資治通鑑梁紀十二 高祖武皇帝 中大通 六年 534年
正月 高歓の西方進出と魏帝の不満
- 春正月壬辰、魏の丞相・高歓は河西で紇豆陵伊利を討って捕え、その部落を河東へ移した。
- 孝武帝はこれを非難し、伊利は侵略も叛乱もしていない忠臣なのに、なぜ使者一人も先に立てず討ったのかと責めた。
二月 各地の事件と賀拔岳暗殺
- 東梁州で民や夷が反乱を起こし、詔により泉企がこれを討って平定した。泉企は商洛地方の豪族の出で、代々その地に勢力を持っていた。
- 壬戌、魏は大赦を行い、癸亥、梁の武帝も籍田を耕して大赦した。
- 魏の永寧寺の浮図が焼け落ち、見物した人々が城中に響くほど泣き悲しんだ。
- 賀拔岳は曹泥を討とうとして、都督・趙貴を夏州へ送り宇文泰と相談させた。宇文泰は、遠隔の孤城たる曹泥よりも、貪欲で不実な侯莫陳悦を先に除くべきだと進言したが、賀拔岳は従わなかった。
- 賀拔岳は高平で侯莫陳悦と会して共に曹泥を討とうとしたが、悦は翟嵩の離間策を受け、賀拔岳を謀殺するつもりでいた。悦は賀拔岳を自陣へ誘い入れ、軍議の最中に元洪景に斬らせた。部下たちには「命を受けて狙うのは一人だけだ」と言って動揺を抑えたが、その後の処置を決めきれず、水洛城へ退いた。
- 賀拔岳の軍は平凉へ散り、薛憕は「才略に乏しい悦が良将を殺した以上、自分たちはいずれ他人の虜になる」とひそかに嘆いた。
宇文泰、賀拔岳軍を掌握する
- 賀拔岳の死後、諸将は最年長の寇洛を推して全軍を統べさせようとしたが、寇洛に威望がなく自ら辞退した。
- 趙貴と杜朔周らは、英略が群を抜く宇文泰を迎えるべきだと主張し、杜朔周が軽騎で夏州へ急報した。
- 宇文泰は幕僚と去就を議した。韓褒は「これは天授の機会だ」と勧めた。慎重論もあったが、宇文泰は、侯莫陳悦は賀拔岳を殺した勢いで平凉へ直入せず水洛へ退いた時点で器量が知れる、好機は失いやすいとして、ただちに赴く決断を下した。
- その前に、夏州の首望である都督・弥姐元進が悦に内応しようとしているのを察知し、帳下都督・蔡祐と謀ってこれを誅した。席上で蔡祐が鎧を着て刀を持って入り、姦人の首を断つと一喝すると、諸将はみな従った。宇文泰は蔡祐を特に信任し、父子の約を結んだ。
- 宇文泰は軽騎で平凉へ急行し、杜朔周には先に弾箏峡を押さえさせた。道中、民が逃散すると兵は掠奪したがったが、杜朔周は賊討ちに乗じて民を虐げてはならぬとして抑え、民をなだめて返した。その評判は遠近に広まり、宇文泰も深く賞して、彼の旧姓・赫連を復させて達と名乗らせた。
- 高歓は侯景を派して賀拔岳の残軍を取り込もうとしたが、宇文泰は安定でこれに会うと、「賀拔公は死んでも宇文泰は生きている。お前は何をしに来た」と言い放った。侯景は気色を失い、自分は人に射られる矢にすぎないと答えて引き返した。
- 宇文泰が平凉に着いて賀拔岳の死を哭すると、将士は悲しみつつも心を一つにした。高歓はさらに侯景・張華原・王基らを遣わして慰問させたが、宇文泰は受けず、留まれば富貴を共にし、さもなくば命はないと迫った。張華原は脅迫に屈しないと応じ、宇文泰は結局これを帰した。
- 魏主は元毗を平凉へ遣わして賀拔岳軍を慰撫し、洛陽へ召還しようとしたが、すでに軍は宇文泰を主と仰いでいた。宇文泰は元毗を通じて上表し、自分は賀拔岳の急死に際して諸将に推されて仮に軍を統べているにすぎず、今ただちに入京させれば侯莫陳悦が後ろから迫り、高歓が前で邀撃し、国を損なうと述べ、しばらくの猶予を求めた。帝はこれを認め、宇文泰を大都督として賀拔岳軍の統帥を正式に委ねた。
宇文泰、関中で勢力を固める
- 賀拔岳配下の李虎は、いったん荆州へ走って賀拔勝に軍の掌握を勧めたが容れられず、宇文泰が継いだと聞いて引き返した。閿郷で高歓側の別将に捕えられ洛陽へ送られたが、孝武帝は関中経略のため厚遇し、宇文泰のもとへ帰した。李虎は涼の李歆の後裔とされる。
- 宇文泰は侯莫陳悦へ書を送り、賀拔岳の恩を受けながら国賊の高氏に与し、宗廟を危うくしていると責め、もし隴を下って東へ帰洛するなら自分も北道から同行するとし、二心あれば兵を交えると警告した。
- また孝武帝には、悦を内官へ召すか、瓜州・凉州の一藩に出しておかなければ、必ず後患になると上表した。
- 原州では、もと賀拔岳に親しかった史帰が、河曲の変以後は侯莫陳悦に従い、その党の王伯和・成次安が兵二千を率いて援けていた。宇文泰は侯莫陳崇に軽騎一千で夜襲させ、高平令・李賢兄弟の内応もあって史帰らを生け捕りにした。宇文泰は侯莫陳崇に原州の事務を代行させた。
三月から四月 侯莫陳悦滅亡
- 三月、宇文泰は原州まで進軍し、諸軍をここで集結させた。
- 四月癸丑朔、日食があった。
- 南秦州刺史・李弼は侯莫陳悦に、賀拔公には罪がなかったのにこれを害し、しかもその軍を収めなかった以上、宇文夏州が仇討ちを掲げて来れば敵しがたい、兵を解いて謝罪すべきだと説いたが、悦は聞かなかった。
- 宇文泰は木狭関を越えて上隴し、行軍は厳整で秋毫も民から取らず、百姓は大いに喜んだ。大雪の中を倍道兼行して悦の不意を衝き、悦は略陽へ退き、水洛の守兵は降った。さらに宇文泰が迫ると悦は上邽に退き、李弼を呼んで防がせた。
- 李弼は悦が必敗と見てひそかに宇文泰へ通じ、配下には侯莫陳公は秦州へ戻るつもりだと偽って上邽へ急がせ、自ら先に城門を押さえて城ごと宇文泰に降った。宇文泰はただちに李弼を秦州刺史に任じた。
- その夜、悦は出戦しようとしたが、軍は自ら驚いて潰えた。悦は猜疑心が強く、敗れてから側近も信じず、弟二人・子・賀拔岳殺害の共犯らだけを連れて逃亡した。数日あてもなく逡巡したのち、左右に勧められて霊州の曹泥へ頼ろうとしたが、山中で賀拔頴の追騎を望見すると、野中で縊死した。
- 宇文泰は上邽へ入り、薛憕を記室参軍に引き立てた。侯莫陳悦の府庫には財宝が山積していたが、宇文泰自身は何も取らず、すべて将士へ分け与えた。側近が銀の甕を盗んだと知ると、これを罪して取り上げ、あらためて将士に分配した。
孫定児討伐と西方諸勢力の整理
- 悦の党・孫定児は豳州に拠って数万の兵を擁し降らなかった。宇文泰は劉亮に急襲させた。劉亮は遠征軍が来るとは思っていない定児の不意を衝き、高嶺に纛を立てて大軍来襲に見せかけ、自ら二十騎で城内へ突入した。酒席にいた孫定児は驚き、斬られた。城内は威圧されて敢えて動かなかった。
- もと魏に捕らえられていた氐王・楊紹先は、魏の混乱に乗じて武興へ帰り、再び王を称していた。涼州刺史・李叔仁も民に捕われ、氐・羌・吐谷渾が各地で蜂起し、南岐州から瓜州・鄯州にかけて州郡を占拠する者が数えきれなかった。
- 宇文泰は、李弼を原州、抜也悪蚝を南秦州、可朱渾道元を渭州に置き、趙貴には秦州の事を代行させたうえ、豳・涇・東秦・岐四州から兵糧を徴発した。楊紹先はこれを恐れて藩属を称し、妻子を人質として送った。
于謹の建言と孝武帝との連携
- 夏州長史・于謹は宇文泰に、関中は険固で兵も勇く土地も豊かであり、洛陽の天子は群兇に逼られているので、誠意を尽くして関右への遷都を請い、天子を奉じて諸侯を令し、王命をもって叛乱を討つべきだと進言した。宇文泰はこれを善しとした。
- 高歓は宇文泰が秦隴を平定したと聞くと、使者を遣わして甘言と厚礼で結ぼうとしたが、宇文泰は応じず、その書を封じて張軌に持たせ、孝武帝へ献じた。
- 斛斯椿が張軌に、今や人心が頼るのは西方だけだが宇文泰は賀拔岳と比べてどうかと問うと、張軌は文は国を治めるに足り、武は乱を定めるに足ると答え、椿はこれなら頼りになると喜んだ。
- 孝武帝は宇文泰に騎兵二千を東雍州へ出して後援させ、さらに徐々に東進するよう命じた。宇文泰は梁禦に歩騎五千を率いさせて先行させた。
- これに先立ち、高歓は韓軌に兵一万を率いさせて蒲坂を押さえ、侯莫陳悦を救おうとしていた。雍州刺史・賈顕度は船でこれを迎えたが、梁禦に説得されて宇文泰に転じ、長安へ迎え入れた。
- 孝武帝は宇文泰を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大都督・略陽県公とし、承制封拝の権を与えた。宇文泰はこれにより寇洛・李弼・張献らを要地に任じた。南岐州刺史・盧待伯が交代命令に従わないと、軽騎で襲って捕えた。
洛陽政局の混迷
- 侍中・封隆之は、高歓に、斛斯椿らが京師で禍乱を起こすと告げた。隆之は孫騰と平原公主の婚姻を争い、公主が自分に嫁いだため、孫騰が以前の発言を椿に漏らした。椿が帝へ知らせたので、隆之は恐れて郷里へ逃げ、高歓に召された。孫騰も武器を帯びて省内に入り御史を殺した罪を恐れて高歓のもとへ走り、婁昭も病を口実に晋陽へ帰った。こうして高歓の側近は洛陽からほぼいなくなった。
- 孝武帝は斛斯椿を兼領軍とし、新たな都督を設け、さらに河内・関西の刺史を改置した。
- 高歓は大都督・邸珍に命じ、徐州の華山王鷙から管鑰を奪わせた。建州刺史・韓賢、済州刺史・蔡儁も高歓党であったため、帝は建州を廃して韓賢を外し、蔡儁の罪を挙げて汝陽王叔昭に代えさせようとした。高歓は蔡儁は功臣で罷免すべきでなく、また自分の弟・永宝を定州からどけて賢者へ道を譲らせるべきだと上表したが、帝は聞かなかった。
五月から六月 孝武帝の挙兵準備
- 五月丙子、孝武帝は勲府庶子と騎官を増員し、宿衛兵力をさらに拡大した。
- 帝は晋陽を討つ意図を持ちつつ、表向きには梁を討つと称して河南諸州の兵を集め、洛陽南の洛水から北の邙山にかけて大閲を行い、自ら軍装して斛斯椿とともにこれを観閲した。
- 六月丁巳、帝は密かに高歓へ詔し、宇文泰や賀拔勝に異志があるから、南伐を装って備えをしたのであり、高歓も呼応して備えてほしい、読み終えたら焼けと命じた。
- 高歓はこれを受けると、荆州・雍州に逆謀ありとして、河東・来違津・荆州方面・山東方面からそれぞれ大軍を動かす構えを表にした。帝は高歓が変を察知したと知り、その表を群臣に見せて何とか軍を止めようとした。
- 高歓も并州で僚佐と議し、表を返して、陛下は嬖佞のため自分を疑っただけであり、もし真に赤心を信じるなら、佞臣一、二人を廃黜してほしいと迫った。
七月前夜 西遷をめぐる議論
- 帝は源子恭を陽胡、汝陽王暹を石済に守らせ、賈顕智を済州刺史として斛斯元寿とともに東へ進ませた。蔡儁は交代を拒み、帝はますます怒った。
- 辛未、帝は洛中の文武百官の意見を再び集めて高歓に答えさせ、温子升に勅書を書かせた。その内容は、帝は高歓のおかげで帝位に就いたのであり、本来は高歓と争う気はない、南伐は宇文泰・賀拔勝の異動に備えるためだった、高歓が本当に忠誠を尽くすなら隆之・孫騰らを斬って送るべきだ、四道から軍を進めるのはどう見ても疑わしい、といったものであった。
- 王思政は帝に、洛陽は守りに適した地ではなく、宇文泰は王室に忠であるから関中へ行幸して旧都に帰るべきだと進言した。帝もこれを深く是認した。
- 散騎侍郎・柳慶が高平の宇文泰のもとへ派遣され、時局を論じた。宇文泰は車駕を迎えたいと願った。柳慶が帰ると、帝はなお荆州行きも考えていたが、柳慶は関中こそ形勢の要であり、荆州は梁に迫られて依るべき地ではないと答えた。閤内都督・宇文顕和もまた西行を勧めた。
- 東郡太守・裴侠が洛陽に着くと、王思政が時局を問うた。裴侠は、宇文泰はすでに険要の地で三軍に推戴されているから、人に権柄を譲るはずがなく、西へ寄れば湯を避けて火に入るようなものだと述べた。ただし高歓を今ただちに討つ危険も大きいので、とりあえず関右へ赴き、そこで機宜を図るのがよいとした。王思政もこれに同意し、裴侠を帝に推して左中郎将とした。
高歓の遷都準備と帝の対決姿勢
- 以前から高歓は洛陽が長い戦乱で荒れているとして鄴への遷都を望んでいたが、帝は太和以来の旧都を守るべきだと退けていた。ここに至って高歓は再び遷都を謀り、建興に三千騎を置き、河東・済州の兵を増し、諸州に和糴を行って鄴へ粟を運び込んだ。
- 帝は高歓に、真に人心を安んじたいなら河東兵を帰し、建興の戍を解き、相州の粟を送り返し、済州軍を追還し、蔡儁を交代させ、邸珍を徐州から退けるべきだと命じた。もし南へ兵を向けて王鼎の軽重を問うなら、自分も社稷のため決して止まれないと告げた。
- 高歓は上表して、宇文泰と斛斯椿の罪悪を並べ立てた。
- 広寧太守・任祥は、兼尚書左僕射・開府儀同三司を加えられたが、官を棄てて河を渡り、高歓に呼応して郡に拠った。
- 帝はついに北来の文武官には去就を任せると勅し、高歓の罪悪を数えた制書を下した。
- 賀拔勝にも行在所へ来るよう命じた。勝が太保掾・盧柔に問うと、盧柔は、ただちに都へ赴いて高歓と勝負するのが上策、もしできぬなら魯陽以北・旧楚以南を合わせて観変するのが中策、梁へ逃れるのは下策だと答えた。しかし勝は笑うだけで従わなかった。
- 孝武帝は宇文泰を兼尚書僕射・関西大行台とし、馮翊長公主を娶らせると約し、楊荐に、騎兵を送って迎えに来るよう伝えさせた。宇文泰は駱超らを先に洛陽方面へ送り、自らも迎接の準備をした。
七月 高歓と孝武帝の決裂、西魏への逃走
- 高歓は弟の高琛に晋陽守備を命じ、崔暹を補佐につけ、自ら南へ出兵した。軍に向かって、自分はただ斛斯椿を討つのみで、天子には背かないと宣言した。
- 宇文泰もまた州郡へ檄を飛ばして高歓の罪を数え、自ら高平を発して前軍を弘農に進めた。賀拔勝は汝水方面に布陣したが、本格的には動かなかった。
- 七月己丑、孝武帝は十余万の兵を河橋に屯させ、斛斯椿を前駆として邙山北に陣させた。椿は精騎二千で夜襲を提案したが、楊寛が、もし椿に功を立てさせれば第二の高歓を生むだけだと帝を諫めたので、中止となった。椿は天道がそうさせるのかと嘆いた。
- 宇文泰はこの報を聞き、高歓は数日で八九百里を行軍した疲兵だから今こそ撃つべきなのに、帝は黄河を渡って決戦せず津を守るだけだ、長大な河防はいずれ破られると見抜いた。そこで趙貴を別道行台として蒲坂から并州方面へ進ませ、李賢には精騎一千で洛陽へ向かわせた。
- 帝は斛斯椿・長孫稚・元斌之を虎牢へ、長孫子彦を陜へ、賈顕智・斛斯元寿を滑台へ配した。高歓は竇泰を滑台へ、韓賢を石済へ進ませた。
- 長寿津で竇泰と対した賈顕智は、ひそかに高歓へ降る約束をして退いた。軍司の元玄が急報し、帝は侯幾紹を援軍に送ったが、滑台東の戦いで賈顕智は降り、侯幾紹は戦死した。
- 北中郎将・田怙は高歓の内応者で、歓はその案内で野王まで密かに進んだ。帝はこれを知って田怙を斬ったが、高歓は河の北十余里まで迫り、二度使者を送って真情を伝えたものの、帝は答えなかった。
- 丙午、高歓は黄河を渡った。群臣の議は、梁へ逃れる、賀拔勝に依る、関中へ行く、洛口で死守する、など定まらなかった。
- 元斌之は斛斯椿と権を争って椿のもとを離れ、帝に「高歓兵はすでに至った」と虚報した。丁未、帝は椿を呼び戻し、南陽王宝炬・清河王亶・広陽王湛らとともに五千騎で瀍水西に宿した。だが衆は帝の西出を知ると、その夜のうちに半ば以上が逃散し、亶と湛も逃げ帰った。
- 武衛将軍・独孤信だけは単騎で帝を追って付き従い、帝はその忠義を深く感じた。
- 戊申、孝武帝はついに長安へ向けて西奔した。李賢が崤の中でこれを迎えた。己酉、高歓は洛陽へ入り、永寧寺に宿した。婁昭らに帝を追わせ東還を求めたが及ばず、長孫子彦は陜を守れず捨てて走った。高敖曹も陜西まで追ったが間に合わなかった。
- 帝は道中きわめて窮乏し、糗や漿も尽きて二、三日は澗水ばかり飲んだ。湖城では王思村の民が麦飯と壺漿を献じ、帝は喜んで一村の租税を十年免じた。稠桑に至って、潼関大都督・毛鴻賓が酒食を献じ、従官らはようやく飢渇を解いた。
八月 長安入りと高歓の洛陽掌握
- 八月甲寅、高歓は百官を集め、国家がここまで乱れたのに大臣たちは平時に諫めず、急時に君を見捨てたと厳しく責めた。辛雄らは事情を知らず、帝に従っても佞臣と見なされるのを恐れ、高歓を待っていたのだと弁明したが、高歓はこれを許さず、辛雄・叱列延慶・崔孝芬・劉廞・楊機・元士弼らを殺した。
- 高歓は清河王亶を大司馬として推し、承制決事を行わせ、尚書省に居らせた。
- そのころ宇文泰は趙貴・梁禦に甲騎二千を率いさせて帝を迎えさせ、自らも河西を循って進んだ。帝は黄河を見て、もし再び洛陽に戻って陵廟に拝することがあればそれはお前たちの功だと言い、左右とともに涙を流した。
- 宇文泰は東陽駅で帝に謁し、冠を脱いで泣き、自分が賊を防げず車駕を播遷させた罪を謝した。帝もまた、徳のなさゆえに賊を招いたが、今日より社稷を委ねると答えた。将士は万歳を叫んだ。
- 帝は長安に入り、雍州の官舎を宮室にあて、大赦した。宇文泰を大将軍・雍州刺史・兼尚書令とし、軍国の大政はみな彼に決せしめた。さらに二人の尚書を別に置き、毛遐・周惠達に機務を分掌させた。両者は兵糧・器械・士馬の整備に尽力し、この創業期の魏朝を支えた。
- 宇文泰は馮翊長公主を娶り、駙馬都尉となった。
- 梁の武帝は、以前に熒惑が南斗に入り、去ってまた戻り、長く留まった時、俗諺に従って裸足で殿を下り禳いを行っていたが、孝武帝が西奔したと聞くと、天象はむしろ異民族の帝にも応じたのかと恥じた。
- 己未、梁は武興王楊紹先を秦・南秦二州刺史とした。
- 辛酉、高歓は自ら西へ進み、魏主を追って迎え戻そうとした。戊辰、清河王亶は大赦を布いた。
九月 潼関争奪と賀拔勝の失策
- 九月癸巳、高歓は元子思に侍官を率いさせて帝を迎えに行かせ、己酉には潼関を攻め落として毛鴻賓を捕え、華陰長城へ進んだ。龍門都督・薛崇礼も城をもって高歓に降った。
- 賀拔勝は長史・元穎に荆州の事務を代行させ、自ら軍を率いて西の関中へ向かったが、淅陽に至って高歓がすでに華陰にいると聞くと、引き返そうとした。行台左丞・崔謙は、今こそ行在所に参じて宇文泰と力を合わせ、大義を唱えるべきで、ここで退けば人心は離れると諫めたが、賀拔勝は聞かず、ついに還軍した。
- 高歓はその後、河東へ退き、薛瑜に潼関を守らせ、厙狄温に封陵を守らせて蒲津西岸に城を築き、薛紹宗を華州刺史として置き、高敖曹には豫州の事を行わせた。高歓自身は晋陽へ戻った。
- そして侯景らを荆州へ向かわせると、荆州民の鄧誕らが元穎を捕えて侯景に応じた。賀拔勝がこれに至ると侯景が逆撃し、勝は敗れて数百騎だけで梁へ奔った。
- これより前、孝武帝は密かに趙剛を遣わし、東荆州刺史・馮景昭に援軍を求めていた。帝はすでに西入関していたが、景昭は司馬・馮道和の高歓方に従えという意見を、趙剛が刀を投げて忠臣であるなら斬れと迫ったことで翻し、ついに関中へ赴こうとした。
- しかし侯景が穰城へ迫る中、東荆州の民・楊祖歓らが兵を起こして景昭を途中で阻み、景昭は敗れ、趙剛は蛮地で没した。
十月 東魏孝静帝の擁立
- 十月、高歓は洛陽へ戻ると、また僧・道栄に表を持たせて孝武帝へ送り、もし一通の制書で帰京を許されるなら宮禁を粛清して迎えたいが、復帰がないなら宗廟に主が必要だと述べた。帝はなお答えなかった。
- 高歓は百官・耆老を集めて新君擁立を議した。当時、清河王亶は出入りにすでに警蹕を称していたが、高歓はこれを醜んだ。そこで、孝昌以後は宗廟の昭穆が乱れ、永安年間には孝文帝を伯考とし、永熙年間には孝明帝を夾室へ移したことが、帝業の短命の原因だと理屈を立てた。
- そのうえで、清河王懌の孫・善見を立てて帝とし、亶には、お前を立てるより子を立てる方がよいと言った。亶は不安になって軽騎で南へ逃げたが、追われて連れ戻された。
- 丙寅、善見は洛陽城東北で即位し、年は十一、改元して天平とした。ここから魏は東西に分かれることになる。
西魏の関中固めと東魏の鄴遷都
- 宇文泰は潼関を攻め、薛瑜を斬って兵七千を捕え、長安へ還った。
- 東魏の行台・薛修義らが河を渡って楊氏壁を占拠すると、河東の薛端が村民を糾合してこれを撃退し、楊氏壁を奪回した。宇文泰は蘇景恕を南汾州刺史としてここを守らせた。
- 丁卯、梁は元慶和を鎮北将軍として東魏討伐に向かわせた。
- 孝武帝と高歓が対立していた頃、斉州刺史・侯淵、兗州刺史・樊子鵠、青州刺史・東莱王元貴平らは情勢を見て相互に結んでいた。侯淵も高歓と通じていたが、孝武帝の西入関後、清河王亶は汝陽王暹を斉州刺史に任じた。暹が来ると、斉州民の劉桃符らがひそかに暹を迎え入れ、侯淵は騎兵を率いて走った。ところが途中で、承制により自分が青州の事を行うと聞き、再び東へ向かった。
- 高歓は侯淵に、斉人は利に従うから青州でも必ず門を開くだろうと書き送った。淵は東に戻り、元貴平が代を受けず、高陽郡を襲ってこれを抜いた。城内に輜重を置き、自分は軽騎で外を掠めた。
- 元貴平は世子に兵を率いさせて高陽を攻めさせたが、侯淵は東陽へ急ぎ、食糧を運ぶ民に対して「官軍はもう高陽へ着き皆殺しにした、自分は世子の配下だ」と偽った。民が糧を捨てて逃げると、夜明けにはさらに「官軍は昨夜すでに高陽に入った。自分は前鋒だ」と吹聴したため、城民は恐れて元貴平を縛り、降伏した。戊辰、侯淵は元貴平を斬って首を洛陽へ送った。
- 庚午、東魏では趙郡王諶が大司馬、咸陽王坦が太尉、高盛が司徒、高敖曹が司空となった。
- 高歓は洛陽が西魏に近く梁境にも迫るとして、鄴への遷都を決めた。命令からわずか三日で実施し、丙子、東魏主は洛陽を発した。四十万戸が狼狽して移住し、百官の馬も徴発され、尚書丞郎以上で随従しない者には驢馬を乗り物としてあてがった。高歓は後処理を終えると晋陽へ戻った。
- 司州は再び洛州と改められ、元弼が洛州刺史として洛陽を守った。司馬子如・高隆之・高岳・孫騰らが鄴に留まり朝政を共に取り仕切った。
- 遷民の生業が立つまで、粟百三十万石を支給して救済した。六坊のうち孝武帝に従って西へ行った者は一万人にも満たず、残りはみな北遷し、常廩と春秋の帛を受けることになった。さらに通常税のほか、豊作地では絹を折納させて粟を買い上げ、国用にあてた。
年末 西魏の新帝擁立と荆州方面の攻防
- 十二月、宇文泰は李虎・李弼・趙貴を遣わして霊州の曹泥を討たせた。
- 閏月、梁の元慶和は瀨郷を攻め取って拠った。
- 魏の孝武帝は閨門に礼を失い、嫁していない従妹三人をいずれも公主に封じていた。平原公主明月は南陽王宝炬の同母妹で、帝に従って関中へ来ていたが、宇文泰は元氏諸王に命じてこれを取って殺させた。帝はこれを不快に思い、弓を引いたり机を叩いたりして怒りを示し、再び宇文泰との間に隙が生じた。
- 癸巳、孝武帝は酒宴の最中に毒を盛られて崩じた。年二十五。
- 宇文泰と群臣は後継を議し、多くは広平王贊を推したが、侍中・濮陽王順は、高歓は幼主を立てて専権しているのだから、それに反して長君を立てるべきだと主張した。そこで太宰・南陽王宝炬を迎えて立てた。宝炬は孝文帝の孫、京兆王愉の子である。
- 孝武帝は草堂寺に殯された。諫議大夫・宋球は慟哭して吐血し、数日間ほとんど口に物をしなかったが、宇文泰は名儒であるとして罪に問わなかった。
- いっぽう賀拔勝がかつて荆州にいた時、独孤信を大都督に薦めていたため、西魏は独孤信を三荆州都督・尚書右僕射・東南道行台大都督・荆州刺史として送り、旧部や蛮酋の招撫を図った。
- 蛮酋・樊五能は淅陽郡を破って西魏に呼応した。東魏の西荆州刺史・辛纂は討伐しようとしたが、李広は、淅陽は険阻の一城にすぎず、今の急務は根本たる州城を固めることだと諫めた。辛纂は聞かず、兵を出して敗れ、将たちが逃散して城民も独孤信を招いた。
- 独孤信が武陶に至ると、東魏は恒農太守・田八能に諸蛮を率いさせて前を塞がせ、さらに張斉民に歩騎三千を率いさせて後ろを断たせた。独孤信は、少兵で首尾に敵を受けるなら、退いて張斉民を撃てば土民は自分が敗走したと思って襲ってくる、むしろ前の田八能を破れば後軍も崩れると判断し、その通りにして勝った。
- その勢いで穰城を襲うと、辛纂は出戦して大敗し、城門へ逃げ込もうとしたが間に合わなかった。独孤信の前駆・楊忠が、官軍はすでに到着し城内にも内応がある、生きたければ逃げよと城門の守兵を叱りつけると、守兵は散り、楊忠は兵を率いて入城した。辛纂は斬られ、城中は震え服した。
- 独孤信は兵を分けて三荆を平定したが、半年ほどすると東魏の高敖曹・侯景が大軍で急襲してきた。独孤信は兵が少なく防ぎきれず、楊忠とともに梁へ奔った。