資治通鑑梁紀二十二 敬皇帝 太平元年 一 556年
正月 西魏、六官制を創設
- 正月丁丑、西魏は周礼を模した六官制度を正式に始めた。宇文泰は太師・大冢宰、李弼は太傅・大司徒、趙貴は太保・大宗伯、独孤信は大司馬、于謹は大司寇、侯莫陳崇は大司空となり、以下百官もおおむね周礼に倣って再編された。
杜龕の滅亡と王僧辯旧党の離散
- 朝廷は王僧辯事件の共謀者について不問としたが、陳霸先はなお各地の反抗勢力を平定していった。
- 江旰を徐嗣徽のもとへ遣わし南帰を説かせたが、徐嗣徽はかえってこれを捕えて斉に送った。
- 陳蒨と周文育は呉興の杜龕を攻めた。杜龕は勇気はあったが謀に乏しく、酒を好んでしばしば酔っていた。将の杜泰はひそかに陳蒨らと通じ、敗戦後には降伏を勧めた。杜龕の妻王氏は、陳霸先とは深い仇であり和議は不可だとして私財を投じて兵を励まし、一度は陳蒨らを大破した。
- しかしその後、杜泰が陳蒨に降ると、杜龕はなお酔っていて事態に気づかず、捕え出されて項王寺前で斬られた。従弟杜北叟や司馬沈孝敦も処刑された。
- 王僧智・王僧愔兄弟は北斉へ奔った。どのような経緯で逃れたかは史料に食い違いがあるが、要するに王僧辯旧党は江南で立場を失った。
二月 東方の平定
- 東揚州刺史張彪は王僧辯に厚遇されていたため陳霸先に従わず、会稽方面で抵抗した。庚戌、陳蒨と周文育が軽兵で襲い、張彪は敗れて若邪山中へ逃げ込んだが、章昭達に追われて斬られた。
- 東陽太守留異は陳蒨に兵糧を送って協力したので、陳霸先はこれを縉州刺史とした。
侯瑱への備え
- 江州刺史侯瑱はもと王僧辯の配下で、豫章・江州に兵を持ってなお陳霸先に服さなかった。そのため陳霸先は周文育を南豫州刺史として湓城攻撃に向かわせた。さらに侯安都・周鉄虎に梁山へ柵を築かせ、江州方面に備えた。
三月 王琳と後梁、そして北斉の大軍南下
- 徐嗣徽・任約は采石を襲って守将張懐鈞を捕え、斉へ送った。
- 後梁主は公安で侯平を攻撃したが破れ、長沙王韶とともに長沙へ引き返した。王琳は侯平を巴州に鎮させた。
- 朝廷は古銭と今銭の併用を命じた。
- 戊戌、北斉は蕭軌・庫狄伏連・堯難宗・東方老らに十万の兵を授け、徐嗣徽・任約と合流させて梁山に向かわせた。黄叢がこれを迎撃して破ると、斉軍は蕪湖に退いて陣した。陳霸先は沈泰らに梁山を守らせ、湓城を攻めていた周文育を呼び戻した。
四月 梁山方面の攻防と西魏の世子冊立
- 陳霸先は自ら梁山に赴いて諸軍を巡撫した。
- 侯安都は歴陽の司馬恭を軽兵で襲い、大勝して万単位の捕虜を得た。
- 西魏では、宇文泰が後継者をめぐって群臣に諮り、嫡子の略陽公宇文覚を世子に立てた。李遠が、立太子は嫡を先にすべきであって長幼で決めるべきではないと主張し、独孤信への配慮も問題にする必要はないと断言したためである。
五月 建安公淵明の死と斉軍の再侵攻
- 北斉は建安公蕭淵明を呼び返し、退兵を装った。陳霸先は舟を整えて送ろうとしたが、癸未、蕭淵明は背中の腫瘍が悪化して死去した。
- 甲申、斉兵は蕪湖を発し、庚寅に丹陽県へ入り、丙申には秣陵故治に至った。
- 陳霸先は周文育を方山に、徐度を馬牧に、杜稜を大航南に置いて防がせた。
五月末から六月 方山・倪塘・白城の会戦
- 辛丑夜、斉軍は淮水に橋柵を作って方山方面に兵を渡した。徐嗣徽らは青墩から七磯まで艦船を並べ、周文育の帰路を断とうとした。
- 周文育は夜明け前にこれを突破し、反撃に転じた。徐嗣徽の驍将鮑砰が小艦で殿軍を務めたが、周文育は小舟から跳び込んでこれを斬り、その船を奪って帰った。
- 徐嗣徽らは船を蕪湖に残して丹陽から徒歩で北斉本隊に合流し、陳霸先も梁山方面の侯安都・徐度らを呼び戻して迎撃態勢を整えた。
- 癸卯、斉軍の遊騎が建康近郊に現れて都中は震え、敬帝は禁兵を率いて長楽寺に駐屯した。陳霸先は白城で徐嗣徽らと対峙し、風向きが不利だから戦うべきではないといったんは言ったが、周文育が今は急を争うと先陣し、ほどなく風も転じて敵に損害を与えた。
- 侯安都は耕壇南で徐嗣徽らと戦い、わずか十二騎で敵陣を突き破った。斉の儀同三司・乞伏無労も生け捕りとなった。
- その一方で陳霸先は精兵三千をひそかに沈泰に与え、瓜歩で斉の行台趙彦深を襲わせ、艦船百余艘と粟一万斛を奪った。
六月 鍾山・幕府山・玄武湖の決戦
- 甲辰、斉兵は鍾山方面へ進み、侯安都は龍尾で王敬宝と戦ったが、軍主張纂が戦死した。
- 丁未には斉軍が幕府山に至り、陳霸先は錢明に江乗方面から斉の兵糧船を襲わせてこれを尽く捕獲させた。斉軍は食糧に窮し、馬や驢馬を殺して食べた。
- 庚戌、斉軍は鍾山を越え、陳霸先は楽遊苑東と覆舟山北に諸軍を分屯させて要路を塞いだ。壬子、斉軍は玄武湖西北から北郊壇を奪おうとし、両軍は覆舟山周辺で対峙した。
- 連日の大雨で、斉軍は一丈余の泥水の中で立ち坐りし、足指が腐るほどであった。釜を高く吊って炊く有様で、これに対し台城内と潮溝北路は比較的乾いていたため、梁軍は交替休養ができた。とはいえ四方が塞がって建康の食糧も乏しく、民戸も流散して徴発できなかった。
- 甲寅、やや晴れると、陳霸先は市人から麦飯を集めて兵に分けたところへ、陳蒨が米三千斛と鴨千羽を送ってきた。陳霸先はそれを炊き、兵に荷葉で包ませて鴨肉を添え、決戦に備えさせた。
- 乙卯未明、陳霸先は幕府山から出撃した。侯安都は部将蕭摩訶に、その勇名を今日こそ見せよと言い、戦場で自ら落馬して包囲されたとき、蕭摩訶は単騎で突入して斉軍を崩し、主将を救い出した。
- 陳霸先・呉明徹・沈泰らの軍は前後から総攻撃し、侯安都も白下から敵後へ回ったため、斉軍は大潰走となった。数千を斬獲し、踏み合って死ぬ者は数え切れなかった。徐嗣徽と弟嗣宗は生け捕られて斬られ、臨沂まで追撃が及んだ。江乗・摂山・鍾山など各地の梁軍も続けて勝利した。
- 蕭軌・東方老・王敬宝ら将帥四十六人が捕えられ、江へ逃れる兵は荻で筏を組んで渡ろうとしたが、中流で溺れ、屍が京口まで流れ着いて水面をふさいだ。任約と王僧愔だけは脱した。
- 丁巳、梁軍は南州から出て斉の舟艦を焼き、戊午には大赦、己未には戒厳を解いた。兵士たちは俘獲を酒に替えたが、一人一度酔える程度であった。庚申、蕭軌らを斬った。これを聞いた北斉も人質の陳曇朗を殺した。陳霸先は南徐州を侯安都に与えるよう願い出た。
王琳・侯平・侯瑱
- 侯平はたびたび後梁軍を破っていたが、王琳の兵威が届かなくなると命令に従わなくなった。王琳が討伐軍を出すと、侯平は巴州助防呂旬を殺し、その兵を奪って江州へ走った。侯瑱はこれと義兄弟の契りを結び、王琳の勢力はさらに衰えた。
- 王琳は乙丑、斉に上表して馴象を献じた。また魏にも帰順を示して妻子の返還を求め、梁にも臣従の姿勢を見せるという、三方に対する外交を行った。
- 交州など南方から象を得る手法について、胡三省は雌象で雄象を誘い、欄と落とし穴で捕え、のちに調教する方法を詳しく説明している。
北斉の文宣帝の暴虐
- この年、北斉では顕祖がますます酒に溺れ、狂暴さを募らせた。裸形に粉黛を塗り、驢馬・牛・駱駝・白象に鞍勒もなく乗り回し、左右に担がせ、太鼓を叩かせて徘徊した。
- 夏冬を問わず常軌を逸した行動を取り、母の婁太后に杖で打たれると逆に暴言を吐き、酔いがさめると自ら罰を求めるなど、情緒も極端だった。
- 李后の母崔氏を鳴鏑で射たり、楊愔を厠籌や鞭で辱めたり、棺に入れて運んだり、小刀で腹を裂こうとしたりもした。裴・王紘・李集らの直諫に対しても、時に笑って赦し、時に殺そうとするなど予測不能だった。
- 一方で記憶力はきわめて強く、違法行為の抑止も厳しかった。政務は楊愔に委ねられ、楊愔は人材登用や行政整理にすぐれたため、当時は「君主は上で昏く、政治は下で清い」と評された。
七月 西南・江州方面の再編
- 甲戌、前天門太守樊毅が武陵を襲って武州刺史衡陽王蕭護を殺した。王琳は司馬潘忠に討たせ、樊毅を捕えて連行した。蕭護は蕭暢の孫である。
- 丙子、陳霸先は中書監・司徒・揚州刺史となり、長城公から義興公へ進んだ。
- 豫章方面では余孝頃が新呉に柵を築いて侯瑱に対抗していた。侯瑱は従弟侯奫に豫章を守らせ、自ら余孝頃を包囲したが落とせなかった。そこへ侯平が攻め込み、豫章を大掠して焼き、建康へ走ったため、侯瑱の兵は潰れ、湓城に退いて将焦僧度に寄った。
- 焦僧度は侯瑱に斉への亡命を勧めたが、陳霸先の使者蔡景歴が江を渡って説得し、侯瑱はついに建康へ赴いて罪を謝した。陳霸先はそのために侯平を誅し、丁亥、侯瑱を司空に任じた。
- 南昌の豪族熊曇朗も豊城に拠って勢力を増し、侯瑱敗走の際にはその兵仗を得て勢いを増した。
- 西魏は王琳に使者を送り、王琳も席豁を返して、元帝と愍懐太子の柩の返還を願った。宇文泰はこれを許した。
八月 王琳の動きと西魏・北斉の諸事
- 鄱陽王蕭循は江夏で死去し、弟の豊城侯蕭泰が郢州を監督した。
- 王琳は兗州刺史呉蔵を江夏攻撃に出したが、落とせず、呉蔵は戦死した。
- 西魏では宇文泰が北河を渡って巡行した。魏の江州刺史陸騰は陵州の叛乱獠を討ち、城下で音楽を奏して敵を油断させ、三面から急襲して大勝した。
- 北斉主は西巡の出発に際し、百官を紫陌で囲ませて一挙に殺そうとしたが、是連子暢の諫めで思い直した。
九月 改元と西北方面
- 壬寅、梁は大赦して太平と改元し、陳霸先を丞相・録尚書事・鎮衛大将軍・揚州牧・義興公とした。王通は右僕射となった。
- 突厥の木杆可汗は凉州を通って吐谷渾を襲いたいと願い、西魏の宇文泰は史寧に騎兵を率いさせて随行させた。史寧は、散兵を追うより樹敦・賀真の両城という根拠地を奪うべきだと進言し、木杆も従った。
- 木杆は賀真を破って夸呂の妻子を捕え、史寧も樹敦を破って征南王を捕虜にし、青海で会した。木杆は史寧の勇決を称えて厚く贈った。
- 甲子、王琳は舟師で江夏を襲った。
十月 宇文泰の死
- 壬申、豊城侯蕭泰は郢州を北斉に降した。
- 北斉は山東の寡婦二千六百人を軍士に配偶させたが、夫のある女まで奪われる例が少なくなかった。
- 西魏の安定文公宇文泰は北巡からの帰途、牽屯山で病に倒れ、中山公宇文護を急召した。宇文泰は、我が子らはまだ幼く、外敵は強いので天下のことをお前に託す、と宇文護に遺言した。
- 乙亥、宇文泰は雲陽で死去した。宇文護は長安へ帰って喪を発した。宇文泰は質素を好み、政治に明達で、儒学と古制を重んじ、施策の多くを三代の制度に倣って整えた人物として評価された。
- 丙子、世子宇文覚が嗣ぎ、太師・柱国・大冢宰となって同州に出鎮した。年十五であった。
- 宇文護は名望がまだ低かったが、于謹が群公会議で、国家再建は安定公のおかげであり、その遺児が幼くとも宇文護は兄子であり遺命を受けた以上、軍国のことは彼に帰すべきだと強く主張した。群公もこれに従い、宇文護が内外を総裁する体制が定まった。
十一月 王琳の帰長沙
- 辛丑、豊城侯蕭泰は北斉へ奔り、北斉はこれを永州刺史とした。
- 北斉は王琳を司空に召したが、王琳は辞して赴かず、将の潘純陀に郢州を監督させ、自らは長沙へ帰った。まもなく西魏から妻子も返された。
北斉の州郡整理
- 壬子、北斉主は、魏末以来の豪傑たちが私的な請託で州郡を濫設し、小さな集落に州郡の名だけを掲げているため、費用ばかりかかり人口に比して官が多すぎるとし、三州・百五十三郡を併合整理した。
- また江州の四郡を分けて高州を置き、黄法氍を刺史として巴山に鎮させた。
十二月 周への禅譲準備
- 壬申、曲江侯蕭勃は太保となった。
- 甲申、西魏では宇文泰の葬儀が行われ、丁亥、世子宇文覚は岐陽に封じられて周公となった。宇文氏が周制を模していたため、周の興った岐を国号の象徴として用いたのである。
- この頃、臨川では周続の死後に周廸・周敷らが郡中を掌握していた。周廸は質朴で農桑を励まし、兵があっても日常は素足で縄をなうような人物だったため、人々はこれに帰した。
- 北斉では、西河総秦戍から海辺まで長城を築き続け、前後あわせて三千余里に及んだ。十里ごとに一戍、要害には州鎮二十五所を置いた。
- 庚子、西魏恭帝はついに周公宇文覚への禅譲を詔し、大宗伯趙貴が冊書と帝璽を奉じた。恭帝は大司馬府へ退去し、西魏は終わり、周が立つ段取りとなった。