正月から三月 隋の礼制整備
- 正月戊午朔、日食があった。
- 隋主は礼部尚書牛弘に五礼の編定を命じ、百巻にまとめさせた。
- 戊辰、新礼を施行した。
- 三月戊午、隋は尚書左僕射高熲を左領軍大将軍に任じた。
豊州刺史章大宝の反乱
- 豊州刺史章大宝は章昭達の子であったが、州政は貪暴であった。朝廷は太僕卿李暈を後任として派遣した。
- 辛酉、李暈の到着を前に、章大宝はこれを襲って殺し、兵を挙げて反乱した。
- 章大宝は部将楊通を建安へ向けたが攻略できず、やがて官軍到来の前に配下は潰散し、自ら山中に逃れたものの捕らえられ、三族を誅された。
隋の王誼事件
- 隋の大司徒郢公王誼は、少年時代から隋主と親しかったうえ、その子は帝女蘭陵公主を娶っていたが、近ごろ恩礼が薄くなったことに不満を抱いていた。
- さらに図讖により自らに王者の相があると語ったと告発され、公卿は大逆不道として処断を求めた。
- 壬寅、隋主は王誼に自死を命じた。
- 戊申、隋主は洛陽から長安へ帰還した。
五月 義倉の設置
- 隋の度支尚書長孫平は、民間に毎秋、家ごとに粟麦一石以下を貧富に応じて出させ、社ごとに保管して凶年に備える制度を上奏した。
- 隋主はこれを採用し、五月甲申、初めて郡県に義倉を置くよう命じた。
戸籍整理と輸籍法
- 当時、民間には老幼を偽って申告し、賦役を逃れる者が多かった。特に山東では北斉以来の弊害で、戸口・租調の偽りが甚だしかった。
- 隋主は州県に命じて大規模な「貌閲」を行わせ、実際の容貌で年齢を確かめ、不実戸口の責任を里正・党長に負わせて遠配した。さらに大功以下の親族にも戸籍分離を命じ、隠匿を防いだ。
- その結果、新たに一百六十四万余口が戸籍に加わった。
- 高熲はさらに「輸籍法」を請い、州県の長吏が課税を出し入れしてごまかせないようにした。隋主はこれを採用し、以後、不正は大きく減少した。
- 各州の調物は、河南では潼関から、河北では蒲坂から長安へ送られ、その運送は数か月にわたり昼夜絶えなかった。
梁主の死去
- 梁主が死去し、諡を孝明皇帝、廟号を世宗とした。
- 世宗は孝慈・倹約をもって治め、国内は安定していた。
- 太子琮が後を継いだ。
突厥の東西分裂
- 先に沙鉢略可汗と不和となっていた阿波可汗は、次第に強大化し、東は都斤山に迫り、西は金山を越え、龜茲・鉄勒・伊吾および西域諸胡の多くがこれに附いた。
- こうして突厥は東西に分かれ、阿波の勢力は「西突厥」と称されるようになった。
- 隋主も上大将軍元契を阿波のもとへ派遣し、これを慰撫した。
秋冬 突厥沙鉢略の隋への服属
- 七月庚申、陳は王話らを隋に派遣した。
- 沙鉢略可汗は達頭に苦しめられ、さらに東方の契丹にも脅かされ、隋に急を告げて、部落を漠南に移し白道川に寄寓したいと願った。
- 隋主はこれを許し、晋王広に援兵を命じ、衣食と車服・鼓吹を与えた。
- 沙鉢略はこの援助を背景に西で阿波を破ったが、その隙に阿拔国が沙鉢略の妻子を掠めたため、官軍がこれを撃退し、得た捕虜と戦利をすべて沙鉢略に返した。
- 沙鉢略は大いに喜び、ついに「天に二日なく、地に二王なし」として隋主を真の皇帝と認め、永く藩属となることを表明し、子の庫合真を入朝させた。
- 八月丙戌、庫合真が長安に到着すると、隋主は、以前は二国の和睦に過ぎなかったが、今や君臣一体となったとして、郊廟に告げ、遠近に布告した。庫合真を内殿で宴し、皇后にも会わせ、厚く賞労した。
- 以後、沙鉢略からの歳時の貢献は絶えなくなった。
九月から冬 陳隋の往来と傅縡の死
- 九月、陳の将軍湛文徹が隋の和州に侵入したが、隋の費宝首に捕えられた。
- 丙子、隋の李若らが陳へ来聘した。
- 冬十月壬辰、隋は上柱国楊素を信州総管とした。これは将来の対陳用の舟師編成を意識したものであった。
- もと東宮以来の側近であった傅縡は、才能を誇り人望に乏しかったところ、施文慶・沈客卿の讒言で高麗使から黄金を受けた罪を着せられ、獄に下された。
- 傅縡は獄中から、君主は上帝を敬い民を愛し、欲を省き佞臣を遠ざけるべきだと説き、後主が酒色に溺れ、郊廟を怠り、淫祀にふけり、宦官が権を弄し、百姓が流離している現状を痛烈に批判したうえ、陳の王気が尽きようとしていると諫めた。
- 後主は激怒し、いったんは赦免の可能性も示したが、傅縡が「顔を変えられても心は変えられない」と応じたため、さらに怒って厳しく取り調べさせ、ついに獄中で死を賜った。
梁への介入と長城築造
- この年、梁の大将軍戚昕が舟師で公安を襲ったが、攻略できず撤退した。
- 隋主は梁主の叔父、太尉呉王岑を入朝させて大将軍・懐義公に封じ、そのまま帰国させなかった。
- また江陵総管を再設置して梁を監督させた。
- 梁の大将軍許世武はひそかに城をもって陳の荆州刺史宜黄侯慧紀を招こうとしたが、事が漏れて梁主に殺された。
- 隋主は司農少卿崔仲方に三万人を発して、朔方・霊武から綏州にいたる長城七百里を築かせ、胡寇を防がせた。