資治通鑑唐紀十二 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之中 貞觀十七年 643年

正月:太子廃立の噂と魏徴の死

  • 正月丙寅、太宗は群臣に、外では太子に足の病があり魏王泰は聡明で遊幸にも随従しているため、早くも異議が生じ、付会する者まで出ていると語った。だが太子は歩行不能ではなく、礼では嫡子が死ねば嫡孫を立てるのであり、自分は決して庶孽をもって宗統に代えず、のぞき見の心を起こさせる源を開かないと明言した。
  • 魏徴は病篤く、太宗はたびたび使者を遣わして薬を賜い、李安儼を宿直させて病状を報告させた。さらに太子とともに自宅を訪れ、衡山公主を魏徴の子叔玉に嫁がせようとまでした。
  • 戊辰、魏徴が薨じた。百官九品以上に会葬を命じ、羽葆鼓吹を給して昭陵に陪葬させようとしたが、妻裴氏は魏徴の平生の質素に合わないとして辞退し、布車で柩を運んで葬った。太宗は苑西楼に登って遠く哭し、自ら碑文を作って書き、のちに「銅を鏡とすれば衣冠を正し、古を鏡とすれば興替を知り、人を鏡とすれば得失を知る。魏徴が没して朕は一つの鏡を失った」と嘆いた。

劉蘭成事件と残虐への批判

  • 鄠県の尉游文芝が代州都督劉蘭成の謀反を告発し、戊申、劉蘭成は腰斬に処せられた。
  • 右武候将軍丘行恭は蘭成の心肝をえぐって食った。太宗は、謀反には国の常刑があるのに、なぜそこまで残虐にするのか、もし忠孝を示したいなら太子や諸王が先に食うべきでお前の出る幕ではないと厳しく叱責した。丘行恭は恥じ入って謝罪した。

奢侈は漸進して国を滅ぼす

  • 二月壬午、太宗は褚遂良に、舜が漆器を作っただけで諫める者が十余人いたのはなぜかと尋ねた。褚遂良は、奢侈は危亡の本であり、漆器が行き過ぎれば次は金玉に及ぶ、忠臣は禍乱が形になる前の段階でその萌しを防ぐのだと答えた。太宗はこれを是とし、自分に過ちがあれば漸のうちに諫めよ、前代の帝王が「もうしてしまった」「もう許してしまった」と言って改めなかったために危亡したのだと述べた。

幼王分封の見直しと張亮

  • 皇子で都督・刺史となっている者の多くがまだ幼少だったため、褚遂良は、漢宣帝が二千石の良吏を重んじたように、まず京師で経術を学ばせ、成長後に地方へ出すべきだと上疏した。太宗はその意見を是認した。
  • 壬辰、太子詹事張亮を洛州都督に任じた。

侯君集・李安儼らと太子の陰謀の萌芽

  • 侯君集は、自ら功臣でありながら吏に下されたことを恨み、異志を抱いていた。洛州に出る張亮をそそのかし、誰が自分たちを排斥したのかと語り、反意を試した。張亮はひそかにこれを太宗に報じた。太宗は、両人とも功臣であり、軽々に獄へ下せば侯君集が服さず事態が読めないとして、ひとまず従前どおりに扱い、口外しないよう命じた。
  • 鄜州都督尉遲敬徳が致仕を願い出たため、乙巳、開府儀同三司とし、五日に一度の参朝のみを命じた。
  • 丁未、太宗は、人主には一つの心しかないのに、勇力・弁舌・諂諛・姦詐・嗜欲が四方から群がってそれを攻め、寵禄を求めるので、主君が少しでも気を緩めてその一つを受け入れれば危亡が従う、人主たることの難しさはそこにあると語った。

凌煙閣の功臣図

  • 戊申、長孫無忌・李孝恭・杜如晦・魏徴・房玄齢・高士廉・尉遲敬徳・李靖・蕭瑀・段志玄・劉弘基・屈突通・殷開山・柴紹・長孫順徳・張亮・侯君集・張公謹・程知節・虞世南・劉政会・唐儉・李世勣・秦叔宝ら二十四功臣の像を凌煙閣に描かせた。生存者は爵で、没した者は諡で記された。

齊王祐の反乱

  • 齊州都督の齊王祐は、軽躁な性格で、舅の弘智から、兄弟が多い以上、帝の崩後には自衛のため壮士が必要だと説かれた。弘智の薦める燕弘信を気に入り、陰で死士を募るようになった。
  • 太宗は諸王のもとに剛直な長史・司馬を配して過失を報告させていたが、祐は群小と親しみ狩猟を好み、長史権万紀がたびたび諫めても聞かなかった。祐が寵愛する昝君謩・梁猛彪を権万紀が弾劾して追放すると、祐は密かに呼び戻してさらに寵愛した。
  • 太宗が書で責めると、権万紀は祐に自首を勧め、自らは京師で必ず改悛すると奏した。太宗は喜んで祐の前非を数えつつ戒めの勅書を送ったが、祐は長史に売られたと激怒し、殺害を企てた。
  • 韋文振が典軍として派遣されていたが、彼もたびたび諫めて祐に嫌われた。権万紀は屋敷に土塊が落ちたのを君謩・猛彪の凶行と思い込み、彼らや祐に連座する数十人を捕えて奏聞した。劉徳威の取り調べで一定の証拠が見つかり、祐と権万紀の召還が命じられた。
  • 祐は積もる怨みから、燕弘亮ら二十余騎を差し向けて先に出発した権万紀を射殺し、韋文振も同謀を拒んだため追って殺した。続いて私に上柱国・開府などの官を授け、庫物を開いて賞を行い、民を城内へ駆り立てて甲兵・楼堞を整え、「拓東王」「拓西王」などの官まで置いた。だが吏民は妻子を捨てて夜中に縄で城を下りて逃げ続け、祐には止められなかった。
  • 三月丙辰、太宗は李世勣らに懐・洛・汴・宋・潞・滑・済・鄆・海の九州兵を発して討たせた。太宗は祐に、自分が小人を近づけるなと常に戒めてきたのはまさにこのためだと手紙を送った。
  • 李世勣本軍の到着前に、青・淄など近州の兵が先に集まった。齊府兵曹杜行敏らはひそかに祐を捕える計画を立て、反乱に与していない左右・吏民は皆これに呼応した。庚申夜、四方で鼓噪が起こると、城外にいた祐党はことごとく殺された。杜行敏らは垣を壊して侵入し、祐と燕弘亮兄弟を囲んだ。祐は室に立てこもって抵抗したが、日中まで持ちこたえられず、行敏が薪を積んで焼き払う構えを見せると降伏した。弘亮らはその場で惨殺され、祐は拘束されて齊州は平定された。
  • 乙丑、李世勣らを罷兵させた。祐は京師へ送られ、内侍省で自殺を賜った。同党のうち四十四人は誅され、その他は不問とされた。羅石頭や高君状のように祐の逆を面と向かって責めた者たちは追贈・任官された。杜行敏は巴州刺史・南陽郡公となり、反乱鎮圧に加わった者にも差等をつけて褒賞が与えられた。
  • 祐の家を調べると、記室の孫処約が以前から諫めていた文書が見つかり、太宗はこれを賞してのちに中書舍人へと取り立てた。権万紀と韋文振にも追贈と諡・爵が与えられた。

承乾・泰・元昌の対立と東宮の腐敗

  • 太子承乾は声色と畋猟を好み、奢侈な生活を送りつつ、太宗に知られることを恐れて表向きは忠孝を語り、時に涙まで流した。宮臣が諫めようとすると、あらかじめ意図を察して恭しく迎え、自責の辞を巧みに述べるため、外部には賢太子との評判が立っていた。
  • 実際には、巨大な銅鑪や大鼎を作らせ、逃亡奴を使って民間の牛馬を盗ませて煮食し、側近の下役とともに食べることもあった。突厥の言葉や服飾を好み、容貌の似た者を選んで辮髪・羊裘の格好をさせ、狼頭纛や幡旗、穹廬を設け、自分は可汗のように振る舞った。羊を集めて屠り、佩刀で肉を切って互いに食わせたり、自ら死んだ可汗を演じて部下に喪礼をまねさせるようなことまでした。将来天下を得たなら金城西で数万騎を率いて狩りをし、突厥風に髪を解いて思摩に身を委ねたいなどと豪語した。
  • 于志寧や孔穎達はたびたび諫め、太宗も二人に金帛を与えて太子を戒める助けとしたが、太子は陰で殺害を企てたものの実行できなかった。
  • 漢王元昌も不法が多く、太宗にしばしば責められて怨みを抱き、太子と親しく交わって日夜遊戯した。左右を二隊に分けて元昌と太子がそれぞれ率い、毡の甲と竹矟で戦陣ごっこをして流血者を出し、死ぬ者までいた。太子は、もし自分が天子なら苑中に万人の営を置いて漢王と分けて指揮させるのが楽しみだ、諫める者があれば数百人殺せば自然に静まるとも口走った。
  • 魏王泰は多芸多能で太宗に愛され、太子に足の病があるのを見てひそかに奪嫡の志を抱いた。身を低くして士を結び、韋挺・杜楚客らを通じて朝士と要結し、杜楚客は金をもって権貴に賂し、魏王こそ後継にふさわしいと説いた。文武の臣にはそれぞれ帰属先ができ、朋党が形成された。
  • 太子はこれに脅かされ、魏王府の典籤を装って魏王の罪悪を列挙する密告文を投じたが、犯人は捕えられなかった。

称心事件と太子の反意

  • 太子は太常の楽童である称心を寵愛し、同寝同起していた。道士の秦英・韋霊符も左道で近づいていた。太宗がこれを知って激怒し、称心らを捕えて処刑し、連座して数人が死んだうえ、太子を激しく叱責した。
  • 太子はこれを魏王泰の密告だと思い込み、称心を忘れられず、宮中に像を立てて朝夕に祭り、苑中に墓を作って私に官を贈り碑を立てた。太宗はしだいに不快感を募らせ、太子もそれを察して病を称し、数か月も朝謁しなかった。
  • その間に紇干承基ら刺客と壮士百余人をひそかに養い、魏王泰の暗殺を謀った。

侯君集らの本格的関与

  • 侯君集の娘婿で東宮千牛の賀蘭楚石を通じて、太子はしばしば侯君集を東宮へ引き入れ、自保の策を問うた。侯君集は太子の暗弱につけ込み、機を見て事を起こすことを勧め、自分の腕を示して「この手は殿下のために役立つ」と言った。さらに、魏王が寵愛されている以上、隋の勇太子のような禍を受けるかもしれないから、もし勅召があれば密かに備えよとけしかけた。太子は大いに同意した。
  • 太子は侯君集や左屯衛中郎将李安儼に厚く賂し、太宗の動静を窺って知らせさせた。李安儼はかつて隠太子のために戦って以来、太宗に忠臣とみなされ、宿衛を任されていたが、深く太子側に身を寄せた。
  • 漢王元昌も反乱を勧め、成功の暁には太宗の側近美人を褒美として求め、太子もこれを許した。洋州刺史趙節、駙馬都尉杜荷も太子に親しみ、反乱計画に加わった。彼らは腕を切って血を帛でぬぐい、その灰を酒に混ぜて飲み、生死を共にする誓いを立てた。
  • 計画では、西宮へ兵を引き入れることが狙いで、杜荷は天文異変を口実に急発すべきだと勧めた。太子が急病危篤を装えば、太宗は必ず見舞いに来るので、その時に事を決すればよいというのである。
  • また、齊王祐の反乱を聞いた太子は、自分の宮城の西壁から大内までは二十歩ほどしかなく、斉王とは比べものにならない大事を起こせると豪語した。

変事発覚の端緒

  • ところが、齊王祐の反乱を取り調べる過程で紇干承基のことが連座して現れ、承基は大理獄に繋がれ死刑相当となった。ここから太子の陰謀発覚へ向かう端緒が開かれた。