資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 永徽 六年 655年
冬十月 王皇后・蕭淑妃の廃位
- 冬十月、詔が出され、王皇后と蕭淑妃が毒殺を企てたとして庶人に落とされ、母方一族と兄弟も籍を削られて嶺南へ流された。
- 許敬宗は、王皇后の父・王仁祐が生前に受けた高位官爵の任命文書まで削除し、その子孫が恩蔭を受けられないようにすべきだと奏上し、認められた。
武氏の立后
- 乙卯、百官がそろって中宮の冊立を請うた。これを受けて高宗は、武氏は家柄も功績もあり、後宮に入ってからも才能と徳行で抜きんでていたとし、かつて先帝から自分に賜った存在であることを理由に、皇后に立てると宣した。
- 丁巳、大赦が行われた。
- この日、新皇后となる武氏は上表し、以前に韓瑗・来済が自分の立后に反対して正面から諫めたことは、国を思う忠誠によるものだから褒賞すべきだと述べた。高宗はこの上表を韓瑗らに示したが、彼らはかえって身の危険を感じ、たびたび辞職を願い出た。しかし許されなかった。
十一月 武皇后冊立
- 十一月朔丁卯、高宗は正殿に出て、司空李勣に璽綬を持たせ、武氏を正式に皇后とする冊命を行わせた。
- 同日、百官は粛義門で皇后に朝賀した。
王氏・蕭氏の最期
- 旧皇后の王氏と旧淑妃の蕭氏は、別院に幽閉されていた。高宗はなお二人を思い出し、ひそかに見に行ったところ、部屋は厳重に閉ざされ、壁に小穴を開けて食器を通すだけの扱いになっていた。
- 高宗が声をかけると、王氏は自分たちは罪人として宮女同然の身であり、以前の称号で呼ばれる筋合いはないと泣いて答えたうえ、もし旧情を思ってくれるなら、ここを「回心院」と名づけてほしいと願った。高宗は、すぐ処置すると答えた。
- これを知った武后は激怒し、王氏・蕭氏をそれぞれ杖で百回打たせ、手足を切り落として酒甕に投げ込み、「この老女どもの骨まで酔わせよ」と言った。数日後に二人は死に、さらに首もはねられた。
- 王氏は廃位の命が下ったとき、高宗の長寿を祈り、武昭儀が寵愛を受けるのは自分の運命だと言った。一方、蕭氏は武氏を激しく罵り、来世では自分が猫となり武氏が鼠となって、幾度でもその喉を噛み切りたいと呪った。このため宮中では猫を飼わなくなった。
- のちに武后は、王氏の姓を「蟒氏」、蕭氏の姓を「梟氏」と改めさせた。さらに二人の怨霊が現れると恐れ、長安を離れて洛陽にいることが多く、終生ほとんど長安へ戻らなかった。
太子廃立の議
- 己巳、許敬宗は、これまで東宮にいた李忠は生母の身分が低く、本来の正嫡ではない、今や皇后に男子が生まれた以上、枝を幹の上に置くような現状は正すべきだと説いた。
- 高宗がその理由を尋ねると、許敬宗は、皇太子は国家の根本であり、正嫡でない者を据えたままでは人心が定まらず、李忠自身も不安を抱き宗廟にとって福ではないと答えた。
- 高宗が「忠はすでに譲る意向を示している」と言うと、許敬宗は、もし本当に賢者のように譲るなら早く実行すべきだと促した。
西突厥への冊立失敗
- 西突厥の頡苾達度設がたびたび唐に援軍を求め、沙鉢羅可汗を討ちたいと願ったため、甲戌、豊州都督元礼臣が派遣され、彼を可汗に冊立することになった。
- しかし元礼臣が碎葉城に着くと、沙鉢羅が兵を出して進路を塞いだ。頡苾達度設の部衆は多くが沙鉢羅に併呑され、残余は少なく、諸部族からも支持されなかった。
- そのため元礼臣は冊立を実行できず、そのまま帰還した。
李義府の人物評
- 中書侍郎の李義府は政務に参与した。表向きは柔和で、人と話すときは愛想よく微笑んだが、実際には陰険で嫉妬深かったため、当時の人々は「笑いの中に刃がある」と評した。
- また、柔らかく見えて人を害することから、「李猫」とも呼ばれた。