資治通鑑隋紀四 煬皇帝上 大業 元年 一 605年

正月 改元と太子冊立

  • 春正月壬辰朔、天下に大赦し、元号を大業と改めた。
  • 妃の蕭氏を皇后に立てた。
  • 諸州の総管府を廃止した。
  • 丙辰、晋王楊昭を皇太子に立てた。

林邑遠征の開始

  • 高祖末年、群臣の中に林邑には珍宝が多いと語る者があり、また天下が平穏で、劉方が新たに交州を平定したばかりでもあったため、煬帝は劉方を驩州道行軍総管に任じ、林邑攻略を命じた。
  • 欽州刺史甯長真らが歩騎一万余で越裳道を進み、劉方自身は大将軍張愻らを率いて舟師で比景から海口へ出た。正月のうちに軍は海口へ到達した。

二月 論功行賞と楊素の尚書令就任

  • 二月戊辰、朝廷は金宝・器物・錦綵・車馬を大々的に陳列し、漢王楊諒討伐で功のあった楊素らを前に立たせた。
  • 奇章公牛弘が詔を読み上げ、その功績を称え、各人に差等ある賜与を行った。
  • 己卯、楊素を尚書令とした。
  • 国喪中ではあるが、帝自身は浅黄の衣と鉄の帯という比較的軽い服制で過ごした。

東京建設と大土木の始動

  • 三月丁未、楊素・納言楊達・将作大匠宇文愷に命じて東京を営建させ、毎月二百万人を動員した。洛州城内の住民や、各州の富商・大賈数万戸を移して新都に住まわせた。
  • 二崤道を廃し、葼册道を開いた。崤山周辺の古道の扱いについては地理上の異説があり、胡注は詳細に考証している。
  • 戊申、帝は淮海方面を巡歴し風俗を視察すると称し、宇文愷・封徳彝らに顕仁宮を営建させた。南は皁澗に接し、北は洛水にまたがる大規模宮苑であった。
  • 江南から嶺南にかけての珍木・奇石を洛陽へ運ばせ、各地の名木・異草・珍禽・奇獣を集めて園苑を満たした。

通済渠・邗溝の開削

  • 辛亥、尚書右丞皇甫議に命じ、河南・淮北の諸郡から延べ百余万人を発して通済渠を開かせた。
  • まず西苑から穀水・洛水を引いて黄河に達し、さらに板渚から黄河を引いて滎沢を経て汴水に入れた。続いて大梁の東から汴水を泗水・淮水へ通じさせた。
  • さらに淮南の民十余万人を動員して邗溝を開き、山陽から揚子まで通して長江に入らせた。渠の幅は四十歩で、渠の脇には御道を築き、柳を植えた。長安から江都までの間に四十余所の離宮も設けた。
  • 庚申、黄門侍郎王弘らを江南に派遣し、龍舟その他の雑船数万艘を造らせた。
  • 東京の役所は工事監督を厳しく行い、役夫の四、五割が死亡した。死者を載せた車は東は城皋、西は河陽にまで道上に相望むほどであった。
  • さらに東京には天経宮を作り、四時に高祖を祭らせた。

林邑遠征の進展と勝利

  • 林邑王梵志は険要の地に兵を置いたが、劉方はこれを破って闍黎江を渡った。
  • 林邑軍は巨象を用いて四方から迫ったため、初戦では隋軍は不利となった。
  • 劉方は小さな落とし穴を多数掘って草で覆い、わざと兵を出して挑発し、偽って退いた。林邑軍が象を率いて追撃すると、多くの象が穴に落ちて転倒し、互いに驚いて陣を乱した。劉方は弩で象を射て後退させ、その勢いで精鋭を投入し、大勝した。
  • その後も連戦連勝し、馬援の銅柱より南へ八日進んで都城に至った。
  • 夏四月、梵志は城を捨てて海へ逃れ、劉方は入城して金で鋳た廟主十八体を獲、石に功績を刻んだ。だが帰途、兵士の多くは脚気様の腫れで死に、劉方自身も病没した。

李綱の失脚

  • 尚書右丞李綱は以前から楊素・蘇威と意見が合わず、楊素が高祖に推薦して劉方の行軍司馬とさせたが、劉方は楊素の意を受けて李綱をひどく辱め、危うく死ぬほどであった。
  • 帰還後も長く任用されず、蘇威はさらに李綱を南海に派遣した。久しく召されないため、李綱は自ら帰って奏事したが、蘇威はこれを職務放棄として弾劾した。赦で免官となり、鄠で閑居した。

西苑の造営と奢侈

  • 五月、西苑が築かれた。周囲二百里、その中に周十余里の海を作り、蓬莱・方丈・瀛洲の三神山に擬した人工山を築いた。高さは水上百余尺に及び、台観・殿閣が山上に張り巡らされた。
  • 北には龍鱗渠を作って海へ注がせ、渠沿いに十六院を置き、それぞれ四品夫人に主管させた。殿舎はきわめて華麗で、秋冬に樹木の葉が落ちれば彩色の造花を枝に綴って春のように見せ、池の中にも彩色の荷や芰、菱や芡を浮かべた。帝が遊幸する時は氷を除いてこれらを置いた。
  • 十六院はそれぞれ料理の豪華さを競い、帝の寵愛を求めた。帝は月夜に宮女数千騎を従えて西苑を巡り、「清夜遊曲」を馬上で奏させるのを好んだ。

諸王への猜疑

  • 帝は諸王に恩が薄く、疑いも多かった。滕王楊綸と衛王楊集は不安から術士に吉凶を占わせ、章醮を行って福を祈ったが、これが怨望・呪詛として告発された。
  • 秋七月丙午、帝は二王を除名して庶人とし、辺郡へ流した。楊綸は瓚の子、楊集は爽の子である。

秋八月 江都行幸

  • 八月壬寅、帝は江都行幸に出発した。顕仁宮を発し、王弘が造った龍舟で迎えた。
  • 乙巳、帝は小朱航で漕渠から洛口へ出て、そこから龍舟に乗った。龍舟は四重で、高さ四十五尺、長さ二百丈。上層に正殿・内殿・東西朝堂、中二層に百二十室、最下層に内侍を置いた。金玉で飾られ、皇后の翔螭舟もほぼ同様であった。
  • 浮景などの大型水殿船九艘のほか、漾彩・朱鳥・蒼螭・白虎・玄武など名づけられた船が数千艘あり、後宮、諸王、公主、百官、僧尼、道士、蕃客まで乗せた。
  • これらを曳く挽船士は八万余、さらに主要船を曳く者九千余は錦綵の袍を着て「殿脚」と呼ばれた。別に兵船数千艘もあり、十二衛の兵が乗り、兵器・帳幕も積んだ。船列は二百余里に及び、陸上の騎兵が両岸を護衛した。
  • 通過する州県には、五百里以内から食物の献上が命じられ、多い州では百台にもなった。珍味は後宮に食べ飽きられ、出発間際には多くが捨て埋められた。

契丹討伐

  • 契丹が営州に侵入すると、帝は通事謁者韋雲起に命じ、突厥兵を率いて討たせた。啓民可汗は騎兵二万を出してその指揮に従わせた。
  • 韋雲起は二十営に分けて四道から進ませ、鼓で進軍、角で停止を命じ、公務以外の騎走も禁じた。命令違反の紇干を斬ってその首を示すと、突厥の将帥は戦慄して膝行し、顔を上げられなかった。
  • 契丹はもともと突厥に服属し、猜疑を抱いていなかった。雲起は、柳城へ高麗との交易に向かうと偽らせ、情報漏洩を禁じたうえで、営から五十里の地点から急襲した。男女四万人を捕らえ、男子は殺し、女子と家畜の半分を突厥に与え、残りを収めて帰った。
  • 帝はこれを喜び、韋雲起を治書侍御史に抜擢した。

西突厥・鉄勒の動向

  • 西突厥では、阿波可汗が葉護可汗に捕らえられた後、鞅素特勒の子が立って泥利可汗となり、その後は子の達漫が処羅可汗となっていた。母の向氏は中国出身で、のち婆実特勒に再嫁し、開皇末に長安へ来たまま留め置かれていた。
  • 処羅可汗は烏孫故地に拠ったが、統治を誤って民心を失い、鉄勒にも圧迫された。鉄勒は匈奴の後裔で、僕骨・同羅・契苾・薛延陀など多くの部族からなり、統一君主を持たず東西突厥に分属していた。
  • この年、処羅が鉄勒諸部に重税を課し、さらに薛延陀などを疑って酋長数百人を殺したため、鉄勒は一斉に離反した。
  • 契苾歌楞が莫何可汗、薛延陀の咥が小可汗に推戴され、処羅と戦ってたびたび破った。莫何は勇毅に優れ、周辺諸国もこれを恐れ、伊吾・高昌・焉耆もこれに服した。