資治通鑑梁紀十三 高祖武皇帝 大同元年 535年

正月:西魏の新帝即位と体制整備

  • 春正月、梁では大赦を行い、元号を大同に改めた。
  • 同日、西魏では文帝が長安城西で即位し、大赦して大統と改元した。父の京兆王を文景皇帝、母の楊氏を皇后として追尊した。
  • 西魏では、丞相の宇文泰が都督中外諸軍・録尚書事・大行台となり、安定公に封ぜられた。王号は固辞したため公にとどまった。
  • 斛斯椿を太保、広平王元贊を司徒とし、のち文帝は乙弗氏を皇后、子の欽を皇太子に立てた。乙弗皇后は仁愛・倹約で嫉妬心がなく、文帝の深い信任を受けた。

可朱渾道元の東魏帰順

  • 西魏の渭州刺史・可朱渾道元は、侯莫陳悦の死後いったん宇文泰に服したが、もともと高歓と親しく、母方の兄たちも鄴にいたため、ひそかに東魏と通じていた。
  • 宇文泰がこれを討とうとすると、道元は部衆三千戸を率いて烏蘭津を渡り、霊州から雲州へ抜けて東魏へ奔った。東魏の高歓は彼を迎え、車騎大将軍に任じた。

東魏で孝武帝服喪をめぐる議論

  • 道元が晋陽に着いたころ、高歓は西へ逃れていた孝武帝の死を知った。
  • 高歓は東魏朝廷に対し、孝武帝のために喪礼を行うよう求めた。博士の間では、礼をもって遇されなかった旧君には服喪しないという反対論と、離反の事情が完全には明白でない以上は服すべきだという賛成論が出た。
  • 東魏は後者を採り、孝武帝に服喪した。

稽胡の劉蠡升討伐

  • 稽胡の首領・劉蠡升は、孝昌年間以来、自ら天子を称し、神嘉と改元して雲陽谷に拠っていた。西魏辺境は長くその侵害を受けていた。
  • 壬戌、東魏の高歓がこれを急襲して大破した。

高歓と世子高澄の確執

  • 渤海世子の高澄は、高歓の愛妾・鄭氏と密通したと告発され、高歓は澄を杖打ち百回のうえ幽閉し、婁妃とも引き離した。
  • 高歓は、爾朱氏との間に生まれた子・高浟を立てようと考えた。
  • 司馬子如は婁妃の功績と夫妻・嫡庶の秩序を説き、さらに取り調べをやり直して証言を覆させたため、告発は虚偽とされた。
  • 高歓は高澄と婁妃を呼び戻して和解し、司馬子如に厚い褒賞を与えた。

華州奇襲と王羆の奮戦

  • 東魏は司馬子如・竇泰・韓軌らを潼関方面に進めたが、途中で方針を変え、蒲津から夜に渡河して華州を急襲した。城の修築は未完成で、梯子も城外に置かれたままだった。
  • 東魏兵は明け方に侵入したが、刺史の王羆は寝所から飛び起き、裸身・徒跣で白木の棒を持って大声で突撃した。
  • その勢いに東魏兵はひるみ、王羆の配下も集結して反撃し、東魏軍を撃退した。司馬子如らは撤退した。

二月:梁・東魏の政務と洛陽宮殿撤去

  • 二月、梁の武帝は明堂を祀り、ついで籍田を耕した。
  • 東魏では咸陽王坦を太傅、西河王悰を太尉とした。
  • また高隆之に十万人を徴発させ、洛陽の宮殿を取り壊して、その建材を鄴へ運ばせた。

兗州の樊子鵠平定

  • 東魏の婁昭らは兗州を攻め、樊子鵠の配下・厳思達が守る東平を陥れた後、瑕丘を包囲した。
  • 婁昭が水攻めを行っている最中、大野抜が樊子鵠に面会してその場で斬首し、東魏に降った。
  • 樊子鵠は兵力不足を補うため老人や子供まで動員していたが、主将が死ぬと兵は散亡した。
  • 諸将は住民も残らず処刑すべきだと勧めたが、婁昭は賊に苦しめられた民をさらに殺すべきでないとして放免した。

三月:劉蠡升勢力の最終壊滅

  • 三月、東魏は高盛を太尉、高敖曹を司徒、済陰王暉業を司空とした。
  • 高歓は劉蠡升に和睦と婚姻を装って油断させ、そのすきを突いて攻撃した。
  • 辛酉、蠡升は北部王に斬られて降伏し、残党はその子を立てたが、高歓はさらに追撃してこれも捕らえた。
  • 皇后・諸王・公卿四百余人、住民五万余戸が捕虜となり、高歓は壬申に鄴へ凱旋した。
  • その後、孝武帝の后を彭城王韶に嫁がせた。

宇文泰の新制と蘇綽の登用

  • 宇文泰は、戦乱続きで官民が疲弊しているとして、古今を折衷しつつ時勢に適した二十四条の新制を定め、施行した。
  • その過程で、武功出身の蘇綽が台中で高く評価されていることを知り、著作郎に抜擢した。
  • 宇文泰が漢の旧池を訪れた際、群臣が由来を答えられない中、蘇綽だけが詳細に説明したため、宇文泰はその才を確信した。
  • その夜、宇文泰は蘇綽から政治の要諦を聞き続け、翌朝には大行台左丞として機密を参与させた。
  • 蘇綽は文書の起案・審査方式、計帳・戸籍制度を整え、後世にも多く踏襲された。

侯淵の反乱

  • 東魏は封延之を青州刺史として侯淵の後任にした。
  • 任を失った侯淵は不安から広川で反乱を起こし、夜襲で青州南郭を奪って郡県を掠奪した。
  • 夏四月、高歓は済州刺史の蔡儁に討伐を命じた。
  • 侯淵の部下は離反が相次ぎ、侯淵は南朝へ逃れようとしたが、道中で漿売りに斬られ、その首は鄴へ送られた。

元慶和の東魏侵攻と東魏の備え

  • 元慶和は東魏の城父を攻めた。
  • 高歓は高敖曹を項に、竇泰を城父に、侯景を彭城に向かわせ、任祥を東南道行台僕射として諸軍を統轄させた。
  • 五月、西魏では宇文泰に柱国の号を加えた。
  • 元慶和はさらに東魏の南兗州に迫ったが、東魏側の韓賢がこれを防ぎ、六月には堯雄が南頓で元慶和を破った。

七月:蜀方面と東西の檄文

  • 七月、西魏では念賢を太尉、万俟寿洛干を司徒、越勒肱を司空とした。
  • 梁の益州刺史・鄱陽王範と南梁州刺史・樊文熾は晋寿を包囲し、西魏の東益州刺史・傅敬和は降伏した。傅敬和は傅豎眼の子である。
  • 西魏は詔を出し、高歓の二十の罪を数え、皇帝自ら宇文泰とともに討伐すると宣言した。
  • これに対し高歓も檄文を発し、宇文泰と斛斯椿を逆徒と呼び、大軍を西征させるとした。

八月:東魏内部の疑獄と鄴新宮建設

  • 東魏では、済陰王暉業と七兵尚書薛琡が西魏に通じているという告発があり、辛卯に晋陽へ送られたが、官を免ぜられるだけで済んだ。
  • 甲午、東魏は民七万六千人を徴発して鄴に新宮を造営し、高隆之と辛術に南城の築造を命じた。城周は二十五里であった。

趙剛の帰還と亡命者招致工作

  • 趙剛は南方の蛮中から東魏の東荊州刺史・李愍に会い、彼を説いて西魏に帰順させることに成功した上で、長安へ至った。
  • 宇文泰は趙剛を左光禄大夫とした。
  • 趙剛はさらに、梁に逃れていた賀抜勝・独孤信らを呼び戻すよう宇文泰に進言し、自ら使者となって梁へ向かった。

秋冬の人事・刑罰・訃報

  • 九月、東魏は襄城王旭を司空とした。
  • 十月、西魏の太師・長孫稚が死去した。
  • 西魏の秦州刺史・王超世は宇文泰の母方の兄であったが、驕慢で賄賂にふけったため、宇文泰の請奏により死を賜った。
  • 十一月、梁の侍中・中衛将軍の徐勉が死んだ。范雲ほど峻烈ではないが、へつらわず節を守る宰相として並び称された。

東魏の門火災と任忻集の誅殺

  • 東魏主は円丘を祀った。
  • 新築の閶闔門が焼失した。造営当初、高隆之は門の西南がわずかに高いことを見抜いたが、巧みを誇る太府卿・任忻集は修正を拒んでいた。
  • 火災後、高隆之は任忻集が西魏と内通して焼かせたと讒言し、高歓はこれを斬った。

南鄭降伏と高洋の評価

  • 北梁州刺史・蘭欽が南鄭を攻めると、西魏の梁州刺史・元羅は州を挙げて降伏した。
  • 東魏では高歓の子・高洋を驃騎大将軍・開府儀同三司とし、太原公に封じた。
  • 高洋は外見こそ愚鈍に見えたが、内心は明敏で決断力があり、高歓だけが早くからその非凡さを認めていた。乱れた糸を断ち切って「乱れは断つべし」と言った逸話や、模擬奇襲で兄弟たちが狼狽する中、平然と兵を指揮した話が伝えられる。
  • 逃亡していた楊愔も召し戻され、太原公の開府司馬、のち大行台右丞となった。

十二月:禄制と地方平定

  • 十二月、東魏では文武百官に職務の軽重に応じて俸禄を支給することとした。
  • 西魏では念賢を太傅、河州刺史・梁景叡を太尉とした。
  • この年、鄱陽で妖賊の鮮于琛が上願と改元して挙兵し、一万余を集めたが、鄱陽内史・陸襄が討ち取った。党与の取り調べも濫刑なく、公正であったため民に称えられた。
  • 柔然の頭兵可汗は東魏に婚姻を求め、高歓は常山王の妹を蘭陵公主として嫁がせた。
  • 柔然はたびたび西魏を侵していたが、西魏の中書舎人・庫狄峙が赴いて和親を約したため、以後は大きな侵攻をやめた。