義府は事の発覚を恐れ、畢正義を追い詰めて獄中で自殺させた。
  • 高宗はその事情を知りながら、李義府を不問に付した。
  • 侍御史の王義方はこれを弾劾しようとし、まず母に相談した。母は、王陵の母のように、忠義を尽くすなら自分は死んでも恨まないと励ました。
  • 王義方は、都の直下で六品官が権臣に殺されたに等しい、これでは生殺与奪の権が天子ではなく臣下に移る、と厳しく糾弾し、再審を請うた。
  • 朝堂で高宗の前に進み、退出しない李義府を三度叱って下がらせたうえで弾文を読み上げたが、高宗は結局、李義府を助けて処断せず、逆に王義方の言辞が不遜だとして萊州司戸に左遷した。

九月〜十二月 災害・羌の帰附・西突厥遠征の失敗

  • 九月、括州では暴風と海水の氾濫で四千余戸が流失した。
  • 十一月丙寅、生羌の酋長浪我利波らが部衆を率いて内附したため、その地に柘州・栱州が置かれた。
  • 十二月、程知節は鷹娑川で西突厥軍を破り、蘇定方が五百騎で先行して追撃し、千五百余を斬獲した。鹵獲した馬と兵器は山野に満ちるほどだった。
  • しかし副大総管の王文度は、軽進を戒め、常に方陣を組み輜重を内に置くべきだと主張したうえ、偽って別勅があると称し、程知節に代わって軍を統制した。
  • そのため軍は進撃をやめ、将兵は終日重装備のまま馬上にあって疲弊し、馬も痩せ死にした。蘇定方は、敵を討つための出兵なのに自ら守りに閉じこもっては敗れる、と程知節に王文度の拘束を勧めたが、容れられなかった。
  • 恒篤城に至ると、帰附した胡人たちに対して王文度は、どうせ唐軍が引けば再び敵に回るとして皆殺しと略奪を主張した。蘇定方は、それではこちらが賊になるだけだと反対したが、王文度は殺害を強行し、財物を分けた。蘇定方だけは受け取らなかった。
  • 帰還後、王文度は詔を偽った罪で本来死刑相当とされたが、特に除名にとどまった。程知節も追撃を怠って機会を逃した罪で、死一等を減じられて免官となった。

年末の人事と諫言

  • この年、高履行が益州長史となった。
  • 韓瑗は上疏して、褚遂良は国家のために私を忘れた忠臣であり、罪状も明らかでないまま追放されたのは不当だと訴え、先例を引いて赦免を求めた。
  • 高宗は、褚遂良の忠誠は知っているが、気性が激しく君主に逆らいがちだから責めたのだと言った。韓瑗は、褚遂良を失うのは国家の福ではないと重ねて諫めたが、受け入れられなかった。
  • また、劉洎の子が父の冤罪を訴え、李義府もこれを後押しした。近臣の多くは李義府に迎合したが、給事中の楽彦瑋だけは、もし劉洎の罪を雪げば先帝の刑罰が誤りだったことになると反対した。高宗はその言を是とし、この議は打ち切られた。