資治通鑑陳紀 世祖文皇帝 天嘉元年 560年

春正月――陳・北斉の改元と祭祀

  • 癸丑朔、陳の文帝は大赦を行い、天嘉と改元した。北斉でも大赦があり、乾明と改元した。
  • 辛酉、文帝は南郊を祭り、辛未には北郊を祭った。
  • 北斉の高陽王高湜は、機知に富む軽妙な言動と追従によって文宣帝に寵愛され、杖を持って諸王を打つほど専横であった。婁太皇太后はこれを深く恨み、文宣帝の死後、高湜を百余回杖打ちにした。高湜は癸亥に死んだ。
  • 北斉主高殷は晋陽から鄴へ帰った。

二月――王琳軍と侯瑱軍の決戦

  • 乙未、高州刺史紀機が侯瑱の軍営から逃げ帰り、宣城郡を占拠して王琳に呼応したが、涇県令賀当遷に討ち平らげられた。
  • 王琳が柵口まで進むと、侯瑱は諸軍を率いて蕪湖に駐屯した。双方は百余日対峙したが、春の増水によって東関を船が通れるようになると、王琳は合肥・漅湖の水軍を連ねて下った。
  • 侯瑱が虎檻洲に進み、王琳も長江西岸に船を並べた。翌日の戦いで王琳軍はやや退き、西岸に陣取った。その夜、強い東北風で王琳の艦船が砂洲に打ち上げられたため、翌朝に船を修理し、侯瑱も蕪湖へ退いた。
  • 北周は王琳が東下した隙を突き、荊州刺史史寧に数万を与えて郢州を襲わせた。孫瑒は城に籠もって守った。王琳は軍心の動揺を恐れ、蕪湖から十里の地点まで進み、その夜は陳軍にも警柝の音が聞こえた。
  • 北斉からは劉伯球の一万余、慕容子会の鉄騎二千が王琳を援助した。丙申、侯瑱は兵に早朝から炊事と食事を済ませて待機させた。
  • 王琳は急な西南風を天佑と思って建康へ直進したが、侯瑱がその後を追うと風向きが変わった。王琳の放った火は自軍の船を焼き、侯瑱は拍竿、牛皮で覆った蒙衝、溶鉄を用いて攻撃した。逆風下で火攻めを行ったことが、王琳敗北の決定的原因となった。
  • 王琳軍は大敗し、兵の二、三割が溺死した。岸へ逃れた者もほぼ殺され、北斉の歩兵は蘆荻の泥濘で踏み合い、騎兵も馬を捨てて逃げた。生き残った者は二、三割にすぎなかった。劉伯球・慕容子会は捕らえられ、死傷・捕虜は万を数え、梁・北斉軍の物資と兵器はすべて陳軍の手に落ちた。
  • 王琳は小舟で陣を突破して湓城へ逃れ、離散兵を集めようとしたが誰も従わず、妻妾・側近十余人と北斉へ亡命した。
  • 王琳が永嘉王蕭荘の護衛を命じていた袁泌と劉仲威のうち、袁泌は蕭荘を北斉領まで送り届けて帰還し、陳に降った。劉仲威は蕭荘に従って北斉へ入った。袁泌は、斉・梁間で名節を知られた袁昂の子である。樊猛と兄の樊毅も配下を率いて降り、これによって江南はすべて陳の支配下に入った。

北斉の人事と元氏解放

  • 北斉は文宣帝を武寧陵に葬り、廟号を高祖としたが、のち顕祖に改めた。
  • 戊戌、陳は王琳方に陥っていた衣冠士族、将帥、兵士を赦免し、能力に応じて官職を与えると詔した。
  • 己亥、北斉は常山王高演を太師・録尚書事、長広王高湛を大司馬・并省録尚書事、平秦王高帰彦を司空、趙郡王高叡を尚書左僕射とした。鄴の尚書省と、并州晋陽の尚書省が区別されていた。
  • 文宣帝によって官有または臣下所有とされた元魏宗室の良民身分の家族は解放された。ただし奴婢は対象外だった。
  • 乙巳、陳は侯瑱を湘・巴など五州の諸軍事都督として湓城に鎮守させた。

北斉宮廷の緊張

  • 文宣帝の喪中、婁太皇太后は常山王高演を立てようとしたが果たせず、高殷が即位した。高演は天子の服喪を理由に東館へ移され、政務はまず高演に諮ることになったが、楊愔らは高演と長広王高湛を警戒し、ほどなく高演を王邸へ帰した。
  • 「猛禽が巣を離れれば卵を探られる」と戒める者もいた。陽休之は高演が賓客を避けるのを批判し、録尚書事である以上、周公のように広く人材に会うべきだと王晞に語った。
  • 王晞は高演に、若い皇帝を康虎児ら他姓の者に委ねれば大権が他人へ移り、叔父である高演も藩邸に退いて家門を長く保つことはできないと説いた。そして周公が成王を補佐した例に倣うよう促した。ここでいう「家祚」は、皇室と盛衰を共にする高演自身の家運を指す。
  • 高殷が晋陽から鄴へ向かう際、執政者は高演を晋陽に残すことも、高湛を残すことも恐れ、二王をともに鄴へ同行させた。王晞は并州長史とされ、高演を郊外まで送ったが、監視を恐れた高演は王晞を城へ戻した。
  • 平秦王高帰彦は禁衛を統轄していたが、楊愔が随駕兵五千を晋陽に残して非常に備えたことを後から知り、楊愔を恨んだ。
  • 可朱渾天和は文宣帝の姉妹である東平公主を妻とし、二王を殺さなければ幼主は安泰でないと主張した。燕子献は婁太皇太后を北宮へ移して李皇太后に政権を返す案を立てた。
  • 楊愔は天保年間に濫発された爵賞を整理するため、自ら開府・開封王を辞し、濫恩を受けた者を罷免した。そのため失職した寵臣らは高演・高湛に集まった。
  • 高帰彦は当初楊愔・燕子献と結んだが、途中で二王側へ転じ、執政者が二王を疑っている事情をすべて知らせた。
  • 宋欽道は元来、太子に吏務を教えていた。二王の威権を除くよう皇帝に奏したが、皇帝は楊愔らと詳議せよと答えた。楊愔らは二王を地方刺史に出そうとし、李皇太后にも奏上したが、その内容は女官李昌儀から婁太皇太后に漏れた。李昌儀は高仲密の妻で、李太后と同姓であるため親愛されていた。

尚書省の政変と楊愔らの死

  • 高湛を晋陽鎮守、高演を録尚書事とする人事が決まり、乙巳、尚書省で百官の宴が開かれた。鄭頤は情勢が測り難いとして楊愔を止めたが、楊愔は出席した。
  • 高湛は家僕を高演の休息室に伏せ、賀抜仁・斛律金らと、酒を二杯勧めることを合図に楊愔らを捕らえる手筈を整えた。宴席で楊愔、可朱渾天和、宋欽道らは殴打され、燕子献も斛律光に捕らえられた。鄭頤は尚薬局で拘束された。尚薬局は門下省に属し、御薬を管理する北斉の官署だった。
  • 二王は高帰彦・賀抜仁・斛律金とともに楊愔らを押し立てて雲龍門へ突入した。都督叱利騒は呼びかけに応じず殺され、成休寧も抵抗したが、軍士の信望が厚い高帰彦に説かれて兵を収めた。
  • 高演が昭陽殿に入り、高湛と高帰彦は朱華門外に控えた。朱華閤内外の警衛は門下省の左右局、左右直長、左右衛将軍、武衛将軍以下が分担していた。
  • 皇帝と婁太皇太后、李皇太后が姿を現すと、高演は磚に額を打ちつけ、楊愔らが権力を独占して王公を恐れさせ、宗社を危うくしたため拘束したと釈明した。
  • 武衛娥永楽ら二千余の兵が武装して待機していた。婁太皇太后が武器を退けるよう厳命し、従わなければ即座に斬ると一喝すると、兵はようやく退いた。娥は姓であり、娥永楽は文宣帝に厚遇された剛勇の士であった。
  • 婁太皇太后は楊愔を殺さず使うべきだと一度は言ったが、李太后と皇帝を責め、鮮卑の自分たち母子を漢人の老女の判断に委ねるのかと怒った。高演は二心がなく、迫ってくる楊愔らを除きたいだけだと誓った。
  • 皇帝は叔父に対し、自分は楊愔ら漢人を惜しまないので命だけ助けてほしいと述べ、処置を一任して退いた。しかし結局、楊愔らは斬られた。鮮卑勢力が強く、漢人官僚だけでは幼主と自らを守れなかったのである。
  • 高湛は、以前自分を讒言した鄭頤の舌と手を切って殺した。高演は京畿兵に宮門を守らせ、娥永楽を華林園で斬った。華林園は魏武帝以来の鄴の園苑である。
  • 婁太皇太后は楊愔の死を悼み、御府の金で失った片目を作って遺体に納めた。高演も殺害を後悔した。
  • 当初は五家の家族を不問とすると詔したが、ほどなく家産を没収し、各家の一房を官没し、幼児まで死に、兄弟も除名された。王晞が強く諫めたため処分は一定範囲に抑えられた。
  • 趙彦深が楊愔に代わって機務を統括した。陽休之は、千里を行こうとして名馬を殺し、足の遅い驢馬を使うようなものだと嘆いた。騏驎は青黒色などの毛色を持つ名馬の呼称である。
  • 戊申、高演は大丞相・都督中外諸軍・録尚書事、高湛は太傅・京畿大都督となった。大丞相は爾朱栄・高歓も就いた、群臣を超越して君主を脅かし得る地位である。段韶は大将軍、高淹は太尉、高帰彦は司徒、高浟は尚書令となった。

衡陽王陳昌の帰還と殺害

  • 江陵陥落時、長城公世子陳昌と中書侍郎陳頊は長安へ連行されていた。高祖陳霸先がたびたび返還を求めたが、北周は高祖の死後に初めて陳昌を帰した。兄弟間の帝位争いを誘う意図だった。
  • 王琳が長江中流を押さえていたため陳昌は安陸に留まっていたが、王琳の敗北後、建康へ向かった。陳昌の書状は文帝に対して甚だ無礼だった。
  • 文帝は侯安都に、太子が帰れば自分は別の藩国で老後を送ることになると語った。侯安都は、現天子が交代させられる例はないとして、自ら迎えに行くことを願った。
  • 庚戌、陳昌は驃騎将軍・湘州牧・衡陽王となった。
  • 三月甲戌、陳昌が陳領へ入り、主書舎人が道々で迎えた。主書と中書舎人はいずれも君主に近い要職だった。丙子、陳昌は長江の中流で船から落とされ、溺死したと発表された。侯安都はこの功により清遠公へ進封された。清遠郡は南海郡翁源県付近に陳が置いた郡である。

三月――郢州・南川の平定

  • 高演が晋陽へ着くと、王晞に対し、以前その忠告を用いなかったため危うく破滅するところだったと述べた。王晞は、もはや人の道理だけで処置できる段階ではなく、天命に関わると答え、事実上即位を促した。
  • 趙郡王高叡が大丞相府長史、王晞が司馬となった。甲寅、軍国の政務をすべて晋陽へ申し、丞相高演の裁決を受けることになった。
  • 郢州では張世貴が外城を北周へ渡し、軍民三千余人が失われた。北周軍は土山・長梯・火攻めを用いたが、孫瑒は千人足らずの兵を自ら慰撫し、酒食を与えて死守させた。江陵での捕虜虐殺を恐れた郢州兵は結束し、北周軍を退けた。
  • 北周は孫瑒を柱国・郢州刺史・万戸郡公に任じようとした。孫瑒はいったん受諾するふりをして一日で守備を整え、再び抗戦した。王琳敗北と陳軍接近を知った北周軍が撤退すると、孫瑒は長江中流地域を挙げて陳に降った。
  • 王琳東下の際、文帝は周迪・黄法氍を召集したが、熊曇朗が豫章で水路を塞いだ。周迪らは周敷と包囲し、王琳敗北で熊曇朗軍が動揺すると城を落とし、男女一万余を捕らえた。熊曇朗は村人に斬られ、丁巳、その首が建康へ送られ、一族も滅ぼされた。
  • 戊午、魯山を守っていた北斉軍が撤退し、程霊洗が守備に入った。
  • 甲子、陳は沅州・武州を設置し、呉明徹を武州刺史、孫瑒を湘州刺史とした。武州は武陵郡を治所とし、沅州は旧都尉部の六県を分け、通寧郡を設けたものだった。
  • 孫瑒は不安を抱いて入朝を願い、中領軍に召されたのち、呉郡太守となって身を全うした。
  • 壬申、北斉は高孝珩を広寧王、高長恭を蘭陵王に封じた。

北周との通交と衡陽王家の継承

  • 毛喜は陳頊とともに長安へ連行され、陳昌と同時に帰国した。毛喜の和親策を受け、文帝は周弘正を北周へ遣わした。
  • 夏四月丁亥、皇子陳伯信を衡陽王に立て、諡号を献王とされた陳昌の祭祀を継がせた。

北周明帝の毒殺と武帝即位

  • 北周の明帝宇文毓は明敏で見識があったため、晋公宇文護に恐れられた。宇文護は膳部中大夫李安に命じ、糖䭔に毒を入れて献上させた。䭔は北方で食べられた丸い餅で、後世の焦䭔にもつながる食品とされる。膳部中大夫は冢宰に属する六命の官で、後世の光禄卿に近い。
  • 庚子、明帝は重篤となり、幼い皇子では国を担えないとして、寛仁で度量ある弟の魯公宇文邕に周室を託す五百余言の遺詔を口授した。
  • 辛丑、明帝は二十七歳で死去した。魯公は沈着で遠謀があり、問われない限り軽々しく発言せず、発言すれば要点を射た。
  • 壬寅、魯公宇文邕が北周皇帝、すなわち武帝として即位し、大赦した。宇文邕は宇文泰の第四子で、字は禰羅突である。

侯安都一族への恩遇

  • 五月壬子、北斉は劉洪徽を尚書右僕射とした。
  • 侯安都の父侯文捍が始興内史在任中に死去した。文帝はその母を建康へ迎えようとしたが、母は郷里に留まることを望んだ。
  • 乙卯、東衡州を再置し、侯安都の従弟侯暁を刺史、九歳の子侯秘を始興内史として、ともに郷里で母を養わせた。東衡州は梁代にも始興に置かれたが、いったん廃止されていたらしい。

六月から七月――葬礼と封爵

  • 壬辰、梁元帝を江寧に葬り、車旗・礼章は梁の制度に従った。元帝の棺は梁敬帝太平二年に北周から王琳へ返され、王琳敗北後に陳が得たものである。
  • 北斉は永安王・上党王の遺骨を収めて葬り、上党王妃李氏を邸宅へ帰した。かつて彼女を辱めた馮文洛が飾り立てて訪ねると、李氏はこれを階下に立たせ、百回杖打ちにした。
  • 秋七月丙辰、皇子陳伯山を鄱陽王に封じた。

高演の即位工作

  • 高演は、王晞の穏健さが武将の意に合わないことを恐れ、夜だけ密かに招いた。諸王・貴人から即位を迫られているので法で抑えるべきかと尋ねると、王晞は、幼帝側が宗族を遠ざけた以上、高演の行為はすでに通常の臣下の範囲を越えており、神器を退け続ければ天意と高歓の基業に背くと答えた。
  • 陸杳も出使前に王晞へ勧進を頼んだ。趙彦深は世論を知りながら恐れて言えなかったが、王晞とともに高演へ即位を勧めた。
  • 趙道徳は婁太皇太后に、高演が周公として成王を補佐せず、骨肉で帝位を争えば簒奪と呼ばれると訴え、太后も一度は同意した。
  • しかし高演が、天下の人心が定まらず変乱の恐れがあるので名位を早く定めたいと重ねて請うと、婁太皇太后は受け入れた。
  • 八月壬午、婁太皇太后は高殷を済南王に廃し、別宮へ移したうえで、高演に帝位を継がせた。ただし済南王を害さぬよう厳命した。これは後に高演が済南王を殺し、太后の怒りを受ける伏線となった。
  • 高演は晋陽で即位し、北斉孝昭帝となって大赦し、皇建と改元した。婁太皇太后は皇太后、李皇太后は文宣皇后と改称され、その宮を昭信宮とした。

孝昭帝の改革と孝行

  • 乙酉、孝昭帝は功臣の封爵継承、老人への礼遇、直言の募集、戦死者・名徳者への追贈などを命じた。
  • 王晞・陽休之・崔劼に、歴代の礼楽・職官・田制・市場・税制を検討させ、時宜に合わない慣行、廃れた良制、埋もれた人材、巧言で世を惑わす者を順次奏上させた。三人には朝夕に御膳を与え、日没後に退出させた。
  • 孝昭帝は官僚実務に通じ、文宣帝時代の弊害を大きく改めたが、細事まで自ら扱うとして批判された。裴沢が率直にその点を述べると、帝は即位当初なので漏れを恐れているだけで、長く続けるつもりはないと笑って答え、裴沢を厚遇した。
  • 従兄弟の庫狄顕安には家族同様に欠点を述べさせた。顕安が、かつて文宣帝の鞭打ちを非難しながら自ら行うのは言行不一致だと批判すると、帝は手を取って謝った。また天子というより吏のように細かすぎると言われると、長年の無法を整えた後は無為へ移るつもりだと答えた。
  • 孝昭帝は群臣の直言を穏やかに受け入れ、孝心も篤かった。母后の病中は四十日近く帯を解かず、自ら食事と薬を扱い、母が心痛に苦しむと自分の掌を爪で傷つけ、痛みを代わろうとした。
  • 戊子、高湛を右丞相、高淹を太傅、高浟を大司馬とした。

秋から冬――湘州をめぐる陳・北周戦

  • 北周の軍司馬賀若敦は一万を率いて突然武陵へ進んだ。軍司馬は大司馬府の属官で、後世の兵部郎中に近い。呉明徹は防げず、巴陵へ退いた。
  • 江陵陥落後、巴・湘地方は北周領となり梁人が守っていた。侯瑱らが湘州に迫ると、賀若敦は歩騎を率いて救援し、勝ちに乗じて湘川へ深入りした。
  • 九月乙卯、独孤盛も水軍で進み、辛酉、陳は徐度を侯瑱と合流させた。秋の洪水で北周軍の補給が断たれると、賀若敦は略奪で糧食を得た。
  • 賀若敦は陣中に土盛りを多数作って表面を米で覆い、村人に見せて釈放し、食糧豊富と思わせた。これは檀道済が砂を米に見せかけた故事と同種の策だった。さらに営塁・廬舎を増築して長期滞在を装い、湘州・羅州間の農業を停滞させた。
  • 土民が小舟で侯瑱軍へ食糧を運ぶと、賀若敦は同じ姿の舟に伏兵を乗せ、陳兵を誘って捕らえた。また舟を恐れる馬を利用し、亡命者を装った兵を迎えに来た陳兵を伏兵で殺した。このため侯瑱軍は、その後の本物の補給舟や投降者まで疑って攻撃するようになった。
  • 冬十月癸巳、侯瑱は西江すなわち湘江口の楊葉洲で独孤盛を破った。盛は上陸して築城し、自守した。
  • 丁酉、陳は司空侯安都を侯瑱に合流させ、南征させた。
  • 十一月辛亥、北斉は元氏を皇后、五歳の高百年を皇太子に立てた。

盧叔虎の対北周戦略

  • 孝昭帝は盧叔虎を太子中庶子に任じ、時務を問うた。中庶子は太子宮の門下坊を率い、侍中に似た職である。盧叔虎は盧柔の従叔にあたる。
  • 盧叔虎は、北斉の富強を生かして平陽に堅固な鎮を築き、北周の蒲州と対峙すべきだと説いた。蒲州は河東の蒲坂に置かれた州である。
  • 深溝・高塁を築き、北周が出なければ河東を蚕食し、出れば十万以上を動員させて関中の物資を消耗させる。北斉軍は毎年交替させ、戦いを避け、退却時に追撃すれば、人口が少なく城の遠い長安以西では農業も荒廃し、三年以内に北周は自壊するという策だった。
  • 孝昭帝はこの意見を高く評価した。ただし実際には、北斉は表面上富強でも基盤が揺らぎ、北周は表面上貧弱でも基盤が堅固だった。

冬――北辺遠征と刑政

  • 孝昭帝は自ら庫莫奚を討ち、天池へ進んだ。庫莫奚は文宣帝築造の長城北へ逃れ、北斉軍は牛羊七万を得て帰った。
  • 十二月乙未、孟春から夏初まで、罪状を認めた死刑囚の執行を停止し、秋冬まで待つよう詔した。「款」は囚人が罪を認めたことをいう。
  • 己亥、北周の巴陵城主尉遅憲が陳に降り、侯安鼎が守備した。庚子、独孤盛は楊葉洲から密かに逃れ、賀若敦はさらに孤立した。
  • 丙午、孝昭帝は晋陽へ帰った。

孝昭帝と王晞

  • 孝昭帝が宮殿前で人を斬り、その者は死刑相当かと王晞に問うと、王晞は罪は相当だが処刑場所が不適切だと答えた。刑人は市で公開して社会から排除すべきで、殿庭は刑場ではないという『礼記』王制の趣旨である。帝は謝罪し、以後改めると約束した。
  • 帝は王晞を侍中にしようとしたが、王晞は固辞した。若い頃から権勢家の多くが短期間で転覆するのを見ており、自分も時務に不向きで、寵愛が衰れてから退こうとしても退路がないためだと説明した。原史料の「侍郎」は「侍中」の誤りと考えられる。

北斉の屯田

  • 文宣帝末には穀価が高騰したが、済南王高殷の時、蘇珍芝の建議で石鼈などに屯田を開き、淮南の守軍は自給できるようになった。石鼈は楚州安宜県西方にあり、鄧艾が築城して白水塘と接続させた地である。
  • 孝昭帝の即位後、嵇曄の建議で督亢陂に屯田を置き、毎年数十万石を収穫して北辺を潤した。督亢は涿州新城県付近で、荊軻が秦へ献じた地図に関わる地域である。河内にも懐義などの屯田を設け、河南への輸送負担を軽減した。