正月・改元と叔堅左遷
- 正月庚子、隋は新都への移転に伴って大赦を行った。
- 壬寅、陳も大赦を行い、年号を至徳と改めた。
- 後主は傷病中、政務の大小を長沙王叔堅に委ねていたが、叔堅は次第に驕慢になった。都官尚書孔範と中書舍人施文慶は叔堅を憎み、日夜その短所を告げたため、後主は叔堅を本号の驃騎将軍・三司儀同のまま江州刺史へ出し、権力中枢から遠ざけた。
- 祠部尚書江総は吏部尚書となり、癸卯には皇子深が始安王に立てられた。
二月・陳宣帝の葬送と司馬申の専横
- 二月己巳朔、日食があった。
- 癸酉、陳は賀徹らを隋へ派遣した。
- 癸巳、宣帝が顕寧陵に葬られ、廟号を高宗とした。
- 右衛将軍・中書通事舍人の司馬申は機密を掌握して権勢を振るい、讒言によって人事を左右した。彼に逆らう者は微罪でも中傷され、従う者は機会を得て引き立てられたため、朝廷の内外は彼の風に靡いた。
毛喜排斥
- 後主は侍中・吏部尚書の毛喜を僕射にしようとしたが、司馬申は、毛喜が先帝時代に後主の酒癖を「酒徳」と言って諫め、宮臣追放まで求めたことを持ち出して妨害した。後主はこれを聞いて任用をやめた。
- 後主が創傷快癒を祝って酒宴を開き、江総らに音楽・賦詩を命じた際、毛喜も召された。陵墓造営が終わったばかりであることから、毛喜はこれを不快に思い、諫めようとしたが、後主が酔っていたため、わざと病に見せかけて階下に倒れ、省中へ運び出された。
- 後主は目覚めた後、毛喜が歓宴を妨げたと怒り、鄱陽王兄弟に引き渡して復讐させたいとまで言ったが、傅縡が、それでは先帝をどこに置くのかと諫めた。結局、毛喜は永嘉内史へ左遷されるにとどまった。
三月・隋の新都遷都と典籍蒐集
- 三月丙辰、隋は新都へ遷った。
- 隋は成年年齢を二十一歳とし、力役を軽減して、毎年十二番・二十日役とし、絹の調も一匹から二丈へ減らした。また周末の酒専売や塩池・塩井の専売も廃した。
- 秘書監牛弘は、典籍が戦乱のたびに散逸し、周が集めた書も一万巻ほど、北斉の旧蔵を加えても一万五千巻ほどにすぎないとして、天下に遺書を求めるよう上表した。帝は従い、書一巻の献上ごとに絹一匹を与えると詔した。
吐谷渾侵攻と隋の人事
- 夏四月、吐谷渾が臨洮を侵し、洮州刺史皮子信は戦死した。だが梁遠が汶州から出てこれを破り、廓州でも州兵が撃退した。
- 壬申、隋は趙煚を尚書右僕射のまま内史令に兼ねさせた。
隋の対突厥方針
- 突厥がしばしば侵入したため、隋主は詔して、かつて周と斉が対立していた時代には、突厥への厚遇で一方の防衛を軽くしようとしたが、自分は民から重く取り立ててまで狼のような異族に施すつもりはないと宣言した。
- 将士には敵から奪った物で賞し、民には道路労役を休ませて農桑に従わせ、節約した国力で辺境を制するのが自分の方針だとし、今度の侵攻はむしろ天が突厥を滅ぼそうとしている徴だと述べた。
- そこで衛王爽を行軍元帥とし、八道に分かれて出塞し、突厥を討たせた。
白道の勝利と高宝寧の滅亡
- 衛王爽は李充・李徹らとともに朔州道から進み、白道で沙鉢略可汗と遭遇した。李充は、突厥は連勝に驕っているから奇襲すべきだと進言し、李徹だけがこれに賛成した。精騎五千で急襲すると、突厥軍は大敗し、沙鉢略は金甲を捨てて草中に隠れて逃げた。軍中は食糧が尽き、骨を砕いて粉にして糧とし、疫病でも多数が死んだ。
- 同時に、隂夀が盧龍塞を出て高宝寧を攻めた。宝寧は突厥に援軍を求めたが、突厥は隋軍に手を取られて救えず、宝寧は和龍を棄てて磧北へ逃げた。隂夀は懸賞をかけ、さらに離間策を用いたため、宝寧は契丹に逃げたのち部下に殺された。
郢州城主の降伏申し出と隋の外交
- 己丑、郢州城主張子譏が隋に降ろうとしたが、隋主はなお和好関係にあるとして受け入れなかった。
- 辛卯、隋は薛舒・王劭を陳へ派遣した。王劭は王松年の子である。
- 癸巳、隋主は大雩を行い、旱対策の祭を営んだ。
- 甲子、突厥は使者を隋に入見させた。
隋の官制整理
- 隋は度支尚書を民部、都官尚書を刑部と改称した。左僕射は吏・礼・兵三部、右僕射は民・刑・工三部を分掌し、光禄寺・衛尉寺・鴻臚寺および都水台を廃した。
梁太子入朝と阿波可汗の離反
- 五月癸卯、李晃が摩那度口で突厥を破った。
- 乙巳、梁太子琮が隋へ入朝し、遷都を祝賀した。
- 辛酉、隋主は方沢を祀った。
- 隋の竇栄定は九総管・歩騎三万を率いて凉州から出、阿波可汗と高越原で対峙した。京兆の史万歳は罪人として敦煌に配されていたが、自ら戦功を立てたいと願い出た。竇栄定はこれを喜び、単騎勝負に応じさせると、史万歳は敵の勇士を斬って帰還した。突厥軍は驚き、戦わずして盟を求めて退いた。
- 長孫晟はさらに阿波に対し、攝圖が日々勝利して威勢を増す一方、阿波は敗北を重ねて恥を受けており、このまま帰れば攝圖に滅ぼされると説いた。達頭はすでに隋と結んでいるのだから、隋に帰服して達頭と連携すべきだと勧めた。阿波はこれに従って使者を入朝させた。
- 沙鉢略は阿波の離反を聞き、先に阿波の本拠北牙を襲ってその母を殺した。阿波は達頭へ逃れ、達頭は怒って阿波を支援した。さらに貪汗可汗や地勤察らも沙鉢略を離れて阿波側に付き、突厥内部の内戦は激化した。各勢力は長安に使者を送り、和と援助を求めたが、隋主はいずれにも加担しなかった。
幽州での李崇の奮戦
- 六月庚辰、梁遠は爾汗山で吐谷渾を破った。
- 突厥は幽州にも侵攻し、幽州総管李崇は歩騎三千で迎え撃ったが、十余日にわたる転戦ののち砂城に籠もった。城は荒れて守りにくく、食糧も尽きたが、夜ごと敵営を襲って家畜を奪い、軍糧をつないだ。
- 突厥は李崇を畏れ、夜ごと陣を敷いて備えた。李崇軍は飢えと戦死でついに百人余りとなり、多くが重傷だった。突厥は降伏すれば特勒に封ずると誘ったが、李崇は敗軍の将として国家に死をもって報いると告げ、部下には生き延びて帝に自分の志を伝えよと言い、自ら刀を取って突入し、さらに二人を斬ったのち矢を受けて死んだ。
- 七月、隋は周揺を幽州総管とし、李崇の子李敏に広宗公の爵を継がせた。
李敏と楽平公主
- 李敏は楽平公主の娘娥英を妻とし、帝の娘婿に準じる一品の儀仗を仮に受けた。公主は、自分は天下を至尊に譲った身で、その唯一の婿なのだから柱国を求めてやると語り、他の官では礼を言うなと命じた。
- 帝がまず儀同・開府を授けても李敏は謝さず、最後に柱国を授けるとようやく拝して舞い喜んだ。帝も、公主には自分への大功があるのだから、その婿に官を惜しむことはできないと言った。
叔堅の形式的復帰
- 八月朔、日食があった。
- 長沙王叔堅は江州へ赴かず、なお都に留められて司空となったが、実際には権限を奪われた形であった。
隋の再出兵と陳の人事
- 壬午、隋は高熲を寧州道、虞慶則を原州道に出して突厥を討たせた。
- 九月癸丑、陳は大赦を行った。
- 冬十月、隋は河南道行台省を廃し、秦王俊を秦州総管として隴右諸州を統括させた。
- 陳では叔平を湘東王、叔敖を臨賀王、叔宣を陽山王、叔穆を西陽王に封じた。戊戌には徐陵が死去した。
- 癸丑にはさらに叔儉を安南王、叔澄を南郡王、叔興を沅陵王、叔韶を岳山王、叔純を新興王に封じた。
陳帝、隋主の肖像を恐れる
- 十一月、陳は周墳・袁彦を隋へ派遣した。後主は隋主の容貌が並外れていると聞き、袁彦に肖像を描いて持ち帰らせた。
- ところがその像を見るとひどく驚き、「私はこの人を見たくない」と言って、すぐに取り除かせた。
隋の郡廃止と州県整理
- 隋では律令頒行後、蘇威がたびたび細則を改めようとしたが、李徳林は、修律の時に言わず、頒行後にむやみに変えるべきではないと戒めた。
- 河南道行台兵部尚書楊尚希は、郡県の数が古代より多すぎ、百里にも満たぬ地に幾つも県があり、千戸に満たぬ郡も分けて置いているため、官吏ばかり多く民の負担が増していると論じた。十羊に九牧のようなものだから、不要な郡を廃して大きくまとめるべきだと述べた。
- 蘇威もこれに同調し、帝は甲午、全国の郡を廃して州に一本化した。
年末の使節往来と叔堅の失脚
- 十二月乙卯、隋は曹令則・魏澹を陳へ派遣した。魏澹は魏収の同族である。
- 丙辰、司空長沙王叔堅は免官された。叔堅は寵を失って心安からず、厭魅・祈祷を行い、日月に醮して福を求めたため、人に告発された。
- 後主は叔堅を西省に幽閉し、近侍に命じて罪を責めさせた。叔堅は、異心はなく、ただ再び親近されたいと願っただけだと弁明し、死ねば地下で叔陵に会うから、その場で詔して叔陵の罪を責めてほしいと述べた。後主はこれを聞いて殺さず、官を免じるだけにとどめた。
隋の重臣・法制・倉制・良吏論
- 隋では竇栄定が右武衛大将軍となった。帝は外戚である彼を三公にしようとしたが、栄定は、衛氏・霍氏・梁氏・鄧氏のような漢代外戚は身を慎まなかったため滅んだと辞退し、帝もこれを許した。
- 帝は李穆の功を重んじ、たとえ罪があっても謀逆でない限りは問わないと特詔した。
- 牛弘が明堂建立を願ったが、帝は草創の時期であるとして許さなかった。
- 刑部の報告で、なお年間の断獄が一万に及ぶのを見た帝は、律がまだ厳しすぎると考え、蘇威・牛弘らに再検討を命じた。その結果、死罪八十一条、流罪百五十四条、徒杖等千余条を削って、五百条・十二巻の新律に整理した。以後、刑網は簡素ながら要を失わず、大理寺には律博士と学生も置かれた。
- 長安の倉廩がまだ不足していたため、帝は蒲州から汴州に至る水運の十三州から丁を募って米を運ばせ、衛州に黎陽倉、陜州に常平倉、華州に広通倉を置き、関東・汾晋の粟を長安へ送らせた。
- 当時の刺史には武将出身者が多く、しばしば適任でなかった。治書侍御史柳彧は、和千子のような将才の人間を州刺史にするのは不適切だと上表し、帝はこれをよしとして任を解いた。
- 柳彧はまた、帝が日々あまりに細事まで裁決して疲弊していると諫め、経国の大事以外は有司に任せるよう勧めた。帝はその言を称賛し、「柳彧は国家の宝である」と言った。
- さらに柳彧は、正月十五夜の燃灯・遊戯が街路を埋め、浪費・淫乱・盗賊を招いているとして全国的禁止を奏請し、詔はこれに従った。