資治通鑑唐紀十 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 六年 632年
春正月 日食と獠の反乱
- 春正月朔、日食が起こった。
- 静州で獠が反乱したが、将軍の李子和がこれを討って平定した。
封禅をめぐる議論
- 文武百官は再び泰山での封禅を願い出た。太宗は、天下がよく治まり民が安んじていれば、封禅の有無で帝王の価値が決まるものではないとして、形式にこだわる必要はないと述べた。
- しかし群臣の請願はやまず、太宗も次第に実施へ傾いた。これに対し魏徵だけは強く反対した。
- 太宗が「功・徳・国内の安定・四夷の服属・豊作・瑞兆の到来の六条件はそろっているのに、なぜ不可なのか」と問うと、魏徵は、隋末の大乱からまだ民力が十分に回復しておらず、東巡すれば供奉の負担が重く、しかも伊洛以東はなお荒廃が残るので、諸外国の君長を随行させれば中原の虚弱を見せることになる、と論じた。
- さらに、褒賞や免税で費用がかさみ、百姓の労苦に見合わないとして、「虚名のために実害を受けるべきではない」と諫めた。折しも河南・河北で洪水が起こり、この計画は中止となった。
九成宮行幸への諫言
- 太宗は九成宮へ避暑に向かおうとしたが、通直散騎常侍の姚思廉が諫めた。太宗は、自分には持病があり暑さで悪化するため避暑に行くだけだと説明し、絹五十匹を与えた。
- 監察御史の馬周は上疏し、大安宮が宮城西にあって太上皇の居所としては手狭で外聞にも不足するとし、増築を求めた。また、太上皇が高齢なのに九成宮は遠く、太宗が即座に見舞えないこと、太上皇を暑中に残して自分だけ涼所に移るのは孝養の礼にかなわないことを指摘した。
- あわせて、王長通・白明達らのような楽人や、韋槃提・斛斯正止のような技能者にまで官爵を与え、士君子と並ばせるのは不当だと批判した。太宗は深くこれを受け入れた。
三師の設置
- 新しい令では三師官が置かれていなかったが、二月、詔して特に太師・太傅・太保を設けた。
三月 九成宮行幸と吐谷渾の侵攻
- 三月、太宗は九成宮へ行幸した。
- 吐谷渾が蘭州を侵したが、州兵が撃退した。
長楽公主の婚礼と魏徵
- 長楽公主が長孫沖に降嫁するにあたり、太宗は皇后所生で特に寵愛していたため、持参金や調度を永嘉長公主の倍にしようとした。
- 魏徵は、漢の明帝が皇子の分封を先帝の子と同等にしなかった故事を引き、今回の厚遇は先帝の娘との比較を乱すものだと諫めた。太宗はその意見を是とした。
- 太宗が皇后にこのことを告げると、皇后は魏徵こそ社稷の臣だと称賛し、自ら中使を遣わして金銭と絹を賜り、その正直さを励ました。
皇后の「賀」と太宗の怒り
- ある日、太宗は退朝後に「いずれ魏徵という田舎者を殺してやる」と怒った。
- 皇后は正装して庭に立ち、太宗がその理由を問うと、「臣が直言するのは君主が明らかだからです。魏徵が直臣であるのは陛下の明の証しです」と祝賀した。
- 太宗はこれを聞いて怒りを解いた。
張公謹の死
- 四月、襄州都督の張公謹が死去した。
- 翌日、太宗は外出先で喪に服して哭した。役人が「辰の日は哭を忌む」と奏上したが、太宗は「君臣は父子のようなもの。情が動くのに日を避ける必要はない」として哭礼をやめなかった。
皇族の死去
- 六月、金州刺史の酆悼王元亨が薨去した。
- 続いて江王囂も薨去した。
七月 西域情勢と高昌・焉耆
- 焉耆王の突騎支が使者を送り入貢した。
- もともと焉耆は砂漠路を通じて中国と往来していたが、隋末に閉ざされて以後は高昌経由になっていた。突騎支は旧来の砂漠路の再開を請い、太宗はこれを許した。
- これによって高昌は不満を抱き、兵を出して焉耆を襲い、大いに掠奪して去った。
丹霄殿の宴と盛衰への戒め
- 七月、三品以上の高官を丹霄殿に宴し、太宗は「隋煬帝も頡利可汗も統葉護可汗も、かつては強盛だったが皆滅んだ。われらがそれを目にしている以上、強大さを誇って慢心してはならない」と戒めた。
西突厥の内乱
- 西突厥の肆葉護可汗が薛延陀を攻めたが敗れた。
- 肆葉護は猜疑心が強く、讒言を信じて功臣の乙利可汗を殺し、諸部はみな身の危険を感じた。さらに莫賀設の子の泥孰をも疑って害そうとしたため、泥孰は焉耆へ逃れた。
- 設卑逵官と弩失畢二部が肆葉護を攻め、肆葉護は軽騎で康居へ逃れ、まもなく死んだ。人々は焉耆から泥孰を迎えて立て、これを咄陸可汗とした。
- 太宗は使者の劉善因を遣わし、咄陸に冊封を行って唐への帰属を認めた。
閏七月 魏徵の諫め方
- 閏月、近臣を宴した席で長孫無忌は、王珪と魏徵がかつて太宗の仇側にいたのに、今こうして同席しているのは不思議だと語った。
- 太宗は、二人が仕える相手に尽くしたからこそ用いたのだと述べた上で、魏徵が諫めても自分が従わないと返答しないことを問いただした。
- 魏徵は、君主が従わないのに自分が口先で応じれば、そのまま施行されてしまうので、表向きだけ同意することはできないと答えた。さらに、面従後言を戒めた舜の言葉を引き、表で従って裏で反対するのは自分の道ではないとした。
- 太宗はこれを大いに喜び、「人は魏徵を粗野だというが、自分にはかえって愛嬌があるように見える」と笑った。
虞世南の聖徳論
- 戊辰、秘書少監の虞世南が『聖徳論』を奉った。
- 太宗は手詔を与え、その称賛は過大だとしつつも、「終わりまで初めの心を保てれば伝えるに値するが、そうでなければ君が笑われるだけだ」と、自らへの戒めを語った。
九月 慶善宮の宴と尉遅敬徳
- 太宗は、誕生地である旧宅を改めた慶善宮に行幸し、近臣と宴した。
- その際、起居郎の呂才に詩へ曲をつけさせ、「功成慶善楽」と名づけた。また、童子八佾による九功舞を作らせ、破陣舞とともに奏した。
- 同州刺史の尉遅敬徳は、自分より上席に座る者がいるのを怒り、任城王道宗がなだめようとすると、道宗を殴って危うく失明させかけた。
- 太宗は宴を不快のうちに終え、敬徳に対し、かつて漢高祖が功臣を誅したことを非難してきたが、そなたがたびたび法を犯すのを見ると、韓信・彭越が処刑されたのも高祖だけの罪ではないとわかる、と厳しく戒めた。以後、敬徳は恐れて自制するようになった。
十月 帰京と頡利可汗の処遇
- 十月、車駕は京師へ帰還した。
- 太宗は太上皇に大安宮で宴を奉り、皇后と交互に飲食や衣服・調度を献じ、夜遅くまで侍した。さらに自ら輿を捧げて殿門まで送ろうとしたが、太上皇は許さず、太子に代行させた。
- そのころ、突厥の頡利可汗は失意のうちにしばしば家人と向かい合って泣き、容貌も衰えていた。太宗はこれを憐れみ、まず虢州刺史に任じて遊猟の地を与えようとしたが、頡利は赴任を願わなかったため、右衛大将軍に改めて任じた。
十一月 契苾何力の来降と陳叔達
- 契苾の酋長何力が部落六千余家を率いて沙州に来降した。詔して甘州・涼州の間に住まわせ、何力を左領軍将軍に任じた。
- 庚寅、陳叔達を礼部尚書とした。太宗は、武徳年間の直言に報いるためだと述べたが、陳叔達は、それは陛下個人のためではなく社稷のためだったと答えた。
十二月 安危の本・死囚の放還・人材登用
- 太宗が安危の根本を論じると、中書令温彦博は「常に貞観初年のようであってほしい」と願った。
- 太宗が近ごろ政治を怠っているのかと問うと、魏徵は、初年には節倹と求諫に努めていたが、最近は営繕がやや増え、諫言する者が気色をうかがうようになった点が違うと率直に述べた。太宗はこれを認めて笑った。
- 辛未、太宗は死罪の囚人を自ら取り調べ、哀れに思って一度帰宅を許し、翌秋までに再び来て刑に就くよう命じた。さらに天下の死囚にも同様の措置を広げた。
- この年、党項羌で前後して唐に帰属した者は三十万口に達した。
- 封禅を勧める声はなお続いたが、太宗は持病を理由にこれを退けた。
- また太宗は、些細なことであっても法律に沿わぬ処理が積もれば大事に至るとして、群臣に遠慮なく是正を求めた。煬帝の滅亡を念頭に、臣下には自分のために煬帝の覆轍を思え、自分もまた忠臣が殺された古例を忘れぬ、と語った。
- さらに、官に人を選ぶ際は拙速を戒め、一人の君子を用いれば君子が集まり、一人の小人を用いれば小人が競って進むと説いた。魏徵も、天下がまだ乱れているときは才を優先するが、平定後は才徳兼備でなければならないと応じた。