資治通鑑陳紀十 長城公下 至徳四年 586年

正月から二月 党項・突厥・隋の制度

  • 甲子、党項羌が隋への降伏を願い出た。
  • 庚午、隋は突厥に暦を頒った。これは正朔を受けさせる意味を持った。
  • 二月、隋は刺史の上佐たる長史・司馬を年末ごとに入朝させ、考課を行うこととした。
  • 丁亥、隋は崔仲方に再び十五万人を発して、朔方以東の険要に沿って数十城を築かせた。

陳の諸王封建と隋の大赦

  • 丙申、陳は皇弟の叔謨を巴東王、叔顕を臨江王、叔坦を新会王、叔隆を新寧王に立てた。
  • 庚子、隋は大赦を行った。

三月から四月 隋主の辞譲と陳の外交

  • 三月己未、洛陽の男子高徳が、隋主に太上皇となって皇太子へ譲位するよう上書した。
  • これに対し隋主は、自分は天命を受けて人民を養う身であり、なお日々励んでも及ばぬことを恐れているのに、近代の帝王のように子に位を譲って逸楽を求めることなどしないと退けた。
  • 夏四月己亥、陳は周磻らを隋へ派遣した。

会稽王の立太子ならぬ立王と秋の往来

  • 三月丁巳、皇子荘を会稽王に立てた。
  • 秋八月、隋は裴豪らを陳へ派遣した。
  • 戊申、隋の申明公李穆が卒し、特別の礼をもって葬られた。

閏月から九月 梁士彦・宇文忻・劉昉の謀反

  • 閏月丁卯、隋太子勇は洛陽に鎮した。
  • 上柱国郕公梁士彦は、かつて尉遅迥討伐で戦えば必ず勝ち、相州刺史にもなった功臣であったが、隋主はその威名を忌んで長安に召還していた。
  • 宇文忻もまた少時より隋主と親しく、用兵に長けていたが、やはり忌まれて失職していた。劉昉もまた疎遠にされ、三者は互いに往来して不満を募らせた。
  • 忻は梁士彦に蒲州で挙兵させ、自分が内応しようと図ったが、士彦の甥裴通がこれを告発した。
  • 隋主は事を隠しつつ、あえて梁士彦を晋州刺史に任じてその意を探った。士彦はこれを天の助けと喜び、薛摩児を長史に求めたので、隋主はいっそう証拠を固めた。
  • その後、朝謁の席で梁士彦・宇文忻・劉昉をその場で捕らえて問いただし、初めは否認したが、到着した薛摩児との対質で謀反の経緯が明らかになった。
  • 丙子、三人は誅殺され、一族の多くは死を免れたが除名された。
  • 九月辛巳、隋主は喪服に近い素服で射殿に臨み、百官にこの三家の資物を射させて戒めとした。

冬 隋政の勤労と諫言

  • 冬十月己酉、隋は兵部尚書楊尚希を礼部尚書に移した。
  • 隋主は毎朝政務に臨んで日が傾くまで倦まなかった。尚希は、憂勤で寿を損ねた文王、安楽で長寿を得た武王の例を引き、細務は宰輔に任せて大綱だけを執るよう諫めた。隋主はその言をよしとしたが、実際には改められなかった。
  • 癸丑、隋は山南道行台を襄州に置き、秦王俊を尚書令とした。

李文博の清議

  • 秦王俊の妃崔氏が男子を産むと、隋主は喜んで群官に賞賜した。
  • しかし直秘書内省の李文博は家が貧しかったにもかかわらず、「賞罰は功過に応じるべきで、王妃が男児を産んだことは群臣の功ではない」として受け取らなかった。これを聞いた者は恥じ入った。

陳の人事・吐谷渾の内紛

  • 癸亥、陳では江総が尚書令となり、謝伷が僕射となった。
  • 十一月己卯、大赦があった。
  • 吐谷渾の可汗夸呂は在位百年に及び、しばしば喜怒で太子を廃したり殺したりしていた。後に立てた太子はこれを恐れて夸呂を捕らえようとし、隋に兵の援助を求めた。
  • 秦州総管河間王弘は応じることを求めたが、隋主は許さなかった。太子の計画は漏れ、夸呂に殺されると、夸呂は少子の嵬王訶を新たな太子とした。
  • 疊州刺史杜粲もこの内紛に乗じて討伐を求めたが、隋主はやはり許さなかった。
  • その年、嵬王訶もまた誅殺を恐れ、一万五千戸を率いて隋に降ろうとし、迎兵を要請した。しかし隋主は、父に背き主君に叛く行いを助ければ、徳で人を教える自分の道に反するとして、使者に、まず臣子の道を守るよう教え、兵を出さなかった。
  • こうして嵬王訶は計画をやめた。