資治通鑑唐紀九 太宗文武大聖大廣孝皇帝上 貞觀 五年 631年

正月 僧尼道士の拝礼と大猟

  • 正月、僧尼・道士にも父母への礼拝を行わせる詔を出した。
  • 癸酉、太宗は昆明池で大猟を行い、四夷の君長もみな従った。
  • 甲戌、高昌王麴文泰と群臣に宴を賜い、丙子に還宮すると、得た獲物を自ら大安宮へ献じた。

封禅請願と太子冠礼

  • 癸未、朝集使の趙郡王李孝恭らが、四夷がみな服した今こそ封禅すべきだと上表したが、太宗は手詔で許さなかった。
  • 有司は皇太子の冠礼を二月の吉日に行うよう請い、兵備や儀仗の準備を願った。
  • 太宗は、春の農作が始まる時期なので十月に改めるべきだとした。蕭瑀が陰陽説から二月の方がよいと進言したが、太宗は、吉凶は人の行いによるもので、礼義と農時を顧みず陰陽だけで動くべきではないと退けた。

二月 京観の除去と諸王封建

  • 2月甲辰、各州にある京観は新旧を問わずすべて削平し、土を盛って墳とし、枯骨が露出しないよう命じた。
  • 己酉、皇弟元裕を鄶王とし、そのほか元名・霊蘷・元祥・元暁らを諸王に封じた。
  • 庚戌には皇子の愔を梁王、惲を郯王、貞を漢王、治を晋王、慎を申王、囂を江王、簡を代王に封じた。

四月から六月 斛薛の叛乱・被虜民の回収・李綱の死

  • 4月壬辰、代王簡が死去した。
  • 壬寅、霊州に配置していた斛薛が叛いたが、任城王道宗が追撃して破った。
  • 隋末以来、中国人が多く突厥に没していたが、突厥平定後、太宗は使者を遣わし、金帛で彼らを贖い戻した。
  • 5月乙丑、有司は男女八万口を得たと奏した。
  • 6月甲寅、太子少師李綱が死去した。かつて仕えていた周の斉王宇文憲の娘が、夫を失い子もなかったが、李綱の恩恵を厚く受けていたため、李綱の死に父礼で喪に服した。

八月 高麗使節と張藴古の冤死

  • 8月甲辰、使者を高麗へ遣わし、隋の遠征で戦死した骸骨を収葬し、祭らせた。
  • 河内の李好徳は精神を病み、妄りに妖言をなしていた。大理丞張藴古は、病によるもので法に当たらないと奏した。
  • ところが治書侍御史権万紀は、張藴古の籍が相州にあり、好徳の兄李厚徳がその地の刺史であるから、情実により庇ったのだと弾劾した。
  • 太宗は怒って張藴古を市で斬らせたが、のちにこれを悔やみ、以後、死罪は即決の詔があっても三度覆奏してから刑を執行するよう命じた。

告訐政治への魏徴の批判

  • 権万紀と侍御史李仁発は、告発と摘発をもって寵を得ていたため、大臣たちがしばしばそのために譴責を受けた。
  • 魏徴は、彼らは大体を知らぬ小人で、告げ口を直とし、讒言を忠としている、陛下も無能とは知りつつ群臣を警策するために用いているのだろうが、彼らは恩勢を借りて姦を逞しくし、弾劾する案件も多くは罪に当たらない、善を挙げることができないにしても、なぜ姦人に近づいて自ら損なうのかと諫めた。
  • 太宗は黙然として絹五百匹を賜った。
  • 後に権万紀らの姦状が露見し、いずれも罪を得た。

九月 仁寿宮改修と洛陽宮論

  • 9月、太宗は仁寿宮を修めて九成宮と改名した。
  • また洛陽宮を修理しようとしたところ、民部尚書戴胄が、乱離ののち百姓は疲れ、府庫も空虚であるから、造営を続ければ公私ともに耐えられないと上表して諫めた。
  • 太宗はこれを賞したが、なお将作大匠竇璡に工事を命じた。
  • 竇璡は池を掘り山を築き、華美な装飾を施したので、太宗はただちにこれを壊させ、竇璡を免官した。

十月 後苑猟と封建論

  • 10月丙午、太宗が後苑で兎を逐ったところ、左領軍将軍執失思力が、陛下は華夷の父母なのだから軽々しく自らを危うくしてはならないと諫めた。太宗がさらに鹿を逐おうとすると、思力は冠帯を解いて跪き、固く諫めたため、太宗はこれをやめた。
  • このころ、太宗は群臣に封建の可否を議論させた。
  • 魏徴は、封建を広く行えば卿大夫への俸禄財源が増え、重い収奪を招くうえ、京畿の租税だけでは足りず、外地の州県を封国にすれば中央経費が欠乏する、しかも燕・趙・秦・代は外夷に接し、警急時に内地の兵が迅速に赴きにくいと論じた。
  • 李百薬は、王朝の長短は天命にあり、勲戚子孫に民社を与えれば、世が改まるうちに驕って争い、人民を害するので、守令の更代の方がよいと述べた。
  • 顔師古は、諸子を王にするにしても国を大きくし過ぎず、州県を交錯させて互いに牽制させ、官属は尚書省が選び、法令外の威刑を禁じ、条式を一定すれば長久の安が図れるとした。

十一月 藩屏構想

  • 11月、皇家宗室と勲賢の臣を藩鎮に据え、その子孫に伝えさせることを原則とし、大きな故なき限り黜免しない方針が詔された。所司には、等級や条制を明確に定めて奏上するよう命じた。

十一月から十二月 朝貢・倭国・党項

  • 丁巳、林邑が五色の鸚鵡を献じた。
  • 丁卯、新羅は美女二人を献じたが、魏徴が受けるべきでないと諫めた。太宗は、林邑の鸚鵡でさえ寒さを苦しみ故国を思うのだから、まして人はなおさらだとして、鸚鵡も美女もともに使者に付して返した。
  • 倭国も使者を遣わして入貢したので、太宗は新州刺史高表仁を持節使として派遣したが、高表仁は倭王と礼を争い、詔命を宣せずに帰ってきた。
  • 12月、太僕寺丞李世南が党項の地で十六州四十七県を開いた。

死刑覆奏制の強化

  • 太宗は侍臣に、死刑はきわめて重いから三覆奏を命じたのに、有司は短時間にそれを済ませてしまう、また古えは刑人に際して君主が音楽を止め、膳を減らした、自分もふだんからそう心がけているが、まだ著令がないと語った。
  • また官司が律文だけに頼れば、情において矜恕すべき案件でも救えず、冤が尽きない恐れがあると憂えた。
  • 丁亥、死刑囚は京師では二日のうちに五度覆奏し、州県に下すものでも三度覆奏し、刑の日には尚食は酒肉を進めず、教坊と太常は音楽を止め、門下省が再検視し、法上は死に当たっても情状に酌量の余地があるものは状を録して奏聞する制度を定めた。
  • これにより救われた者は多かった。ただし悪逆の罪だけは一覆奏で執行した。

年末の政論と地方情勢

  • 己亥、朝集使の武士彠らが再び封禅を請うたが、太宗は許さなかった。
  • 壬寅、驪山温湯に幸し、戊申に還宮した。
  • 太宗は執政に対し、自分は喜怒に任せて賞罰を誤ることを恐れるから、おのおの極諫すべきであり、また自分自身も他人の諫めを受け入れねばならぬと戒めた。
  • 康国が内附を求めたが、太宗は、遠方の名目だけを求めて百姓を疲れさせるのは益がなく、いざ救援となれば万里の出兵で国家が疲弊するとして受けなかった。
  • さらに、治国は病の治療に似ており、いったん治まっても放縦すれば再発して救い難い、今は中国が安んじ四夷も服しているが、だからこそ日々慎むのだと語った。
  • 魏徴は、天下が治安なのを喜ぶより、陛下が安きに居て危うきを思うことをこそ喜ぶと応じた。
  • 太宗が獄政を論じると、魏徴は煬帝の時に于士澄が盗賊捜査で疑わしい者をみな拷問し、二千余人を斬ったが、実際に盗人だったのは五人だけで、他は平民だった話を挙げ、煬帝だけでなく臣下も忠を尽くさなかったから亡んだのだと述べた。太宗も群臣に戒めとするよう求めた。
  • この年、高州総管馮盎が入朝した後まもなく、羅・竇諸洞の獠が反した。太宗は馮盎に部落二万を率いて前鋒とさせた。
  • 獠は険阻に拠って数万で抗したが、馮盎は弩で七矢七中させて士気を挫き、敵は潰走したので追撃して千余級を斬った。太宗はその功を大いに賞した。
  • 馮盎は広大な領地と多数の奴婢・財貨を有していたが、政務には勤勉で明察があり、所部から愛された。
  • 新羅王真平が死去し、嗣子がなかったため、国人はその娘善徳を王に立てた。