正月 梁主の入朝と隋の新暦
- 正月甲子、日食があった。
- 己巳、隋の主は太廟に詣で、辛未には南郊で祭祀を行った。
- 壬申、梁主が隋に入朝した。郊外での出迎えの場では、北面して隋に臣従の姿勢を示し、さらに大興殿での謁見では、諸侯としての礼に従って君臣ともに拝礼した。隋は絹一万匹と珍玩を賜った。
- 張賓・劉暉らが新しい暦法である「甲子元暦」を完成させて奏上し、壬辰にこれを頒行した。続いて癸巳、大赦があった。
二月 梁主の帰国と突厥の動き
- 乙巳、隋主は灞水のほとりで梁主を送別した。
- 突厥の蘇尼部から男女一万余りが隋に降った。
- 庚戌、隋主は隴州へ赴いた。
- 突厥の達頭可汗も隋に降る意を示した。
四月 辺境政策と賀婁子幹
- 庚子、隋は吏部尚書の虞慶則を右僕射とした。
- 隋の上大将軍賀婁子幹は五州の兵を率いて吐谷渾を攻め、男女一万余りを殺し、二十日ほどで帰還した。
- 隋主は隴西地方がしばしば侵掠されるのに、住民が集落防衛の施設を設けていないことを問題視し、賀婁子幹に命じて住民に堡を築かせ、あわせて屯田と備蓄を進めようとした。
- これに対し賀婁子幹は、隴右・河西は土地が広く人が少ないうえ、辺境も安定しておらず、広い屯田は費用倒れになりやすいとして、遠隔地の屯田廃止を上奏した。そして、この地方では牧畜中心の生活に任せ、要地の守備と烽火網を整えるほうがよいと主張した。
- 隋主はこの意見を採用し、子幹が辺情に通じているとして、丁巳に榆闗総管に任じた。
五月・六月 陳の人事と広通渠
- 五月、陳では吏部尚書の江総が僕射となった。
- 隋主は渭水の流路が砂で不安定なため、水運が妨げられていることを憂えた。
- 六月壬子、太子左庶子の宇文愷に命じて、大興城の東から潼関に至る三百余里の運河を開削させ、「広通渠」と名づけた。これにより漕運は大いに便利になり、関中はその恩恵を受けた。
秋 外交往来と隋の文風是正
- 七月丙寅、陳は謝泉らを隋へ派遣した。
- 八月壬寅、隋の鄧恭公竇熾が死去した。
- 乙卯、陳の将軍夏侯苗が隋への降伏を願ったが、隋主は両国の和睦を理由に受け入れなかった。
- 九月甲戌、関中の飢饉のため隋主は洛陽へ移った。
- 隋主は華麗な文辞を好まず、天下の公私の文書は実録を旨とすべしと命じた。泗州刺史司馬幼之の華美な上表は処罰に付された。
- 治書侍御史の李諤は、魏以来ことに江左の斉・梁で軽薄な文風が深まり、詩賦ばかりが重んじられて儒学・政治が衰えたと論じた。また、徳行ある者が埋もれ、軽薄な才芸の者が任官される現状を批判し、地方官の風教を正すこと、士大夫の虚飾と進取を戒めることを求めた。
- 隋主は李諤の前後の上奏を四方に頒布した。
突厥と隋の和親
- 突厥の沙鉢略可汗はたびたび隋に敗れたため、和親を求めた。千金公主も自ら楊氏に改姓して隋主の娘となることを願い出た。
- 隋主は徐平和を使者として送り、千金公主を「大義公主」と改封した。
- 晋王楊広はこの機に乗じて攻めることを求めたが、隋主は許さなかった。
- 沙鉢略可汗は隋主を舅とし、両国の永世の親好を誓う書を送った。隋主もこれに応じ、右僕射虞慶則を使者に立て、長孫晟を副使とした。
- 沙鉢略は当初、従来の慣習を理由に起って拝礼しようとしなかったが、慶則と長孫晟が、隋主が公主の父である以上、可汗はその婿として礼を尽くすべきだと説いた。可汗はついに起って頓首し、詔書を頭上に戴いて受けた。
- その後、可汗は臣と称することも受け入れ、慶則に馬千匹を贈り、従妹を妻として与えた。
冬十一月 隋使来聘
- 壬戌、隋主は薛道衡らを陳へ派遣した。言辞でいたずらに相争わぬよう、あらかじめ命じていた。
陳後主の奢侈と政治の乱れ
- この年、陳の後主は先昭殿前に臨春・結綺・望仙の三閣を築き、いずれも数十丈の高さで、沈檀の香木に金玉・珠翠をちりばめ、内外の装飾もきわめて豪華であった。微風が吹けば香気が数里に及んだ。
- 後主は臨春閣に住み、張貴妃は結綺閣、龔・孔二貴嬪は望仙閣に住み、複道で往来した。王・李の二美人、張・薛の二淑媛、袁昭儀、何婕好、江修容らも寵愛を受けた。
- 宮中では袁大捨ら文学のある宮女を「女学士」とし、江総・孔範・王瑳ら文士十余人を「狎客」として後庭の遊宴に侍らせた。妃嬪・女学士・狎客が互いに詩を作って応酬し、特に艶麗な作には新曲をつけ、宮女千余人に歌わせた。「玉樹後庭花」「臨春楽」などがその代表である。
- 張貴妃の名は麗華。もとは兵家の娘で、龔貴嬪の侍女から後主に見出され、太子深を生んで特に寵愛された。聡慧で人の顔色を読むのに巧みで、宮中外の情報にも通じ、後主の裁断に深く関与した。巫術や淫祀も行った。
- 後主は政務を怠り、百司の奏請は宦者蔡脱児・李善度を経て張貴妃の膝上で決することさえあった。李蔡が記しきれない案件は貴妃が整理し、漏れがなかった。
- 宦官・近習は内外で結び、縁故を引いて売官・売獄を行い、賄賂が横行した。大臣で従わぬ者は讒言で排斥された。
- 孔貴嬪・張貴妃の勢いは天下に及び、孔範は孔貴嬪と兄妹同然に結びついて権勢を振るった。後主が過失を嫌うため、孔範はいつもそれを粉飾し、美辞で飾ってさらに寵を受けた。
- 中書舎人施文慶は事務に明敏で、沈客卿・陽恵朗・徐哲・暨慧景らを推挙した。客卿は中書舎人となり、金帛局も兼ねた。
- 宮室造営などで財政が窮すると、沈客卿は従来免除されていた兵士・士人にも関市税を課し、さらに旧税を増徴した。陽恵朗を太市令、暨慧景を尚書金倉都令史とし、苛細な徴収を進めたため、民は深く苦しんだ。だが歳入は常格の数十倍にのぼり、後主はこれを喜んだ。
- 後主は施文慶を「人を知る」と称していっそう重用し、政事は彼らに委ねられた。互いに引き立て合って高官に列する者が続出した。
- 孔範は外征の将たちを軽んじ、文臣の方が優れると主張した。施文慶や司馬申もこれに同調したため、以後は武将にわずかな失敗があると兵権を奪って文吏に分け与えた。任忠の部曲を孔範や蔡徴に配することさえあり、文武の秩序は崩壊し、のちの亡国の因となった。