資治通鑑唐紀十五 高宗天皇大聖大𢎞孝皇帝上之上 永徽 五年 前654年

春正月から三月 羌族内附と武昭儀の台頭

  • 壬戌、羌酋凍就が内附し、その地を劒州として松州都督府の羈縻州にした。
  • 三月戊午、高宗は万年宮へ行幸した。
  • 庚申、武徳の功臣屈突通ら十三人に追贈を加えたが、これは武昭儀にその父武士彠を顕彰する口実を与える意味もあった。
  • 王皇后には子がなく、蕭淑妃には寵があった。高宗が太子時代に太宗の才人武氏を見て悦び、太宗死後に感業寺へ出家していた彼女を、王皇后が蕭淑妃の寵を分けさせる意図で長髪させて後宮へ迎え入れた。
  • 武氏はへりくだって皇后に仕え、王皇后もこれを愛してしばしば美を称えたが、やがて高宗の深い寵愛を受け昭儀となった。王皇后と蕭淑妃の寵はともに衰え、二人が連携して武昭儀を讒しても、高宗は聞き入れなかった。

四月から六月 西方情勢と天災

  • 乙丑、高宗は鳳泉湯へ行幸し、乙巳に万年宮へ戻った。
  • 夏四月、大食が波斯を攻撃して波斯王伊嗣侯を殺した。王子卑路斯は吐火羅へ逃れ、吐火羅が兵を出して卑路斯を復位させたが、大食軍が去った一時のことにすぎなかった。
  • 閏月丙子、処月部の地に金満州を置いた。
  • 丁丑夜、大雨で山水が暴れ、万年宮の玄武門に押し寄せた。宿衛兵は散り散りに逃げたが、右領軍郎将薛仁貴だけは門上に登って大呼し、宮中を警戒させた。高宗は急いで高所へ避難し、寝殿にまで水が入った。溺死者は宿衛兵や麟遊の住民あわせて三千余に及んだ。
  • 壬辰、新羅女王金真徳が死に、弟の金春秋を新羅王に立てた。
  • 六月丙午、恒州で呼沱河が氾濫し、五千三百家が流失した。

六月から十月 柳奭罷免と外郭築城

  • 中書令柳奭は、王皇后の寵衰とともに内心不安となり、政事からの退きを請い、癸亥に吏部尚書へ転じた。
  • 秋七月丁酉、高宗は京師へ還った。
  • 戊戌、高宗は五品以上の官に、先帝の時は仗下での口頭奏事も退朝後の封事も絶えなかったのに、今はなぜ誰も物を言わないのかと問いただした。
  • 冬十月、雇役によって雍州で長安外郭を築かせ、わずか三十日で完成した。
  • 癸丑、雍州参軍薛景宣が、漢の恵帝が長安を築いた後に早く崩じた例を挙げて、この築城にも大きな不祥があると上封事した。于志寧らは不順の言だとして誅を請うたが、高宗は、狂妄でも封事ゆえに罪せば言路が絶えるとして赦した。

高麗と契丹・武昭儀の陰謀

  • 高麗は将安固に高麗・靺鞨兵を率いさせ契丹を撃たせたが、松漠都督李窟哥が新城でこれを大破した。
  • この年は豊作で、洛州では粟一斗二銭半、秔米一斗十一銭という安値であった。
  • 王皇后と蕭淑妃はなお武昭儀を互いに訴えたが、高宗は二人の言を信じず、昭儀のみを信用した。皇后は左右の者をうまく扱えず、母の魏国夫人柳氏と舅柳奭も六宮で礼を欠いた。武昭儀は皇后が冷遇した者に心を尽くして結び、賞賜も分け与えたので、皇后や淑妃の動静はすべて高宗に伝わった。
  • ある時、昭儀が女児を産んだ。王皇后がこれを憐れんであやした後、昭儀は密かに自らその子を扼殺し、布で覆った。高宗が来て見たとき、女児はすでに死んでいた。左右は「皇后が先ほど来ていた」と答え、高宗は皇后が自分の娘を殺したのだと激怒した。昭儀は泣きながら皇后の罪を数え立て、これを機に高宗は廃后の意を固めた。
  • ただし大臣の反対を恐れ、高宗は長孫無忌の邸に武昭儀とともに赴いて大いに飲み、無忌の愛妾の子三人に朝散大夫を授け、金宝や繒錦十車を与えて機嫌を取り、皇后無子のことをほのめかした。だが無忌は別の話に逸らし、同意しなかった。武昭儀の母楊氏も再三頼んだが、無忌は終始応じなかった。許敬宗も無忌に勧めたが、無忌は厳しく退けた。